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一 括 講 読

投稿時間:22/01/29(Sat) 14:55
投稿者名:ご質問です
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タイトル:順番について
「治さない」と「日常生活を送る」の順番についてなのですが。
「治さない」の実行の末に→「日常生活を送る」が自然と出来るのでしょうか?
「日常生活を送る」の実行の末に→「治さない」が自然と出来るのでしょうか?
そのどちらでも大丈夫なのでしょうか?
教えていただきたいです。よろしくお願いします。

投稿時間:22/01/29(Sat) 14:56
投稿者名:直人
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タイトル:Re: 順番について
「日常生活を送る」は誰もが常にしている事であり、簡単に行えるのが普通です
「治さない」は自分の願望に反した行いであり、簡単には行えない難しい行いだ
「治さないは」治療として、解らないまま指導者の指示に従い、実行する事もある
如何とも出来ないとの絶望から、諦め断念する事になり、実行する事もある。

両方の実行から、現実生活の生き易さを発見して、「治さない」を常道とします
これは理論では到達できない世界であり、森田博士の言う体験、自覚の世界だろう
順番としては「治さない」決断、決心、実行の上に「日常生活を送る」事になる
すると「日常生活」の中で、生きやすい日々の体験があり、自分の間違いを自覚します
すると、自覚により二度と間違いの中に入らない、順調な生活を送ることになります。

投稿時間:22/01/29(Sat) 14:58
投稿者名:ご質問です
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タイトル:Re^2: 順番について
分かりやすくご説明ありがとうございます。
順番としては、「治さない」→「日常生活」ということですね。

森田療法の本には、とにかく「日常生活」としか書いてありません。
「日常生活」を送ることが、イコール「治さない」ことになるようです。

これは要するに、直人さんの順番でもいいし、森田の順番でもいいし、
どちらでも問題はないのでしょうか?
自分にとって易しい方でよろしいのでしょうか?

投稿時間:22/01/29(Sat) 14:59
投稿者名:直人
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タイトル:Re^3: 順番について
>森田療法の本には、とにかく「日常生活」としか書いてありません。「日常生活」を送ることが、イコール「治さない」ことになるようです。
こんな事が何処に書いてあるだろう?間違いだと思います。
書いてある本とページを指摘いただいたら、説明できると思います。

>直人さんの順番でもいいし、森田の順番でもいいし、どちらでも問題はないのでしょうか?
貴方の言う森田はどうも意味不明です
「日常生活」していて、自然に治るはないだろう。

投稿時間:22/01/29(Sat) 15:01
投稿者名:ご質問です
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タイトル:Re^4: 順番について
宇佐晋一先生の「囚われからの解脱」p84の12行目に「健康人として振る舞うという演出が、実は同時に自然に、心がほったらかしになるわけでして、さらにいいのは目の前のことに取り組むことになるという点です。」と書かれてあります。

また、同じ著書のp88の8行目に「さっそくの作業をはじめとしまして、毎日の生活に必要なことがらに応じていらっしゃることです。」とあります。
他にも至る箇所に「目の前のことをする」「日常生活を送る」ことが大切だという旨の記載が繰り返し書かれてあります。

自分は頭が悪くて勘違いしているのかもしれません。
直人さんの意見をお聞かせ願いたいです。
どうぞよろしくお願い致します。

投稿時間:22/01/29(Sat) 15:03
投稿者名:直人
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タイトル:Re^5: 順番について
>「囚われからの解脱」P84について
>「健康人として振る舞うという演出が、実は同時に自然に、心がほったらかしになるわけでして、さらにいいのは目の前のことに取り組むことになるという点です」
「日常生活を」真面目に行う健康人を真似れば、自然に心は放ったらかしになる、これが一瞬の治った状態であり、こういう生き方が多いのが良い
そうなると自然に「目の前の事をする」様になるので、心の放置が続き現実が成功に導かれるとの指摘でしょう、この事が直接神経症を治すのでは無くて
その一瞬の治った生き方から、神経症の病気の成立過程を知り(体験、自覚)その知識で病気を無くする生き方をします。その生き方が治癒であります。

