元々外に出たり車で遠出するのがとても好きだったのですが車で猛烈な吐き気を感じた1ヶ月ほど前から車に乗れなくなり外にもなかなか出れなくなりました
頑張って散歩に出てみても直ぐに帰りたくなってしまい家に帰ってきてしまいます。帰ってきた後にやっぱりもう少し散歩しておけば良かったなと思ったりしんどいです。それでも外に出たい気持ちや車に乗りたい気持ちはあるのでまた乗れるようになりたいです
どうしたらいいのでしょうか?
人と会うと帰りたくなります
「対人恐怖は、強迫観念のために、われとわが心から「思想の矛盾」により自縄自縛しているものであるから、ひとたびその縄を絶ち切れば「大疑ありて、大悟あり」というふうに、その悩みの大きかったほど、ますますよく完全に治るのである。」
「怖くて逃げたいと、近づいて幸せを得たいという二つの心が、はっきりと相対立している時に、我々の行動は、微妙になり、臨機応変になり、もっとも適切になり、いわゆる不即不離の状態となるのである。恋人に近づきたい、逃げ隠れたい。逃げれば胸がわくわくし、近づけば心臓が高鳴る。この逃げたい。近づきたいという二つの相対立した心を、私は精神の拮抗作朋もしくは調節作用と名付けてある。この心が強くて、大きいほど、精神の働きが盛んである。」
「順序立てておいても、実際にそのことに当たって見ると、先方の出方によってこちらの予定はすっかり崩れてしまうことが多い。このような場合、ただ当たって砕けるという態度で事件のまっただ中に突入すれば、そこにおのずから臨機応変の処置がとれるものである。それは武道でいえば捨て身の態度であり、背水の陣である。ことさらに自分で勇気をつけたり、自信をもとうとあせったりする必要はない。そのときに臨んで、はじめて勇気と自信が湧いて出るのである。ほんとうの勇気というものは、理論的な工夫によって得られるものでもなければ、外からくっつけられるものでもない。それは、山に海に、社会人事に、あるいは白刃の下に、事実に当たって修養されたものでなければならない。」
「いろいろの強迫観念も、根本は同一であります。不眠も、耳鴎りも、物象回転も、計算恐怖も、それを恐れ
じゃまものあつかいにしてなくそうとするから、ますますそれが苦揃となり、執着を深めるのであります。
それを当然のこと、あるいはやむを得ないことと決めてしまえば、そんな感じはいつとはなしに消えてしまうのであります。
「迷いの中の是非は是非ともに非なり」であって、はてしもなく間違いを重ねてゆき、しかも自分ではその間違いに気がつかないのであります。」
「だから対人恐怖に限らず、神経質症状を治すには一つ一つの症状を治そうとせず、生活全体を
積極的に推進さして、毎日することが多くて、忙しくて一日が短い、というような生活をするよ
うにするのがよい。生活の外向化はどしどし仕事をするに限るのである。気のついたことは直ち
に手を下してやる、という生活態度が身につけば、すなわち自己に即せず、外界の事物に即して
ゆく生活が実現すれば、神経質症状はおのずから消散するのである」
「強迫観念は神経質症状の中でも複雑なものであるが、それは普通の人にもありがちな観念を、病的
あるいは異状なものと思って心配するだけでなく、それをなくそう、克服しようとムリな努力をする
ために、こんがらかった煩悶をおこし、苦悩を増すものである。なくそうとするから、ますますその
感覚や観念ばかりにとらわれることになる。言葉をかえていえば、わざわざ自分でその苦悩をよび起
こし、養成し、増悪させてゆくのである。」
「神経質症を治すには、心の執着・葛藤をそのまま人間本来の生の欲望へ転換させれば良い
病気を治そうとする工夫と止めて、苦しみをそのまま忍受し、病気の重荷を負ったまま
自分の仕事に精出すことである」
「強迫観念は、ひとたび、逃げ道はない、治す事はできないという事を、よくよく知り分けさえすれば
その苦痛ただこれを忍受し恐怖を突破して新生面を切り開くよりほかに方法はなくなり
初めてそこに悟りがあり、強迫観念が全治するのである。」
「強迫観念のために、われとわが心から「思想の矛盾」により自縄自縛しているものであるから、ひとたびその縄を絶ち切れば「大疑ありて、大悟あり」というふうに、その悩みの大きかったほど、ますますよく完全に治るのである。」
人の輪に入れません。集団に馴染めません。
雑談についてゆけず、浮いているような気持ちになります。
ゲームの設定を一日に何度も見返してしまう
hapii
貴方も親しい人とは雑談出来るでしょう、だから異常や障害ではなくて、迷い囚われです、心の置き方で変化します、治ります
森田正馬博士
たとえば、交渉ごととか談判とかをする場合にも、前もって自分が言おうとすることを考え、順序立てておいても、実際にそのことに当たって見ると、先方の出方によってこちらの予定はすっかり崩れてしまうことが多い。
このような場合、ただ当たって砕けるという態度で事件のまっただ中に突入すれば、そこにおのずから臨機応変の処置がとれるものである。それは武道でいえば捨て身の態度であり、背水の陣である。
ことさらに自分で勇気をつけたり、自信をもとうとあ せったりする必要はない。そのときに臨んで、はじめて勇気と自信が湧いて出るのである。
ほんとうの勇気というものは、理論的な工夫によって得られるものでもなければ、外からくっつけられるものでもない。それは、山に海に、社会人事に、あるいは白刃の下に、事実に当たって修養されたものでなければならない。
hapii N
上手くやる方法は有りません、丸腰、素手で相手の前に立てば、本能と感情が勝手に上手くやってくれます
会話に失敗しても、下↓の様にして、放置して忘れましょう
hapii T
道を歩いていて倒れたら、立ち上がって誇りを払って、前に歩き出せばいい
道に座り込んで、なぜ倒れたか次に倒れないには如何するかなどと考え込むな
立ち上がって、さっさと前に向かって歩きだすだけでいい。
いろいろの事に対応して行いを決めようとすると百科事典がいる
君はいつも持ってあるくのか?重たいぞ!
初めまして。
私は話すのが極端に苦手で、昨日も美容院に行ったのですが、緊張と劣等感から全く話題が見付からず、美容師さんに話しかけられても、全く弾まず、噛み合わず、自分でも何を言ってるのか分からなくなりました。
とにかく雑談や友達との会話ができません。どうしたらよいでしょうか?
暴力が怖いです。全身ががくがくと震えてしまいます。
人間は何のためにこの世に生れてきたのか、人生はいかに生きなければならないか、という問題は
精神発達の過渡期にあたって、誰しも考えることである。けれどもそれは、そんなに深い意味のあることではない。
それはたとえば、草木は何のために生長し実をむすぶか、地球は何のために自転しっっ太陽のまわりを運行するのかという疑問を
発するのと同じことである、神が人間のために地球や草木をつくったと考えるとすれば、それは人間の自分勝手な思想である。
ゲーテはその創作「アウスト」の中で、ある人間の一生を詳細に記述して、「人生は努力である」
という人生観をしめしたのである。
それは人生を、欲望、執着、奮闘という主観的な面から観察したものと言うことができる。
もしそれを客観的に外面から観察するときには、「すべて人間の生活は絶えざる活動である」といえよう。
それは「動物」という名称ができた理由である。
さらにそれを価値批判の方面から見るならば、「人生は創造」であり、「日に新たに、また日々に新たなり」
といわれるように、絶えざる進歩であり、前進である。