サンフランシスコツアー報告

 1998年、1999年、大阪ダルク支援センター主催で、二度にわたるサンフランシスコ研修ツァーを実施しました。

’98 報告 (第1回)

  私たちツアーの一行が、法廷に入る間もなく審理が始まった。初老の男性が被告席に立っている。法服を着た判事が、被告席ににこやかに歩み寄る。「おめでとう。卒業だよ」、被告を抱きしめる判事。弁護士も検察官も観察官も、そして黄色い囚人服を着た他の被告たちも、法廷にいる誰もが拍手を送る。今、卒業を認められた男性は「2年前の俺はこんなにひどい状態だったんだ」と逮捕時の調書を傍聴席の私たちに見せる。判事からは、「卒業」記念のTシャツなどが手渡された。続いて、検察官が、告訴の取り下げを告げる(保護観察処分も取り消される)。

 サンフランシスコ、ブライアント通りのこのドラッグコートでは、この日3人の被告が「卒業」した。「回復が何よりも大事」と語るイートン判事を始めとする法廷関係者の「被告」を見守る暖かさ、拘留中の人も「卒業」する人も誰もが回復の喜びを分かち合う姿にはうたれるものがあった。

 この法廷は「ドラッグコート」と呼ばれている。ここサンフランシスコでは3年前に始まったばかりだ。カリフォルニアでは、犯罪にかかわった人の65%から75%にドラッグの問題がある。ドラッグコートが始まるまでは、薬物依存者は通常の裁判を受けて刑務所に送られていた。地方検事のマリアンは「ドラッグウオーに勝てる見込みのある戦略を私たちは持っていなかった」と振り返る。刑務所の入所者はふくれあがり、混雑による劣悪な処遇を訴えられるほどになっていた。マリアン検事は、「ドラッグの問題は罰してなくなるものではなく、パブリックケアとして治療してゆくもの」という認識の転換がドラッグコート設立の動機になっていると語った。 薬物の使用や所持、薬物がらみの窃盗や詐欺で逮捕された人が、通常の裁判を受けるよりも、回復のためのプログラムを望んだ時にそのプログラムを提供するのがサンフランシスコのドラッグコートである。通常の裁判手続きからドラッグコートへ移るのは、被告本人の意思にもとづき判事が決定する。

  ドラッグコートでは、普通の裁判のように判決は下されない。被告は、刑罰を受けるのではなく、治療とリハビリのプログラムを受けることを命じられる。プログラムには3つのレベルがあり、「外来」という週に三回のリハビリ施設への通所、週に五日間通う「デイトリートメント」、そして施設に入所する「レジデンシャル」である。判事は、検察官や弁護士、観察官や医師と合議の上、それぞれの被告に最適なプログラムを決定する。被告は、プログラムを続けながら、定期的にドラッグテストを受けたり、コートで判事にドラッグを使わずに生活していることを申し立てたりしなければならない。この期間は1年から2年に及び、やがて卒業を迎えることになる。ドラッグコートを卒業すると、Tシャツなどの記念品が手渡される他、告訴が取り下げられる。薬物依存者が新しい人生を始めるために、ドラッグコートは用意されているのだ。

  サンフランシスコのドラッグコートは開設されて3年目だが、ドラッグコートで扱う被告の数は増加し続けている。現在ではこのコートで140人の被告を見守っている。この3年の内で、95人が卒業した。ドラッグコートでのプログラムを受けている間に、違法な薬物を再使用した場合は、30日間、拘束されるが通常の裁判手続きに戻るかどうかは、基本的に本人の選択にゆだねられている。このドラッグコート専属の公設弁護人であるジャミエ弁護士は「何度もスリップしてサンフランシスコ中のプログラムをドロップアウトした人がいます。でもスリップ(再発)は回復への一つのプロセスだから、次のステップに進めるようにサポートします」と説明する。

  私たちが判事・検察官・弁護士・保護監察官・シェリフなどドラッグコートの関係者からレクチュアを受けた警察署の壁にはAAの12のステップが掲げられていた。司法による処罰と治療(回復のプロセス)がまったく交わりあうことのない我が国の刑事裁判とのちがいには目を見張らせるものがあった。イートン判事はドラッグコートの性格を次のように語る。「法廷は裁きの場である、という考えがあります。しかし裁くことと治療が交じりあっているのがドラッグコートであり、私自身は治療に重点があると思っています。」 このようなドラッグコートが、はたして日本でも実現できるのだろうか、ということがひとしきりツアー参加者の間で議論になった。学ぶべき点は多々あるものの日本でのドラッグコートを始めることは、現状では困難と思われる。司法関係者の認識を転換させていくには時間がかかるだろう。しかし最大の障害は、リハビリプログラムの整備が著しく遅れていることだ。付け加えれば、解毒の場すらほとんど用意されていない。日本の現状では、司法機関がいくら治療を優先させようとしても、治療の場所がない。「今、日本にドラッグコートができたら、ダルクがすぐにパンクしちゃうよね」と冗談が飛び出すほどである。

