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一 括 講 読

投稿時間:19/11/29(Fri) 22:03
投稿者名:葉月
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タイトル:治せない
治さないで治るという理論は、軽い神経症の人には効くかもしれないが、重症の人には無理であると思う。重症の場合、症状を取り除かねばならない。そういう意味で、森田療法はすべての人に効く療法ではなく、治せない人もいるという不完全な療法であると言える。

投稿時間:19/12/02(Mon) 17:37
投稿者名:直人
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タイトル:Re: 治せない
神経症は治さないを実行する以外に治る道はありません
治す努力は永遠の苦悩の道です
治さない様にして治すは出来ない相談で、心より治さない決心、実行が要ります
神経症なら治さないで生きたら治るは保証します。

投稿時間:19/12/04(Wed) 14:03
投稿者名:直人
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タイトル:Re^2: 治せない
森田療法の病院に入院して外部から遮断して、自分の内面を言葉にする(観察する)事を禁じて、院内作業に自分の精神、心、能力を全部使って取り組むときに
順調に行けば安楽な人間の生き方や生活をを体得(体験)します、この安楽な生き方が治癒であります
治すは下らない必要ないものになり、普通の人の世界に帰って行きます
治癒の成功は病院の能力、個人の真剣な取り組みで成功します。

入院せずに著書等で学び実行する場合は、外部との遮断も自己内面を言葉にしないも不徹底で、今の生活、仕事を作業とみて実行しても
理論や著書内容で自分の精神の変化までもって行くのは、自分が自分に命令して自分を変化させる事になるので出来ないだろう

たった一つ治す努力をすべて捨てて、治すを諦めて、治さず生きた時に、安楽な体得(体験)が出来て治癒を得ます。
結局治癒は、治る事では無く、神経症になる前の状態に戻るです、治す必要がなくなる事です。

投稿時間:19/12/04(Wed) 21:06
投稿者名:葉月
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タイトル:Re^3: 治せない
森田療法は根本的な治療ではない。
根本とは愛だからです。
人の愛によって治るのです。
治療家の愛によって治癒するのです。

森田療法家による「体験」とか「本では治らない」とか、そんなだから、何か特別なものであり、禅とか浄土真宗と同じだと主張する者が出てくる。

森田療法とは神経症の治療法の一派にすぎないのです。
真理ではありません。だから、治らない。
森田療法で治る人と治らない人がいる。
森田療法とはその程度のものです。

内面から出てくる直観こそが大切なのです。
森田療法で治ったと言ってる人は、内面を見ないようにし、森田療法の言葉で自分をがんじがらめにしているだけです。
それは、自分の本当の生き方ではないのです。
本当の生き方ではないから、治らない。

人間は本当の生き方をすることにより、治癒するのです。
森田療法で神経症になる前の状態に戻るなんてのは無理です。
神経症になる前とは本当の自分のことだからです。

本当の自分とは森田療法を必要としないことです。
森田療法によって治ったと思ってる人は、言葉づかいが森田の本と同じになるのです。それは、依存しているのです。
自分の頭で考えていない状態です。自分の内面を見ないようにしているから、そうなるのです。

自分の内面こそが本当の自分です。
自分の内面を知ることが治癒です。
自分の内面から来るものだけが、自分の考えなのです。
それを知らずして、神経症になる前に戻るなんて出来ません。
神経症になる前とは、自分の直観に従って生きているからです。

投稿時間:19/12/05(Thu) 22:50
投稿者名:直人
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タイトル:Re^4: 治せない
森田博士の著書より抜粋しました(雑用をして一生過ごすS氏の教えは危険です)

こころは万境に随って転ず。転ずるところ実に能く幽なり。流れに随って性を認得すれば無喜亦無憂なり
「心は非合理なので、心の自律性に従って空の雲のように変化する。しかし、その変化のままに任せていると、誠の自由を得ることが出来る。このへんの消息を得れば、嬉しいとか悲しいとかの差別はなくなる」
「もし心が自然のままであった時にはその発動がざかんであって、周囲に適応することがきわめて微妙であり、強盛であることを体得することができるのであります。」
「われわれの心は、周囲の事情の変化につれて、常にたえず移り変わるものである。強く打てば大きく鳴り、軽く当たればかすかに響く、その変化の滑脱自在なことは、まことに幽玄微妙である。ちょうど鏡の前に物がくれば映り、去ればなくなって、影をもとどめないようなものである。この心の流れのままに随っていれば、そこに自己本来の性情を見ることができる。そのときには、喜びはそのまま喜びであり、憂いはそのまま憂いである。」
>治癒した日々の心の流れ

迷い、疑いがあって、しかる後に、これを離脱したものが、「悟り」である。「大疑ありて、大悟あり」というのはそれである。 迷いのないものには「悟り」はない。
神経症にかかる前は「ただの本能だけで、それは微妙ではあるが、ただそれきりで、動物や白痴と同様である。それが一度「迷い」に囚われると、本能の働きまでも、全く自由を失うけれども、さらに悟りを聴けば、全ての本能が自由に働き、その働きが広大無辺になる。
>治癒の経過であり結果です

自分の気分や想像で「治った」とか「よくなった」とかいっても、そんなことな問題になりません。
ただ、実際に治ったという事実が大切です。体重がふえたとか、終日よく働くようになったとか、気転がきくようになったとかいう
事実を観察して、初めて「治った」ということが決まるのであります。
>私は32年の会社経営で、多くの従業員と楽しみながら仕事している、十分の治癒の結果を得た。

投稿時間:20/01/12(Sun) 11:01
投稿者名:sss
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タイトル:Re^5: 治せない
何言ってるのかわからない人 vs 何言ってるのかわからない人

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