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一 括 講 読

投稿時間:09/01/04(Sun) 00:48
投稿者名:宇佐博士
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タイトル:生活の骨折り三昧が”真の達人” −必要さに従う臨機応変−

http://homepage2.nifty.com/3seikai/kouwa/kouwa319.html

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投稿時間:09/01/04(Sun) 00:49
投稿者名:直人
Eメール:
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タイトル:Re: 生活の骨折り三昧が”真の達人” −必要さに従う臨機応変−
>生活の骨折り三昧が”真の達人” −必要さに従う臨機応変−
臨機応変に対応するには、自己はかく有らねばならないと言うものを持っていては出来ない
自己に何も持たず素手で丸腰で現場に立つ事だろう、そしたら目を皿にした現場への注意が
現場での発見の連続であり、それに対して臨機応変に対応するのです。
こういった生き方を“真の達人”だと言われている様ですね。

>そこには内面的な問題、心とか症状あるいは生きる意味などが、まったくAさんの意識の外に行ってしまっていて、それらのことには全然取り合わないでいらっしゃるという、そこを皆様にごらんいただきたいのです。こういう状態を”真の達人”と申してよろしい。
心とか症状などが意識の外に行き全然取り合わないと言われている、そしたら自己の
意識は自然に現実を見ているだろう。これが普通の人の普通の心ですね。治癒状態です。

>「わかった。理解した。納得した」という概念的把握に終わらずに骨折り三昧の生活の真っ只中の体得で、心の問題についての歴史は消え去っています。神経症の苦悩やその葛藤が、ことごとく心の歴史であったことを思い起こす時、なんとそれは大きな飛躍でしょう。
自己の生活えの取り組みから治癒が有るが、その治癒の生活から真実が解り、自己の心を
相手に思考して相手をする事を異常と感じており、心を相手にしない様になります。
そしたら生活、仕事のみに真剣に取り組む日々になります。

>「その場の必要さに随って臨機応変」の働きであればさらにとらわれのない状態の徹底を見るでしょう。森田も晩年には「ただ働くだけです」といったと伝えられます。そこには自己意識内容が片鱗さえも見受けられないことに注目しなければなりません。
その場で臨機応変に対応する為には、心は意識はその場に無ければ出来ないでしょう
その場に意識が行くと言う事は自己の心への思考、意識はなくなっています。
その自己への意識が無くて、目の前の現実に取組む姿勢が治癒だと言われているでしょう
またそれが人生の生き甲斐ももたらしてくれる良い生き方だと言われていますね。

>神経症は例外なく自己意識内を概念化したところに生じた虚構の創作で、すべて意識現象ですから意識が暗くなっている睡眠中には存在しません。意識の明るい時に、不安や恐怖を取り除きたいとか、心の健康を得ようとかの人情に基づいて、治そうとか、良くしようとかの達成努力が明確に自分を目標にして続けられる、その熱心さは知的なとらわれとなって、どこまでも続くことで成り立っている現象です。
神経症は「治そうとする病気」だと私は言い続けてきましたが、宇佐博士も同じ考えです
「治そうとか、良くしようとかの達成努力が明確に自分を目標にして続けられる」この事が
神経症だと言われている。まさにこれは治そうとする病気なのです。治すに熱心な人ほど
神経症は進み持続を繰り返すでしょう。


>思考がなくては神経症はありませんので、自己意識内容にことばと論理を持ちこまないことは現時点で最も懸命な知恵であることは明白です。
思考とは自分に対して行われる、治そうとする思考です。これに対しては「治さない」
治す事を止めるが立派な対処方法になるでよう。

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