私どもは、つねに何かにつけて疑い迷い、はからうものであります。それがそのまま、私どもの自然の「あるがまま」の心であります。
それをそのままに森田の療法にまかせ、あるいは境遇、運命、自然の法則にまかせ、あるいはまた親鴬のいうように「よき人の仰せにしたがいて、念仏申すまでのことなり」と弥陀にまかせまいらせることが、すなわち「はからわない心」なのであります。
「いまお持ちのこころをそのまま持っていることです」これは自分のこころに何らの人為的加工(不安を安心に変えようなどとの計らい)をしない ことを指す。
要は知的やりくりを離れて、雲門のように、ぶっつけに目前のことに取り掛かり特別な心境を今の自分の心境以外に
求めようとしないことが大切な事ですね、そうすると全治は自然にどなたにでも訪れます。
理論が解って治るということはないのです、なによりもぶっつけにただそのまままに前進というのが真実に生きる道んなのです。
「はからいのない心」というのは、「あるがままの心」という事で、これも言葉にとらわれると、かえって間違いのもとになる。
「あるがままになれない」とか、「はからいの心を捨てる」とかいえば、既にそれは「はからいの心」であり、「あるがまま」ではないのである。
実際の体験による修義でなければ、理屈にあてはめて決してわかるものではない。
神経質は、机上論の庇理屈を押し進めているうちに、病の悩み、死の恐怖という一面のみにとらわれ
動きもとれなくなったものが、一度覚醒して、生の欲望・自力の発揮という事に気がついたのを心機一転といい
今度は生きるために、火花を散らして働くようになったのを「悟り」というのである。
はからいの無い状態とはどのような状態でしょうか?はからいを無くそうとする事自体が間違いでしょうか?
順序立てておいても、実際にそのことに当たって見ると、先方の出方によってこちらの予定はすっかり崩れてしまうことが多い。
このような場合、ただ当たって砕けるという態度で事件のまっただ中に突入すれば、そこにおのずから臨機応変の処置がとれるものである。
それは武道でいえば捨て身の態度であり、背水の陣である。 ことさらに自分で勇気をつけたり、自信をもとうとあせったりする必要はない。
そのときに臨んで、はじめて勇気と自信が湧いて出るのである。 ほんとうの勇気というものは、理論的な工夫によって得られるものでもなければ
外からくっつけられるものでもない。それは、山に海に、社会人事に、あるいは白刃の下に、事実に当たって修養されたものでなければならない。
日々刻々と発生する対人関係の現場での処理はどうすれば良い?
>実生活での努力そのものが全治−治さないことの徹底−
「治さないことの徹底」そのものが治癒だとの見解は宇佐先生と私はまったく同じです。
治すのを放棄したら何をして生きるか、それは「実生活での努力」をして生きれば良く、自己の力を100%出して生活、仕事に取り組み生きれば成功の山が出来るのです。
その生活、仕事に100%の力で取組む姿が全治であり、皆そう生きているでしょう。神経症者だけが自己改善に多くの時間を使って生きています、これが病気です。
>いつでもどこでも自分をどう解決するかの課題にとりくむ前に、とりあえずちょっと身近な用事に手を出すときが思ってもみなかった全治の始まりです。
「自分をどう解決するか」を考えている時が病気であり、これをしなくなった時が治癒状態でしょう。すなわち治さなくなった時が治癒でしょう。
そして自己を治さない変えないと相手にしないなら、目の前の現実を相手にする事になります。
>思考がなくては神経症はありませんので、自己意識内容にことばと論理を持ちこまないことは現時点で最も懸命な知恵であることは明白です。
思考とは自分に対して行われる、治そうとする思考です。これに対しては「治さない」治す事を止めるが立派な対処方法になるでよう。
>森田療法で真に治る姿の実際は、分かって治るのではなく、治ってから分かるのです。
理屈が解って治癒するのでは無いは上に書いた通りだが、治ると治癒の理屈メカニズムは自然に理解されてきます。
すると自己の過去行ってきた間違が悲しく辛く自覚されて、感情に近い心でその間違いは行わなくなります。
宇佐博士は「治癒はインスタント」だと言われているが、治癒を固定的に捉えるのでは無くて
この治さない一瞬、一瞬が治癒の状態なのです、この治さないで生きる時間が治癒であり、治し始めると病気が始まります。
だから治った後に分かる、自分が行った間違いの理屈、メカニズムを自覚する事は大切です。
>全治は現実生活の姿そのもの−言葉を離れた真の実在−
治癒は自己の症状が変化したり、強くなったりして人生に成功する事では無いでしょう、状を治さず変えず相手にしなくなった時に、苦しみは無くなり治癒します。
この事は、自己への思考を捨てて、現実生活え取り組んでいる姿と同じものです。
自己の内側から見ると治さない変えないだが、外側から見ると現実を生きている姿です。内側と外側から見た見方の違いです。
実生活での努力そのものが全治−治さないことの徹底−
いつでもどこでも自分をどう解決するかの課題にとりくむ前に、とりあえずちょっと身近な用事に手を出すときが思ってもみなかった全治の始まりです。
思考がなくては神経症はありませんので、自己意識内容にことばと論理を持ちこまないことは現時点で最も懸命な知恵であることは明白です。
森田療法で真に治る姿の実際は、分かって治るのではなく、治ってから分かるのです。
全治は現実生活の姿そのもの−言葉を離れた真の実在−
視線恐怖を人と会うとすぐに思い出してしまい、考えて治そうとしてしまう自分がいます。
こういった場合どういう心持ちでやっていったら良いのでしょうか?
不眠でも、赤面恐怖でも、なんでもこれを治そうと思う間はどうしても治らぬ治す事を断念し、治す事を忘れたら治る
神経質の症状を治すという事についてはまず最も大切な事は、自分の病を治す事を忘れねばならない。これを忘れない間は決して治らない
自分の病気を治すことばかり聞きたいと思って来るのが最も悪い、この神経質の病気は、自分で治そうとするほどますます悪くなるものである。」