  サンフランシスコには、薬物依存者の回復を支えるプログラムが数多くつくられていた。私たちツアーの一行は、その一部を垣間見たに過ぎないが、次号では私たちが訪れたクリニックや施設について報告したい。

   私たち、ツアーの一行をサンフランシスコで最初に迎えいれてくれたのはヘイトアシュベリーフリークリニックの人たちだった。ツアーをコーディネートして下さったホンマ先生(サンフランシスコ保健局顧問)がツアー初日のプログラムに、このクリニックへの訪問を設けたのは、とても意味のあることだったと思う。なぜならヘイトアシュベリーフリークリニックは、サンフランシスコでの薬物関連問題の「草分け」的な存在であり、理論的・政策的なセンターだからである。

   同クリニックは、1976年に開設された。その当時サンフランシスコは、ヒッピームーブメントの中心で、世界から反体制的な指向性をもつ若者が集まっていた。彼らは、ロックミュージックを愛し、ドラッグを愛した。ロックの著名なプロデューサーであったビル・グラハムは、彼がプロモートしたコンサートの収益を基金に充て、フリー(無料)のクリニックを創設した。それがこのクリニックの由来であり、このクリニックはドラッグカルチャーの中から誕生した、とも言える。だからこそ、クリニックのモットーは「薬物依存者を肯定も否定もしない」で受け入れることや「ヘルスケアは権利であり、限られた人の特権であってはならない」という、とてもラディカルなものであった。

   ベトナム戦争を契機に、ドラッグ乱用が一般に広がると、先駆的な働きをしていたこのクリニックは公的な助成を受けるようになり、サンフランシスコで指導的な役割を果たすようになった。

   同クリニックを訪れて、私たちが驚かされたことは多い。その一つは、まさにクリニックのモットーである「ヘルスケアを誰もが受ける権利」を保障するための努力が積み重ねられている、ということだ。一例をあげると以前は、女性の受診が男性に比べて少なかったそうだ。その原因を調査してみると、男性とちがって女性は自責的な傾向が強く、「自己責任」を強く求める、それまでの治療スタイルは男性には有効であるが、女性には自責感を強める結果になることが分かった。女性の依存者を受け入れるため女性向けのプログラムが開発された。また、女性は家事・育児に追われており受診の時間がとれないという制約があるため、クリニックに保育所が併設された。さらに女性は「交通弱者」でもあり、一家に自動車が一台しかなければ、それは男性用で女性は使えないという実態もある。このためバンによる送迎サービスやバスチケットの提供が実施された。この一例から分かるように、「ヘルスケアを受ける権利」を保障するために必要なサービスは何か、ということが常に検討され、実行されているのである。

   このクリニックでは、現在、薬物・アルコール依存症者に解毒・リハビリ・アフターケアのサービスを行う他、拘置所での精神科カウンセリング(個人・グループ)やホームレスのためのバンによる巡回診療活動など多彩な活動が行われている。  

  ヘイトアシュベリーフリークリニックではホームレスの支援を目的にアウトリーチのチームが置かれているが、私たちが訪問した他のクリニックやリハビリ施設でもアウトリーチのスタッフが配置されていたことは特筆すべきことだと思う。スタッフが地域に足を運び、薬物の問題を持つ人たちに働きかけ、治療につながるように促したり、エイズ予防の教育を行ったり、ホームレスの救護活動を行う。このような役割は、我が国では保健所が担うものと考えられているが、現実には保健所のマンパワーにも限りがあり、アメリカのように民間団体(NPO)がカバーする必要があると思える。

   次にリハビリ施設の紹介に移りたい。私たちのツアーでは、サンフランシスコで四つの異なる施設を見学することができた。施設の規模やプログラムはそれぞれに違いがある。

  その内の一つ、アジアン・アメリカン・サービスはアジア系の人たちを対象にリハビリプログラムを提供している。デイケアや入寮、アウトリーチなどのプログラムがある。スタッフは総勢60人の比較的小規模な施設である。入寮プログラムは1年間で、入寮者は1年の間に、自分を見つめ、薬物を使わないで生活するトレーニングを行う。また自分の帰るコミュニティでボランティアをしたり、アパートをかりて試験的に生活をしたりして、地域社会に戻る準備をしていく。プログラムを完了する人は入寮者の15%である。

