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一 括 講 読

投稿時間:09/02/01(Sun) 10:50
投稿者名:森田正馬
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タイトル:神経衰弱と強迫観念の根治法
    森田療法を理解する必読の原点  著者 森田正馬
    初版は1926年に実業の日本社から刊行された。

投稿時間:09/02/02(Mon) 22:24
投稿者名:森田博士
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タイトル:あるがままにせよ
ヒポコンドリー性基調説(P21〜)
私の説に従えば、結局は神経衰弱症(神経質)は病ではない、ただ本人が普通の人にも
種々の場合に当然起こる感覚、気分に対して、いたずらにこれに執着し、誤想と迷妄とを
重ねてこれを病と信じ、いたずらに恐怖、苦悩するものである。すなわち病でも何でも
無いものを病と信じ、異常と主張するものである。
・・・神経質はいたずらに病苦を気にするという精神的基調から起こり、注意はつねに
そのある一定の感覚に集中し、注意が深くなれば感覚も鋭敏になり、感じが強ければ
したがって注意もこれに集中するようになって、次第にその異常感覚を憎悪してゆく
ものであるというふうに説明するのである。

どうすれば神経質は治るか(P33〜)
神経質の診断が確立したときにはじめて治療の方針が決まる、それはどうすれば良いか
神経質は病でないある感覚に執着してこれを病と信じ迷妄する病であるから、その執着
を去りさえすればよい。
・・・したがってこれは理知的にはけっして治るものではない、感情が自然にその通りに
ならねば治らないのである。

あるがままにせよ(P34〜)
治療の主眼については、言語では、いろいろと言い現わし方もあるけれども、詮じ詰れば
「あるがままでよい、あるがままよりほかに仕方ない、あるがままでなければならない」
とか言うことになる。これを宗教的にいえば、帰依とか帰命とか、絶対服従の意味になる
しかしこれは簡単のようで難しいし、また一方から見れば、難事のようで、実は最も平易
である、患者はその苦痛なり恐怖なりを逃れよう、それに勝とう、否定しようとしては
いけない。それでは神経質がますますその苦痛にとらわれ、心の葛藤を盛んにし、症状を
複雑にする手段になるのである。種々雑多の療法を講ずることも、宗教的に助かろうと
することも、皆同様につねに執着する結果となるばかりである。「あるがまま」になること
ができないからである。

 神経衰弱と強迫観念の根治法より(P21〜 )

投稿時間:09/02/03(Tue) 22:46
投稿者名:直人
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タイトル:Re: あるがままにせよ
博士は、病気の内容と治癒を以下の様に明確に述べています。

>神経質は病でないある感覚に執着してこれを病と信じ迷妄する病であるから、その執着を去りさえすればよい。
病とみるかは別にして、ある事柄が嫌であるには間違い無いだろう、それをどう治すか?
博士の答えは「その執着を去りさえすればよい」とのことです。
嫌な事を好きになるでもなく、上手く行かないのを成功させるでも無く、執着を取れば良い
神経質者はここに気付かない、一生を治す変えると頑張って人生を棒に振るのです。

博士は続いて言う
>種々雑多の療法を講ずることも、宗教的に助かろうとすることも、皆同様につねに執着する結果となるばかりである。
療法を講ずることも、助かろうと努力することもいけない、よけい執着するだけだと言う。
治す努力が執着を生むのです、この執着が病気を作るのです。
一番に悪いのは、自分で思考、工夫、努力して、症状を治そうとする長い時間だろう
この長い時間が自然に勝手に自分を病気においやるのです。
私がいつも言う様に、これは「治そうとする病気」です。治癒はただ一つ、治さない事です
治さない事で初めて執着を取りさる事が出来るのです。

>患者はその苦痛なり恐怖なりを逃れよう、それに勝とう、否定しようとしてはいけない。
と博士は言う。
苦痛、恐怖を相手にしないなら、目の前の事や生活、仕事にしっかりと取組めるでしょう
症状に囚われが無いなら、これ等の事に取組んで、心は執着から離れて明るくなって来る
日々が楽しく生き甲斐に満ちて来る、治さないだけで治癒は向こうからやって来るのです。

投稿時間:09/02/01(Sun) 10:58
投稿者名:森田博士
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タイトル:懺悔が神経症を治す
懺悔とは何か
懺悔によって病気が治ることがある、フロイトの精神分析法でも懺悔でヒステリー
などが治る。その心理は詳しく言えばちょっとむずかしいけれども一口にいえば
懺悔とは罪の当然の報いを当然に甘受するという心構えである。すなわち自分の罪と
思うことを自主告白し、発表することによって、その罪を受け様とする態度であって
これによって罪を免れ、負債を逃れ、助けられようとするものではない。
苦痛も名誉も命も投げ出す捨て身の態度である。悔い改めるとは、罪の報いをうけて
懲りて将来を自ら戒めるという意味である。
・・・自分の財産を隠匿し、偽りの公表をしたならば、本人の自責の苦悩はもとより
けっして人から救いを受けることはできない、もし正しく懺悔したならば、その商人が
前に長い間、無い袖を振り、外見を張り、内のやりくりは火の車で、心の煩悩のやるせ
なかったものが、たちまち重荷をおろし赤裸々になって、身も心も軽々となるのである
罪を犯したものが懺悔して救われるというのはこの意味においてである。その罪の罰を
当然受ける覚悟でならなければいけない。

