• 尺八の歴史

    尺八の語源については諸説がある。古代中国では長さの基準に、黄鐘:(こうしょう)の音を使っていた。黄鐘(こうしょう)とは、中国の黄帝が宮廷でふく笛で、一番元となる長さの笛の音高である。
    長さの基準として黒キビを90粒の長さを9寸と定めたが、この笛の音が黄鐘音である。笛は、音が同じ高さ(振動数)で有るなら、それらの笛の長さも相等しい(容積)、と言うことから笛が長さの基準として使われたのである。
    尺八の名称はこの、黄鐘管の寸法をを通称名として使われるようになったといわれる。
    この音から三分損益によって派生した音をつかい音階を作る。この中国の黄鐘音は日本の黄鐘(おうしき)とは違いニ(D)音となる。
    この辺が非常にややこしいが、元もと中国では長さの基準として使われていた黄鐘管が、日本では一越と言う音名であったの一越が楽器の基本音のようになったので有ろうと考えられる。和音名の一越とは、ド、レ、ミのレ音である。(時代によって違いド(C)音と説く書もある)。尺八でも基本となる尺八は、一尺八寸の長さを持った筒音(ツツネ=一番下の音)が”一越”の音高の笛のことである。
    唐の洞簫という笛を尺八とも言う。あるいは虚鐸とも言う。現在もはっきりした語源は分からない。
    尺八は、真竹と言う種類の竹を使い、竹の表側4つ、裏孔が1つの五つの指孔を開けた楽器である。前述したように、孔を全部塞いだ場合の音はD音である。表孔が6つで裏孔が1つの7孔尺八と言うものや九孔のものもあったが基本は3孔である。
    長さは一寸ごとに約半音違うので、民謡や詩吟の伴奏では、半音ずつ違う尺八を、一オクターブ分、計一二本を用いて伴奏することがある。
    昨今は長管(ちょうかん)と言って二尺五寸やもっと長い、低音の尺八を使う人もいる。
    尺八は流派によって歌口(吹き口)や、五孔(後ろ穴)の位置が微妙に違っている。代表的なものは、琴古流、都山流、明暗の三種である。また、尺八の構造からすると、中程で二つに分かれていて、継ぎ合わせするものと、継ぎのない1本ものにいわゆる延べという尺八がある。前者は、明治中期に一丸定吉が開発したとも言われる。

    尺八の起源については、エジプトで芦の茎を使った芦笛が生まれ、それが中央アジア経由で印度に入り、そこから中国に伝わったと言われる。日本には、飛鳥以前の時代に大陸から楽人が渡来したときに尺八も含まれていたと言う。正倉院に多孔尺八が残されていることから雅楽に取り入れられていたものと考えられる。また、聖徳太子が椎坂(信貴山あたり)にて尺八を吹いていると山神が現れ舞ったと伝う。また、8世紀頃、円仁(慈覚大師)が、唐から戻ったおり持ち帰り声明に使ったという(空より声有り、”ヤ”をいれよ、とお告げがあった云々=このヤとは間合いのかけ声のようなものであろうか?)。この尺八は一節切であろう言われるが不明。この後、「伝統古典尺八覚え書」(値賀笋童著)によれば、平安時代後期(1150頃)には、雅楽には全く使われなくなって了ったという。どうなったのかというと、次第に組織が縮小されて遂には廃止された雅楽寮で人員整理された楽人達から、盲目法師・猿楽法師・田楽法師などの民間にその芸が伝えられていったと考えられる。鎌倉時代初期に出た、『教訓抄』に尺八を「今は目闇法師猿楽之を吹く」・・・・と述べられていることなどからも窺いしれる。
    室町時代には一節切と言う短管の基本音が黄鐘の尺八が現れる。一休宗純がこの笛を愛好したものである。
    この一節切も三味線の流行と共に廃れ、江戸時代に至ってはすっかり姿を消してしまう。替わって、現在の様な長い尺八を法器とする普化宗という組織が現れる。現在の尺八はこの普化尺八の使っていた尺八の流れを汲んでいる。尺八史を説く上で注意しなくては成らないのは、普化宗という宗教組織と尺八についての関わりについての、一種独特の思いこみの入った間違った歴史観が史実として流布しているので注意を要する。

  • 虚鐸伝記:京都明暗寺の文献の一つ。普化の系譜、普化禅師のこと、張伯から張参を経て、法燈国師を経て寄竹に至る伝承について述べられている。「虚鐸伝記」本そのものは不明であり、唯一の手がかりになるのがこの虚鐸伝記を書写したと言われ、寛政7年に著した山本守秀の「虚鐸伝記国字解」(上巻、中巻、下巻)が唯一の手がかりである。しかし、元々から、「虚鐸伝記」と言う元本は無かったのではないかとも言われ、疑問が持たれている本である。では何故この本が出されたのかと言えば、当時は幕府から、虚無僧寺に対して、かなり不審の目で見られていたたので、これらを払拭するために、いかにも古い歴史ある宗派で有る、ということを演出する目的で創作されたと言う説もある。前述の間違った歴史観とはこの本を根拠としているからである。
    【概説】 普化禅師が鐸を振って鎮州市内を巡っていた。張伯なる者が一緒に廻ることを請うたが断られたので、笛を作り、師のふる鐸の音を模して吹いた。このことから、この笛のことを”虚鐸”という(音曲を吹いていた訳ではない)。
    その後、16世孫の参が護国寺に学んでいたとき、日本の学心も学んでいた時の雑談で虚鐸のことを知り、教えを請う。妙音を学び日本に帰国。日本では紀州西方寺に住んでいた頃、弟子に寄竹なる者がいてこの者に虚鐸を教える。他に国佐、理正、法普、宗怒の四人も学んでいた。この四人を四居士という。寄竹は後、旅に出るが、このとき道々戸ゴトに笛を吹いた廻った。そして、勢洲朝熊山虚空蔵堂に至り、堂でうつらうつらしているときに、夢中にて海上の小舟に乗り、独り月明かりを眺めていた。その時、急に霧がかかりその霧の中から笛の音が聞こえてきた。またこの霧が一箇所に集まりると、その中から再び妙音が聞こえてきた。これらの妙音を虚鐸によって模して二曲にして、師(学心)に聴かせ、名付けてもらう。先のものを”霧海じ”、後者は”虚空じ”と言う。この二曲は世人が強いて請う場合のみ吹奏したという。また虚鈴という言葉は尺八のことであり、元は虚鐸と言ったが”鐸”を知らない人間が”鈴”と言う当て字をして、虚鈴と呼び、いつの間にか尺八の別称であったことも分からずに、”曲名”と勘違いしたものであり、大いに古義を失している・・・等々と書かれている。
  • 何れにしても、普化と言う名の中国の居士の思想が、どういう訳か日本で普化宗という宗教組織として存在し、尺八が法器となり明治維新まで引き継がれたのが不思議なことです。また、法燈国師が尺八を伝えたという節もあるようですがこれも納得できない話であります。が、確かなことは江戸中期以降、普化宗という尺八を吹く集団があったと言う事実です。

    この普化宗は明治4年に廃宗となり以降、宗教から解放された尺八は先輩諸師の工夫改良の結果、各方面に活躍するようになりました。