  入寮者のほとんどは司法機関の命令で入所している人で、入所経路のひとつはドラッグコートから、もう一つは、刑務所に服役中の人が、刑期の残りの期間をリハビリ施設で過ごすことを望んだ場合に仮釈放を受けて入所する「オルタナティブ」と呼ばれるものである。入所中にドラッグの使用が発見されると、退所になり司法機関に身柄が預けられることになるが、本人が正直に申し出ると、司法機関に通報せず「最初からやりなおしましょう」という対応をしている。どちらの場合も施設のプログラムからドロップアウトすると拘置所に送られることになる。

   この施設には、市から入所者1人当たり1日55ドルの委託費が支払われている。刑務所で処遇するよりも経費が安くつく、ということをスタッフは強調されていた。

  私たちが訪れた施設の中で、もっとも規模が大きかったのはデランシーストリートファンデーションである。この施設は海岸通りのワンブロックを占める広大なもので、私たちがまず招じ入れられたのは、施設内にある映画館だった。ジョージ・ルーカスら著名な映画人の寄付をもとにつくられたこの映画館は、大阪のどのロードショウ劇場よりも美しい。

  その後、案内された施設の建物もリゾートホテルを思わせるようなものであった。これらの建物はすべて、この施設の入寮者が設計し、建設したものであると言う。この施設では、公的助成や寄付に頼るのではなく、入寮者によるレストランや自動車整備工場、印刷工場、映画製作スタッフの派遣事業などの収益によって施設が運営されている。私たちを案内してくれた回復者のフランク・シュエイカートさんは、「薬物依存者は地域でも刑務所でも、どこにいても与えられるだけの存在でした。しかしここでは、誰もが責任を持ち自分の力を感じることができるのです」と語る。この施設では、「責任と自立」が重視され、入寮すると施設の清掃などの責任を与えられ、やがて収益事業に加わるようになる。このため入寮期間の定めはなく、共同体の一員となって生活していくことになる。付け加えると、ここでは他の施設とは異なりAAやNAプログラムは推奨されない。

  このように多様な特色をもつ施設が数多く存在する。私たちのツアーは、そのほんの一部を訪ねたにすぎない。アメリカ全土では治療・リハビリ施設の数は、1100を超える。

’99 報告 (第2回)

 
  「ドラッグはアメリカ社会での最大の問題の一つです」。先ごろ、来日されたパブロ・スチュワートさんが何度も繰り返された言葉だ。アメリカでは、アルコール・タバコ以外の薬物の乱用者は、全人口の6%を超え、年間に6000人以上の死亡者が出ている、と言う。医療や福祉、刑務所など薬物に関連してかかる費用は年間11兆円。誰もが看過し得ない現実がある。

  薬物の問題と格闘しているアメリカの中でも、私たちツアーの一行が訪れたサンフランシスコは先進的な地域であるようだ。出会った多くの人から「サンフランシスコは全米一だ」という言葉を聞いた。その真偽は私たちには確かめ様もないが、意欲的な取り組みを行い、自信を持って積極的に情報を公開している姿を見ることができた。

  ツアーの4日目に私たちは公衆保健局を訪れた。薬物関連の資料・出版物を購入するために立ち寄ったのだ。事前に何の連絡もせずに訪問したのだが、サブスタンス・アビューズ(アルコールを含む薬物乱用)部門の責任者であるチャールズ・モリモトさんが応対して下さった。モリモトさんは日系人だが日本語はまったくできない。「日本から研修に来た」と言うととても喜んで、「次に来るときは、僕がコーディネートしてあげるよ」とおっしゃっていた。サンフランシスコの取り組みに、自信を持っていることが伺えた。

  モリモトさんの薦めで、その後「タウンホール・ミーティング」に出席することにした。いただいたビラには「サンフランシスコのアルコール・薬物問題に関心がありますか」という見出しがあり、市民の参加を呼びかけるものだった。私は多くの施設などが合同で開く、「体験談」を語り合う集会かと思いながら会場に向かった。会が始まると、まず壇上にずらっと並んでいる方々の紹介があった。英語の不得手な私は一人一人の経歴は十分に理解できなかったが、どうやらアルコールや薬物についての公的施策の改善勧告を行う委員会の面々らしい。続いて市長が挨拶に立った。その後、フロアーの参加者からの発言が続く。若い男性は「俺はメサドンがあればいい。リハビリプログラムなんかに金をかけるよりメサドン・クリニックを増やしてくれ」と発言。別の男性は「私はネィティブアメリカンのリハビリプログラムに関わり、高い回復率を実現している。にもかかわらず助成金が少ない。」と助成金の増額を訴えた。このような要望が次々と出され、委員会の人たちが耳を傾ける。ようやく私にも、この集会の性格が分かった。「体験談」を語り合う会ではなく、公的施策に様々な意見を反映させるための「公聴会」なのだった。

