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投稿時間:2006/09/05(Tue) 01:14
投稿者名:斎藤
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なぞなぞ
その昔森田の所に作家である倉田百三が神経症で入院した。この人が森田を退院する時に名言を吐いた。
●「治らずに治った」
こう言って退院して行ったそうである。皆さんの解釈とコメントを待っています。

投稿時間:2006/09/05(Tue) 01:15
投稿者名:直人
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治さずに治る
治ると言うことは、治す為の生活から、自分の為の生活に変わる事だと思います。
治ると言う過程を経ずとも、自分の生活、人生を生きることで満足して生きれる
これがまったく普通の人生である。
治さないと生きれない、治さないと満足しない、治す為に懸命に努力している
これが全部が病気で、治さなくても満足して生きれる事が治癒になります。
こういった心の変化が起これば、失敗が怖く無い失敗をほとんど忘れて思い出さない
こういった追い風がふいて、楽な明るい元気な幸せな人生になってしまう。
文学者の倉田百三が自分の神経症が「治さずに治った」言ったとの事は有名な話だが
まさに神経症は「治さずに治る」のです。

04/12/08(Wed) 19:13 書き込み

投稿時間:2006/09/05(Tue) 01:20
投稿者名:斎藤
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倉田百三「治らずに治った」について
作家の倉田百三がその昔、神経症を患い森田の所に入院した。退院する時に「治らずに治った」の名言を吐いて森田を後にしたが、これがその後森田療法を経験した人の間で話題になっている。

森田療法は厳格に動きを追求する。その動きも単なる動きでなく、気配り、工夫を凝らした緊張した動きである。指導者の号令のもとに指定場所に飛んで行くことを要求される。それもその場所に必要なものを携えて、指導者が何を望んでいるか、次に何を指令するかを先読みして行かないと指導される。だから入院者は神経を何時もぴりぴりさせている分けだ。

朝、洗面をする時には水を床にこぼさないように、人が横で洗面している時はその邪魔にならないようにするように注意される。食器を洗う時、皿の洗い方、箸の洗い方まで指導する。植木の消毒の時は、農薬の噴霧はどの場所をどの程度噴霧するか、噴霧した霧が周りにかからないようにと細心の注意を要求する。しかも、ノロノロやってはいけないから入院生は院内を走り回る事になる。森田療法に上手く適応できた人間は、退院する頃には、入院時とは打って変わったきびきびした動きをする人間に生まれ変わっている。

退院する時には見送る職員、看護婦が「いやー、何々さん、貴方は見違えるほど良くなりましたねー」と声をかける。かけられた本人は気持ちが複雑だ。実は無為療法から見るとこの人達は治ったのでも何でもなく、強制的に動く訓練を身に付けただけであって、強迫観念の排出源はそのまま残っている。強迫観念は見かけ上、封印された状態で退院するだけだ。言わば歯の治療で痛み止めの注射を打っただけの状態に近いから、周りが変わったと言えば、治りとはこんなものかの複雑な気持ちで「治らずに治った」と言わざるを得ない。

この「治らずに治った」は倉田百三の専売特許ではなくて、厳格な森田療法を受けたものが退院する時に等しく言う言葉なのである。私も、鈴木を元気良く退院して行く人から、同じような感想を聞いたものだ。「入院した時と全然気持ちは変わらない。ただ、動きが活発になり、忘れている時が多くなった。だから治ったと思いたい」これが本音である。倉田百三は有名な文学者である。しかし彼も神経症を患うごく当たり前の患者であり、もう一人の治らずの神経症者であった。退院した倉田は恐らく生涯神経症は解決しなかったと思う。

そこで「治らずに治った」を反対側から焦点をあてて、輪郭をすっきりさせよう。無為療法で治った人達はこうは言わない。我々は「治ったが治っていない」と言う。斎藤は無為療法で成功した人達に全治を言わせない。むしろ全治と称して登場する人間を、狂いの真っ最中として相手にしない。無為療法で神経症が軽快状態になると時間の早さを実感し、疲れが生じない。今まで会社で3時まで働くとへとへとに疲れていたのが、残業をしても何でもなくなる。神経症を治す為の情報を得る作業がゼロになっているから、生活の質が格段に向上し、明らかに今まで経験した事が無い新しい人生の始まりになっている。