>「囚われからの解脱」P88について
>「さっそくの作業をはじめとしまして、毎日の生活に必要なことがらに応じていらっしゃることです。」
その前に「理論(学説)を自分のこころに使えば使うほど、かえって病感が増します」とありまして、「作業を始める」とそういった病感が無くなる体験をする
即ち治るには理論ではなくて、体験自覚が重要だと言いたいのでしょう。「作業を始める」が病気を直接に無くするのでは無くて
「理論を自分の心に使う」が無くなれば、自然に作業を行い日常生活を行うことになると指摘されている。
その体験から、理論を心に使うのは病気を作る、それを止めてしまえば、心は現実のみを相手するので、日々生活に必要な事を行い満足する、それが治癒だと言う。


>宇佐先生の根本的考え方として、以下の様なインスタント論があります。囚われからの解脱 P62
「実際の目前のことに取り組んでいかれれば、そこに無分別の世界がすぐに成り立つのですね、ところが逆に自分のこころの方にかかわれをもちますと
早速そこでとらわれが始まってしまうのです。神経質はなおるのもインスタントでありますが、なるのもインスタントなのです」

「目の前のことをする」時は神経症は一時的に治っていると言われています、心を問題にし始めると又病気になると言われます
しかし神経症には病原菌も疾患も無く、一瞬治った状態を続けて行けば病原菌や疾患が無くなり、神経症が治るのではありません。
とらわれの状態はなぜおこるかを知る必要があります、その知識を使い囚われを起こさず生きたら、健康であり治癒した事になります。
この健康な時間(目の前のことをする)には、考える時間も休む時間もあります、健全な「日常生活」が出来て治癒しています。

この様に体験により、囚われの病気のからくりを知り(自覚)、自分の病気をコントロールできる様になれと言われる
無理に「目の前の事をする」で治った状態を作るのではなく、あるがままに治さないで生きると、自然に治った日常生活をするになる
即ち何かをして治すのでは無くて、神経症発症のメカニズムを体験的に知り(自覚)、神経症を起こさない生き方が出来る様になります
その自覚を体験的に得るには「あるがまま(治さない)」で生きると、その体験自覚から全てを知り、神経症の起こさず生きれます。
この心の葛藤を起こさない、平穏な状態を治った、全治、治癒と言うのだろう。

投稿時間:22/01/29(Sat) 15:06
投稿者名:ご質問です
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タイトル:Re^6: 順番について
長文でご説明していただきありがとうございました。

やなり、「治さない」→「目の前のことをする」という順番が大切ということですね。

>「日常生活を」真面目に行う健康人を真似れば、自然に心は放ったらかしになる、これが一瞬の治った状態であり、こういう生き方が多いのが良い
そうなると自然に「目の前の事をする」様になるので、心の放置が続き現実が成功に導かれるとの指摘でしょう、この事が直接神経症を治すのでは無くて
その一瞬の治った生き方から、神経症の病気の成立過程を知り(体験、自覚)その知識で病気を無くする生き方をします。その生き方が治癒であります。

ということは、「目の前のことをする」→「治さない」も間違っているわけではないのでしょうか?「目の前のことをする」→「治さない」という順番でも問題はないのでしょうか?

投稿時間:22/01/29(Sat) 15:08
投稿者名:直人
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タイトル:Re^7: 順番について
上にも書きましたが、神経症は病原菌も疾患も無いので、何かをして、治り変わることはありえません。
自分のしてきた間違った行いを体験的に知り、それを行わなくなった時に、安楽な日々になります、それが治るです。
その間違った行いが「治す」との行為であり、その無駄な時間と労力の浪費です、それを無くすれば良いだろう
その為には症状に対しては治さず(耐える辛抱する)そこから現実の順調な日常生活が行われます。それが治るです。

>「目の前のことをする」→「治さない」という順番でも問題はないのでしょうか?
これは何時も行っています、一時的に神経症で無い状態が作られます、これを積み重ねても意味は無く、治癒はありません。

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