懺悔によって病気が治る
・・・強迫観念はもとより、その他種々の病症の形をもって現われる神経質は皆な
ほとんど純粋な精神的条件によって起こったものであるから、この懺悔によって
捨て身の態度となり、当然の罪を罪としてその罪を受け、苦痛を甘受けするという
態度によって、これを治すことができる。
・・・強迫観念の患者は、簡単ないわゆる神経衰弱症と違って、思想の矛盾のこんがら
がったものがあるから、なかなか容易に宗教を信じることはできない。しかし強迫観念
でも、もし懺悔をする事ができたならば、その苦悩から脱却する事ができるのである。

自ら罪を知らない
これらの患者は、罪を悔い懺悔しようにも、自ら自分の罪を知らない。自分が頭痛持ち
であるのも、生み方の悪い親の罪、赤面恐怖も人々の同情がないから位に、自我一点
張りで罪を周囲に嫁して、自分には少しも心にやましい所はないと信じている。
もしこの患者が精神修養によって、自分は大変な自我主義であり、人の苦痛は十年でも
我慢するが、自分のは少しの苦痛でも、家族、友人、周囲の人に同情を要求せねば気が
すまないとかいう自分の欠点を知ることができたならば、もちろん懺悔によって治る
のである。しかしこれを知るに至る修養は容易でないから、したがって他の方法を
とらなければならない。

神経衰弱と強迫観念の根治法  P143〜 懺悔はとは何かより

投稿時間:09/02/01(Sun) 22:49
投稿者名:直人
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タイトル:Re: 懺悔が神経症を治す
懺悔をすれば神経症が治癒する、これは森田博士と私と、完全に考えの一致する所です
森田博士は「懺悔によって治る」と言われる、私は懺悔により治癒した経験を持ちます
私は師に叱られ怒鳴られて「もう来るな」と言われて、その晩に自分の無能を自覚して
涙を流して懺悔した、この自分には立派な行いなどできない、上手く行かないは当然だ
もうそれを相手にはすまい、下手な人間関係を持ったまま、治すなど言わず生て行こう

そう決心して明くる日に仕事しだした時に、なんと仕事がとどこうり無く上手く行く
不思議だ、これは何だと思って、そのまま仕事に励んで行った。
そして数日たって総て納得した、自己に囚われ治す変えると思考、努力する弊害を総て
納得理解しました、それから自己を治す変える努力はまったく無くなってしまった。
以後自分を治す変えるに使う時間はいっさい無くなり、多くの時間が自分に出来ました

治すをしないで偉くなる事は一つも無いが、自己の力を100%使って生きれるので
他の人とまったく平等になり、努力すれば多くの成功もできてきました。そして
悩み苦しみがまったく無いので、今までの苦悩から開放され、幸せと!と叫びました。
そして長い年月を生きてきたが、根本的能力の欠陥もあるのだろう、失敗もあった
でも自分の力を100%使って燃焼して生きれた事は幸せでした。

ここのホームページの治癒者も、ほとんどの人が懺悔をして治癒をしている
その中でも、まりさんや明子さんは代表的で、懺悔の書き込みがあった後は
治癒した書き込みが、ずっと続いている。懺悔とは自分で求めて出来ないが
まりさんや明子さんは、このホムページをしっかりと読む事で出来てきました。
治癒内容も公開しているので、皆しっかり読んで懺悔をして、治癒して下さい。

投稿時間:09/02/01(Sun) 10:54
投稿者名:二十才学生、森田博士
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タイトル:赤面恐怖の神経症治癒について
(森田博士)
赤面恐怖症とは強迫観念の一種であって、人前に出て顔が潮紅するのを恥ずかしく思い
これを恐怖し苦悶するに至るものである・・・まず簡単にその病歴を記す
二十歳の学生、発病は16歳頃、学校で何かの際に、同生徒の赤面するのを大勢ではやし
立てることが流行してから、生徒間に多くの赤面恐怖が出た。
患者はその頃から発病して二年ばかり前からは、ますますはなはだしくなった。ついては
衆人に注視されることが恐ろしくて、電車に乗ることができず、二里(八キロ)余りの
道を毎日電車にも乗らず、雪の日でも、必ず徒歩で通学していた。自分でますます悲観し
ついに中学五年級のとき、中途で学校を断念退学した。従来種々の治療を受けたけれども
少しも効なく、ついに自ら決心して、房州に静養し、もしも治らなければ、断然身を捨て
ようと決心して、行李の中に剃刀まで用意したが、折りしも偶然私の診察を受ける・・
・・・前後二十日間入院治療、のちに家庭に帰り、さらに十余日を経て、房州に転地療養
をした、これが大正八年十一月の三日であった、転地中は自炊生活をなし、農事の手伝い
をやった、その間患者は日記を書いて、一週間毎にこれを私の方に送り、私はこれに対し
それに朱書して、これを批評し指導していったのである。

