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一 括 講 読

投稿時間:09/01/01(Thu) 01:49
投稿者名:宇佐博士
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タイトル:分かって治ることはあり得ない−脱論理の徹底で全治− 
317回 三省会 での 宇佐先生の講話

http://homepage2.nifty.com/3seikai/kouwa/kouwa317.html

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投稿時間:09/01/02(Fri) 17:59
投稿者名:直人
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タイトル:Re: 分かって治ることはあり得ない−脱論理の徹底で全治− 
>分かって治ることはあり得ない−脱論理の徹底で全治−
治る理屈の会得から治るのでは無くて、治す理屈を放棄して治す努力をせずに生きる時に
自己への囚われから開放され自由になり、明るく幸せに生きる現実ができてきます。
まさに「脱論理の徹底で全治」があると言えるでしょう。

>森田療法で真に治る姿の実際は、分かって治るのではなく、治ってから分かるのです。
理屈が解って治癒するのでは無いは上に書いた通りだが、治ると治癒の理屈メカニズムは
自然に理解されてきます。すると自己の過去行ってきた間違が悲しく辛く自覚されて
感情に近い心でその間違いは行わなくなります。
宇佐博士は「治癒はインスタント」だと言われているが、治癒を固定的に捉えるのでは
無くて、この治さない一瞬、一瞬が治癒の状態なのです、この治さないで生きる時間が
治癒であり、治し始めると病気が始まります。
だから治った後に分かる、自分が行った間違いの理屈、メカニズムを自覚する事は大切です。

>現実生活の姿において、どなたも治らないでいることはできないのです。
治す変へるに取組むのでは無くて、現実生活に取組んでいる時は、治す努力はしていない
即ち治そうとする病気は、それを治そうとしないと治癒の状態になります。
現実生活に取組んでいる一瞬一瞬は、治す努力は無くて、現実えの取り組みが有ります
その状態は病気から離れています、この事の連続が治癒になるでしょう。
それを実現させる元は、治し変える努力、考えの間違いの自覚であり、それの否定です。
そして実行の結果出来る安楽も、自然に自分をそこに導いてくれます。

投稿時間:09/01/02(Fri) 18:10
投稿者名:森田博士
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タイトル:あるがまま(自然服従)
神経質の療法については、この思想の矛盾を打破すべきことが、一面の着眼点でなくてはならないことを知るべきである。
それなら、この思想の矛盾は、どうしてこれを打破することができるか。
一言でいえば、いたずらに人工的の拙策を放棄して、自然に服従すべしということである。人為的の工夫によって、随意に自己を支配しようとすることは、思うままにサイコロの目を出し、鴨川の水を上に押し流そうとするようなものである。思う通りにならないで、いたずらに煩悶を増し、力及ばないで、いたずらに苦痛にたえなくなるのは当然のことである。
それなら自然とは何であるか。夏暑くて、冬の寒いのは自然である。暑さを感じないようにしたい。寒いと思わないようになりたいというのは、人為的であって、そのあるがままに服従し、これにたえるのが自然である。
ある時、ある僧が洞山禅師に、「寒暑到来、いかに回避せん」といって避暑、回寒の法を問うたことがある。すると洞山は、「無寒暑のところへ行けばよい」という。それはどんなことかと問えば、「寒の時はなんじを寒殺し、熱の時はなんじを熱殺せよ」と答えたとのことである。これは寒いときは、そのままに寒いさむいになりきり、暑いときはまた暑いことそのままになりきるという意味であって、その時にはじめて寒さも暑さも忘れてしまう。
すなわち「心頭を滅却すれば火もまた涼し」ということになるのである。これが「自然に服従する」ということである。
死を恐れ、不快をいとい、災いを悲しみ、思う通りにならないことを嘆くなど、すべて人の感情の自然であることは、ちょうど水が低きにつくと同様である。さらにまた、朝寝過ごしては頭が重く、食い過ぎをしては胃の不快を覚え、驚いて心悸亢進を起こすなどのようなことも、すべて自然の法則に支配されるところであって、因果の理法であることをまぬがれないのである。すなわち、いずれも自分の都合のよいようにばかりはできない。自然に服従するよりほかに仕方がない。
(「神経質の本態と療法」森田正馬・白揚社)

投稿時間:09/01/02(Fri) 18:05
投稿者名:森田博士
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タイトル:思想の矛盾
思想の矛盾ということについて、少し説明を加えておきたいと思う。およそ思想というものは、私たちの体験的、主観的事実を外界に投影し、模型的に客観化したものであるから、ちょうど私たちの顔を鏡にうつしたようなもので、単に表面のかたちにとどまり、右と左の錯誤、矛盾のことが多い。
それ故私たちは、思想をそのまま事実と信じて、これにとらわれるときには、しばしば鏡に向かってヒゲをそるのに、カミソリの向け方が思うようにならないと同様のことが多いのである。
だから私が常に神経質患者に対して注意するところは、私たちはその思想にとらわれて、直接に、その行為を当てはめようとするときには、いたずらにくい違い、矛盾におちいることが多いから、思想は行動の見当をつけるにとどまらなければいけない。
それはちょうど鏡に対して、単に顔の局所の見当をつけるにとどめ、カミソリは自然の手の運動にまかせるようにしなければならないようなものである、ということである。
患者は眠る工夫をして、ますます不眠となり、苦痛を忘れようとして、ますますこれに執着するようになり、強迫観念を抑圧しようとして、ますますこれに悩まされるようなことは、すべてこの思想の矛盾にとらわれるためである、ということができる

この思想の矛盾のために、私たちは日常、これにあざむかれていることが非常に多い。
神経質患者はしばしば、「他の病気ならば仕方がないけれども、この病のためには死にたくない」とか、「他の苦痛ならば、どんなことでも忍耐するけれども、ただこの苦しみだけは、がまんができない」とかいい、あるいは不潔恐怖患者が、その手を洗う苦痛にたえかねて、「むしろこの手を切ってしまいたい」などということがある。
みんな目前の自分の心をみずからあざむいている思想の矛盾であって、本当は自分が他のどんな苦痛にもたえられず、どんな病気にも死ぬことはいやである、ということに自分から気がつかないのである。
これと同じ意味で、患者は常に自分の安逸、怠惰や責任の回避などを求めるために、この思想の矛盾によって、自分をあざむき、いろいろな口実をもうけて、自己弁解をしつつあるものである。

(「神経質の本態と療法」森田正馬・白揚社)

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