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投稿時間:2008/04/01(Tue) 22:19
投稿者名:naoto
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対人恐怖の治癒
対人が上手く行かなかった時、失敗した時にどうするか、ここが治癒のポイントだろう。ここで取る道は二つに分かれるのです。
一つ目は
今の失敗を省みて、なぜそうなったか原因探求して改善の道を探し、これに多くの思考をして自己改善に取組んで行く、出来た理論を対人の現場で実行するのです。
これを行うと、目の前の現実はないがしろになり、思考に多くの時間が使われます、結果的に苦しい辛い多くの時間が過ぎて行きます、辛い不幸な日々になります。
二つ目は
今の対人の失敗への思考を放棄してしまうと、行う事は目の前の現実えの対応になります、自然に心は流れ変化して次の事えの思考に移って行きます。
そして対人の改善の思考工夫も放棄してしまうと、悩み苦しむ時間は無くなります。(物理的にそうなります)
そしたら苦しみの無い明るい心が続いて、幸せな日々になってきます。

この二つの経験を重ねた時に、人は病気の正体に気付いてくるのです。
自己に囚われた「治そう変えよう病」の正体を知り、それの囚われから解脱してしまい
素晴らしい人生が展開する様になります、それが治癒だと思います。
決して治す変えるの成功が治癒では無いと思います。

投稿時間:2008/04/01(Tue) 22:20
投稿者名:naoto
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丸腰で生きる
丸腰で生きるは、普通の人の普通の生き方であり、これの無いのは神経症者だけだと思う。これが出来る様になったら神経症の治癒は完成といっても良いと思う。
丸腰で生きるとは、武器を持つ努力が無く、武器を携帯せず、素手で懸命に生きる事だろう。この生き方は自分の知性も能力も根性も全部出し切る、スリルの有る生き方である。
個人としてはもっとも満足できる生き方だが神経症者は理解しない。
普通の人の当たり前の生き方であるが、神経症者はこれが難しく、こういう生き方をすることが堕落であり解決の放棄だと思っている。
計らいの生活を放棄できず神経症が続いて行く。

反省し改善をしようとする努力が、武器を持つ努力であり、この努力が忘却を妨げてしまう、一瞬たりとも忘れない神経症を形成して行くわけで、これが結局人生を破壊して行く。
毎日行う長時間の反省は、自分に対する邪悪な囚われで有り、武器の携帯に進んで行く。これが邪悪な努力だと理解できると、反省をやめ武器を携帯せず、丸腰で生きる様になる。
いつも丸腰が実行出来ると、神経症は治す必要が無くなり、囚われが消滅して治癒する。日々を丸腰で生きると、スリルの有るドラマチックな人生になって、病気はどこにも無い。
又とりあえず反省を止めて丸腰で生きた人も、この事に気付き神経症の治癒に近づいて行く、そう言う意味でも神経症の治った人の指示に従うが治癒の最短コースでも有る。

投稿時間:2008/04/01(Tue) 22:22
投稿者名:naoto
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神経症は治そうとする病気
「症状の治癒は副産物」は森田博士の言葉だが「神経症は治そうとする病気」は宇佐博士が言っている、東京大学と京都大学を出た二人の秀才が言っている。
結局に神経症は治そうとする病気だから、治すのを止めて「あるがまま」に生きると、囚われから解脱して治すものが無くなり、その副産物として症状の治癒が有るのです。

神経症を治そうとすれば囚われた生き方となり、あるがままでない治そうと計らいの生活となる。感心は神経症の治癒にあり、現実の生活はいいかげんな生き方となろう、落伍者となる。
治すのを止めたら、自分えの思考の時間は無く、現実の諸問題を意欲的に処理する様になる。現実の生活も仕事も上手く行き、自分の今までの間違った生き方を悲しく自覚します。

そういった自覚が、神経症の治癒の努力である囚われた病気の生き方を放棄させるのです。治す変える考えが興っても、一瞬で否定するので、結果的に自己えの思考の時間は無くなる。
出来た時間は自分の生活のため仕事のため家族のため具体的な努力がされるでしょう。
それが普通の人の普通の生き方であり、皆なそうなってほしいと思う

投稿時間:2008/04/01(Tue) 22:24
投稿者名:RINKOU
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Re: 神経症の治癒は副産物!
大変参考になりました。心に響きました!ありがとうございます!