投稿時間:02/10/30(Wed) 11:20 投稿者名:富士男
Eメール: URL :
タイトル:親鸞
私はあまり禅の言葉は解からないが、不安心即安心、煩悩即悟りは自分で求めるものでなく、自然に自分が 実行しているものですね。 煩悩がいっぱい有るが、それを取り立てて問題にしないなら、煩悩のまま幸せにいきれる日々が有ります。 どんな方法であれ不安や煩悩を取ろうとする時に囚われが発生して苦悩が生まれます。
私は親鸞の言った言葉を集めた「歎異抄」は若い時分に必死で読みました 神経症の治癒体験と「歎異抄」の言葉はよく似ていると思うので意見を書いてみます。 歎異抄のなかに有ります 「仏になる身が念仏して地獄に落ちたとて後悔はそうらわめ、いずれの行いもおよびがたき身なれば とても地獄は一定の住み家ぞし」 「親鸞におきては念仏は地獄に落ちる業にてはべらんや、仏になる種にてはべらんや総じて存知せざるなり」 この言葉の中にある「いずれの行いも及びがたき身」の自覚が非常に大切であり、その思いの結果 「地獄は一定の住み家」「地獄に落ちる種か存知せざる」となってしまって、自分から離れて元気になって 活躍をする様になってしまいます。
成仏したいと考え努力し、それが上手く行かないと悩む人に「いずれの行いも及びがたき身なれば地獄は 一定の住み家ぞし」と言い「いずれの行いも及びがたき身」との自覚の大切さを解いている。 「いずれの行いも及びがたき身」との思いは、完全に自分を受け入れた姿であり、自分への囚われから 外れる状態が出てきます。 自分はダメな人間だと決心しているので、自分について思うことが無くなってきます。そうなると心は 外に向かって活躍する方向に自然に走ります。 どんどん元気に明るくなってきて、生き甲斐があって幸せになります。そうなると神経症なんてどっちでも 良くなる、神経症は離れてゆきます。 親鸞の言葉と神経症治癒体験は非常に似ているいると思います。
|