  市民・有識者による委員会が組織され、委員会が依存者や市民の意見を聴く場所を設け、そこに市長が出席している。この集会を見て、私は「サンフランシスコは本気なんだな」と痛感した。

  今回のツアーでは、昨年のツアーとは異なる訪問先がいくつかある。中でも印象深いところはエピファニー・センターである。この施設はもともと新生児・乳児を預かる入寮サービスから始まった。父母が保育できない、保育する保護者がいない乳児は、チャイルド・プロテクト・サービスによって里親に預けられたり、施設に入所したりする。このセンターは、里親不足のため1988年につくられた施設だった。実際にサービスを始めてみると、入所する乳児の母親は、多くが薬物依存のために子どもを養育することができないことが分かった。預かった乳児を家庭に戻すためには、母親のリカバリィ・プログラムが不可欠だ。そこでエピファニー・センターでは1992年に乳児のいる女性だけを対象にしたデイ・トリートメント・プログラムを併設した。

  デイトリートメントプログラムを利用できるのは乳児のいる母親だけで、プログラムの期間は18ヶ月から2年。レベル1から5までのステップがありレベルが上がるにつれて通所回数が減っていく。プログラムには再発予防だけでなくペアレンティング(子育て)やライフスキルのクラスもあり、単に薬物の使用を止めるだけでなく、生活全般の回復を重視している。

  デイトリートメントを始めて約6年間の間に500人以上のクライアントを受け入れている。しかしプログラムを卒業したのは15人だけだという。それは単にクスリを止めることを目標にせず、子どもと一緒に暮らせ、自立した生活ができるという全般的な回復をゴールに設定しているからである。「回復率が低いと助成金や寄付金がもらいにくいのでは」と私たちの方が心配になる。事実、サンフランシスコ市当局は30%から45%の回復率をリカバリィ施設に求めていると言う。しかし何をゴールにするのか、エピファニー・センターの哲学を変えるつもりはないとソーシャルワーカーのパメラ・スミスさんは力説する。乳児とその母親のためだけのサービスというサンフランシスコでも他に例がない先駆的な取り組みを行い、「3%」の卒業率を誇るスタッフの姿に新鮮な感動を覚える。

   この施設の特色は他にもある。スタッフはすべて女性で、女性同士の分かち合いを重視している。また家庭的で細やかな配慮が行き届いている。プログラムにはすべて朝食と昼食がセットされている。そればかりか新たに通所の申し込みに来た人にも面接とランチがサービスされる。通所のための交通費はバス券が渡される。施設内の電話は、他のサービスや行政機関との連絡、就職活動などに使うのであれば無料で利用できる。また施設内にはショップがあり、衣類や家庭用品、オモチャなどが並んでいるが、これらはプログラムに出席することでもらえるチケットで購入することができ、通所者の励みになっている。

  昨年と今年の2度にわたったサンフランシスコツアーで、私たちは多くのことを学んだ。ドラッグコートによる「処罰から治療へ」という大きな転換の始まり、多様な施設・プログラムの存在が支える「回復」の多様性、施設内での高校教育の実施や奨学金による大学進学という依存者の「生き直し」(社会的復権)の保障など、である。また、市民団体やNPOの役割や可能性についても考えさせられた。

  特に、「社会的復権」の課題は今後の取り組みでキーワードの一つになるだろう。十代や二十代で薬物依存になった人たちが、薬物を使わない生活を始めようとした時に、どのような希望をもつことができるのだろうか。サンフランシスコでは、薬物依存からの回復者が大学教育を受け、ケースワーカーやカウンセラーの資格を取り活躍している姿を見ることができた。高等教育や職業訓練が保障されれば、「薬物を使わない生活」の生きがいや喜びが増すのではないだろうか。同時に、前科を記録から削除するドラッグコートも「社会的復権」という「生き直し」を保障するシステムである。司法システムも含めた大きな転換をもたらすムーブメントを構想したい。

  サンフランシスコツアーは、今回、赤字を出してしまったこともあり、今のところ次の予定は立たない。しかし、2度のツアーで生まれたサンフランシスコの人々とのつながりは、今後の大阪ダルク支援センターの大きな財産となるにちがいない。なお、参加希望者が一定人数集まればツアーのコーディネートは可能なので、希望される方はお問合せ下さい。

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