投稿時間:09/01/11(Sun) 23:14 投稿者名:直人
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タイトル:Re: 心の説明より実生活での工夫−論理の異なる心の世界−
>心の説明より実生活での工夫−論理の異なる心の世界− 心は自己の願望、理屈から離れて自由に発動します、本当に論理の異なる世界ですね。 だからそんな心を理解して説明してもしかた無いでしょう。そういったことは止めて 実生活で工夫して努力して生きる事こそ、勝手に治癒の心を作るでしょう。
>独自の心境もお話くださいましたが、それに対して手出しをするかしないかが「伸るか反るか」なのです。さまざまな心境を問題にしない、取り合わない方が、「伸る」で、反対にお手本を決めて、そういうものに少しでも手出しをするのが「反る」です。 自己の心の成り行きに手出ししても仕方無い、心は独自に動くのであり言う事をきかない 心の成り行きは放置して現実を前向きに生きる時に、心は自由を得て活発に働くのです。 その心に制約を決めて相手をする時に心は自由を奪われ活動が鈍くなるものですね。
>「強迫性障害」といっておりますのは、その考えと考えの葛藤に明け暮れし、そのために生活がたち行かなくなるという形を称して申します。 まったくそうですね。神経症になれば生活、仕事は上手く行かなくなる、その原因は 「考えと考えの葛藤に明け暮れ」る事により、自己の現実には50%の力しか出せません 皆な100%の力で生きているので、当然に落後するでしょう。
>他の症状におきましても、嫌な、気になる、面白くない感じを少しでもなくそう、減らそう、楽にしようとすると結局、強迫観念のようになります。治そうと手出しするところからが神経症です。 そうですね「治そう」とする所から神経症は起こって来るのです。治そうとする病気即ち 「嫌な、気になる、面白くない感じを少しでもなくそう」とする事が病気を作るのです 治す事を止めて現実を必死で生きる時に治癒が有るでしょう。
>実際の生活に重点をおいて働きだすというところ、不安は邪魔にされない格好で、善し悪しなしにそのあるまま全治が訪れるのです。 実際の生活に重点をおいて生きる時には、自己の不安等の問題は放置し相手にされません。 生活に重点をおいて生きる事が重要であり、その行為から自己の心の変化が自覚されて 不安等を相手にする事の間違いを知り、そういった事をしなくなって治癒が訪れます。
>心に手を加えることなく、実際の生活に直ちに重点をおいて進まれると、もうそれをもって究極の、本物の事実として私どもの申します全治はその瞬間に成り立っていると見てよろしいのです。 全治(治癒)は心に手を加える事なく、実際の生活に取組んでいる事だと言われている。 森田療法の自覚の観点から言うと、自己を治し変える根性の間違いを心より自覚すると もう自己の心には用なしになります、そしたらする事は実際の生活しか無いでしょう そこでは何の矛盾もなく、100%の力で現実に取組んでいる自分がいるでしょう。 そういう意味では、治癒の為にはこの自覚が最も重要なものでしょう。
>全治はあくまでも現実的であり、一秒先とか十分先とか、こうすれば治るという形のちちょっと先を夢見るものではありません。現実生活の骨折りそのものです。 宇佐博士の主張は治癒(全治)はインスタントであり一時的なものとの理解です、それを 起させる元は、目の前の現実生活に取組む状態から興るのです。 だから自己の心には用事無く現実を前向きに生きる日々は治癒の日々でしょう。 だからそこを生きろと指導されていますね。
>治ることがいかに皆様方の考えに関係ないかという点にご注目いただきたいのです。心の世界は目において代表されますように、論理の働く余地のない、普通の論理と異なる世界ですから、理屈で説明することはまったく必要ないのです。 心は勝手に変わり動くのです、自分がこう思ってくれ、こう感じてくれと言っても無理ですね。 心は勝手に感じ思うのです。結局この心を導くのは自己の真実への勉強であり理解でしょう。 それを得るには真面目に前向きに人生を生きるのが良いですね。
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