(学生)(入院19日目)
・・・ときどき赤くなったが何ともなかった、身体もこれだけ強くなれば申し分は
なかろう。先生のご指導によりまして、やっとこれまで漕ぎつけました、私は文学を
捨てて商業に向かうつもりです・・・
・・・この数日で帰京します、私はなにものも得なかったようです、神経質が全快した
とは思われませんが別に悲しくも心配でもありません。
(森田博士)
「これが全快です、何ものも得なかったのが大きな賜り物であります。もし君が予期した
通リ、人前で顔が赤くなら無い様になったら、それは無恥堕落の人となり終りましょう。
もし君がある芸術心を満足したならば、それは玩具の人形のようなものでありましょう。
何者も得なかったために、君は大きな力を得ました、それは君も知りません、ただ君の
将来に大きな豊富なる人生が開けた、ただ神は知っています。ああ神は讃むべきかな」

(学生)(翌年3月)
私は上野の図書館へ行きます、赤くなるが、先生の「堪えよ、突入せよ」をモットーと
して、赤くなろうが、青くなろうが堪えます。今では恐怖はしません、終日勉強しますが
注意が心地よく集注してくれます、知らずに一頁を読むということは一度もありません。
今気づいた位です、帰る道でも、自分には何か良い素質があるんだと自信を着々掴み
かかります。いたずらに叫びを上げたり、大地を叩きつけてもけっして大きな人間では
ないと思います
・・・・学校が始まった時を想像すると不安になります、今日も電車で、隣に美しい方が
座られたとき、心臓は馬に乗った時のようにドッドッドッと跳ね上がりました、堪えます。
この苦痛を堪えぬければ、どんな困難だって恐ろしくは無いと勇気がついてきました。
・・・・学期は、かなり幸福に学校へ行きました、成績は全科目が皆優になりました。
ところが今月のはじめに胃を悪くし、学校を一週間も休み、一貫目も減りました
さらに感冒で、ひどい発熱しました、その後続いて頭が痛く、神経は一層過敏で、例の
赤面恐怖がまた頭を上げてきました、赤くなることはあるいは再発かも知れません
しかい私は去年以来、じっと耐えて嵐の通り過ぎるのを待つことを知りました。去年では
電車、劇場、学校、会合等を考えると、頼りない戦慄が頭をかすめました、今はそれが
全然ありません、去年と今では心の置場が、まるで変ってしまいました。
(森田博士)
「読者はこの例によって、いかなる所に着眼されるであろう。病は何のために治すか
目的がなければならぬ。すなわち薬なり催眠術なりを用いるにしても、たんにその容態を
治すだけでなく、その人を治さなければならぬ。ここに人生観という物がなければならぬ
この例についても、教育にも宗教にも、大きな人生問題にも触れるところが有る。」

 神経衰弱と強迫観念の根治法より(P215〜 15赤面恐怖症治癒の一例)

投稿時間:09/02/01(Sun) 10:56
投稿者名:直人
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タイトル:Re: 赤面恐怖の神経症治癒について
この例を読んで患者はいったい何がどう治ったか、治癒とはどういう事を考えたいと思う
博士は「人前で顔が赤くなら無い様になったら、それは無恥堕落の人となり終りましょう」
と言われる、たしかにその通りだろう。
赤面などは本人の生理的現象であり、それを治さないとおれない心根に問題が有るのです
しかるに患者は赤面が治らないなら死をも選ぶとまでの決心をして悩み苦しんでいる。

この人の治癒は、本人が願望している赤面の除去では無いだろう、赤面に囚われていて
治さないとおれない、本人の治そうとする病気の治癒が必要でしょう。
即ち赤面しても治す努力をせず相手にせずに生きる時に心は流れ変化して行くでしょう。
彼の言う通り「じっと耐えて嵐の通り過ぎるのを待つ」でいいだろう。

だが森田博士も「容態を治すだけでなく、その人を治さなければならぬ」と言っているが
心の病気を治すとは、この彼が人生の成功者になる努力をして行く人にしないといけない
単に耐えて安楽に生きるだけでは無くて、その得た安心、安楽の自由な時間を使って
現実を真面目にしっかりと取り組み生きる人にしないといけないだろう。

彼の求めているのも、治癒して懸命に生きて成功者になりたい、その為に赤面を治したい
赤面を治すのは手段でしかない、その手段に挫折して死おも選ぼうとしている
目的は懸命に生き成功するに有る訳で、赤面を治さずに、そなまま努力してつかめばいい
赤面したまま放置して、現実の世の勉強なり仕事なりにしっかり取り組み成功すれば良い

一瞬も忘れない治す変へる努力が囚われを作り病気を作るのだが、これを中止すれば良い
そしたら心は他のことに向かうしか無い、心は目の前の現実を飛び跳ねるだろう。
彼も「成績は全科目が皆優になりました」と言っているが、これが病気治癒の結果だろう
「何か良い素質があるんだと自信を着々掴みかかります」と、心も開放発展しています。

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