これほどの、静かで革命的経験をするのであるが、不思議と治った実感がない。何故なら、生物学的神経症脳は依然としてそこに存在するからである。今まで恐怖を感じるものは今でも恐怖を感じるし、パニックにもなる。フラッシュバックは相変わらず発生しているが、回数と強度が格段に減っただけである。彼等はもう心理分析の便りは遣さない。社会の立派な一員として活躍しているのがこちらに伝わってくる。恐らく周りの社員も家族も、その変わり方に驚いていると思う。でも本人は一向に全治は言わない。治りには近づいているが全治とは言わない。例え全治でなくても、現在の自分の生き様で十分幸せを感じているからである。

投稿時間:2006/09/05(Tue) 01:21
投稿者名:直人
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Re: 倉田百三「治らずに治った」について
斎藤氏の“倉田百三「治らずに治った」について“の文章を読んで、愕然とした。
こんな基本的な事が理解出来ていないのに驚いたので、それについて書いておこう。

>森田療法は厳格に動きを追求する。その動きも単なる動きでなく、気配り、工夫を凝らした緊張した動きである。
これでは、森田療法も理解していないし、治癒もまったく理解していない事を白状している。
森田療法は動く事を指導するが、その動きそのものには、まったく意味が無い。
動きを通じて自覚する自由な心が大切であり、この得た自由な心が治癒そのものだ。
森田療法では、この自由な心を得るために動きを指導しているのです。

>朝、洗面をする時には水を床にこぼさないように、人が横で洗面している時はその邪魔にならないようにするように注意される。食器を洗う時、皿の洗い方、箸の洗い方まで指導する。植木の消毒の時は、農薬の噴霧はどの場所をどの程度噴霧するか、噴霧した霧が周りにかからないようにと細心の注意を要求する。
この気配りと動きは求められるが、これの成功には何の意味も無い、この動き気配りの
結果に得る、自分えの囚われからの解脱が総てであり、それを得る為にこれらの動きはある。
森田では、この囚われからの解脱が総てであり、それを得させる為に総ては有る。

>この人達は治ったのでも何でもなく、強制的に動く訓練を身に付けただけであって、強迫観念の排出源はそのまま残っている。強迫観念は見かけ上、封印された状態で退院するだけだ。
こんなふうに理解する様では、神経症の治癒がまったく解かっていまい。
「動く訓練を身に付けた」こんな事には何の意味も無い、これが上手く上手になっても
治癒とはほど遠いものであり、森田氏が求めているのはこれでは無い。
治った人は、治す努力は完全に止まり、囚われから解脱して明るく元気になって退院するのです。
決して動き、気配りの上手な人間になって退院するのでは無い、それにはなんの意味も無い。

斎藤氏は良い所も有ると思っていたが、これを読んだら愕然とした。
こんないいかげんな理解で人を指導しては、多くの人を迷いの方向に導くだけだ。
その上に最近では、脳の異常と雑用を強調する、これも大きな間違いであり
神経症者に脳の異常は無く、雑用などまったくする必要が無い。
こんないい加減な事を言って若い人を間違いの方向に導き、人生を台無しにするのは許せない。
しかし医療機関のていたらくも目をおおうものが有り、治癒させるにはほど遠い。
薬を与え誤魔化しているだけで、酒を与えているのと同じだ、本当に恐ろしい。

私の所では多くの人が治癒して幸せになって来ている、頑張って続けようと思う。
私の所しか治癒させえる所は無いみたいだ、強い責任と身の引き締まる思いがする。

投稿時間:2008/04/02(Wed) 22:48
投稿者名:直人
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Re^2: 倉田百三「治らずに治った」について
雑用をして生きる、こんな日々からは幸せは無い、誰が飯食わしてくれんだ
人生では働いて、社会貢献をして、生き甲斐があってこそ楽しい人生になる。
それを得ず、雑用をして生きるなど不幸の病気の生き方だろう。

斎藤氏は治癒がまったく解っていないから、森田療法も理解できない。
間違いの解説ばかりして、迷いの神経症者を、ますます地獄に落としている。
こまった人だ。