[リストへもどる]
新着記事(10件)

新着記事10件を表示しました

投稿時間:09/01/25(Sun) 01:51
投稿者名:直人
Eメール:
URL :
タイトル:Re: 心をどのようにも決めないのが「覚悟」−いつもかもの「めでたさ」−
>人間の優れた知性は心の外に向かっては素晴らしく発揮できますが、こと自分についてばかりはそれを上手に生かすわけにはまいりません。もし自分に使おうとすると、昔なら煩悩、今ならば悩み一般、医学的にとらえますと神経症というものに陥ってしまいます。困ったことに、自分に対して知恵の限りを尽くそうと、熱心な方々においてその苦痛が熱心さに比例してひどく感じられ、ついには病気としか思えないような状態になります。
まさに神経症の成立ちの説明であり、自分に知性を使う事は自己改善に外ならないでよう。
自己の内部に向かって知性を使い努力をするだけ、神経症は発生して活発になるでしょう。
その努力は成功が無く何十年も続く事は皆な経験され自覚されている事でしょう
だからそれは早く止めて、自己の知性は外に向けて使い、成功を重ねるのが良いですね
その自己の心の活動が生き甲斐を作ると同時に、社会に役立つ仕事が出来るのです。

>ところが自分についての知的なやりくりからさっさと離れて、いつでもどこでもその場に最も相応しい実生活を始めるのです。それが全治の時であり、全治の場所であるのです。
知的なやりくりを止めて生きるとは、丸腰、素手で武器無しで戦いに行くのです
そしたら目を皿の様に開けて、目の前を必死で見て、自己の安全の道を一瞬に判断する
そういう生き方を求められているでしょう。実際は戦場に行くのでは無くて、世間に
出て行くのです、その時に同じ様に丸腰、素手で武器無しで突っ込んで行くべきでしょう。
飛び込んで成功に向けて必死に努力して自己を100%生かした人生が幸せですね。

>「心を決めない」、つまり決心の反対ということです。これが本当の「覚悟」なのです。世間では「覚悟」と「決心」は同じように使われていますが、「決心」の反対、つまり心をどのようにも決めないのが「覚悟」と思っていただいてよろしいのでして、それが「めでたさ」なのです。
上に書いた様に丸腰、素手で武器無しで戦場に飛び込んで行くのが覚悟でしょう。
周りを見て最大の活躍、最新の動きが出来るのが、この素手の覚悟ではないだろうか

>森田療法では、こうすればこうなるということは申しません。いきなりの全治です。不安が減り、安心が増えて全治したというように理解されがちですが、全治は必ずいきなりのものです。ですから、「作業をしたから、あるいはこういう事をしたから良くなった」は脱線です。
自己への思考を離れて、目の前の現実に取組む心が全治であり、その現実に取組んでいる
姿勢が全治の証明でしょう。
自己を治し変える事の成功が治癒では無くて、治し変えるのを止めて放棄して生きるのが
神経症の病気の治癒そのものでしょう。

>ここでは、森田正馬先生の額にありますように、皆さん方が現実の問題に骨折って努力されているその最中が幸福であるという「努力即幸福」なのです。
特に療法とは関係なく、日々の前向きの生活、仕事の努力そのものに幸せは有るでしょう
それの成功が満足であり喜びでも有りますね。

>考えた心、考えた自分、考えた人生というものを真実ではないと見ているからなのです。決めようにも決めようがないからでなく、決めたら真実でなくなる、決めたらどなたもが脱線することがはっきりしているから決められないと申し上げるのです。
自己については決め様が無い、自己の心は自分の希望通り動かず、変更改善も出来ないですね
そういった事は相手にせずに懸命に前向きに生きる事で自然に良い方向が出来て来るでしょう

>心をどのようにも決めないのが「覚悟」−いつもかもの「めでたさ」−
心は丸腰、素手で武器を持たず生きるのが正解ですね、それが一番自由に働くのです
その上に懸命に意欲的に生きたいものですね。そこには失敗も有るが多くの成功が
有るでしょう、そしたら生き甲斐も出来て幸が生み出されてくるでしょう。
人間は病気が治癒するだけではなくて、求めるのは生き甲斐であり幸せですね。
「覚悟」して努力する日々に幸せが有るでしょう。

投稿時間:09/01/25(Sun) 01:51
投稿者名:宇佐博士
Eメール:
URL :
タイトル:心をどのようにも決めないのが「覚悟」−いつもかもの「めでたさ」−

http://homepage2.nifty.com/3seikai/kouwa/kouwa352.html

読み終われば左上のWindowsの←戻るで帰って下さい。

投稿時間:09/01/19(Mon) 23:47
投稿者名:直人
Eメール:
URL :
タイトル:Re: 実生活での骨折りが全治にほかならない−本当の怖がりになりなさい−
>人間の意識が二つの事柄を同時に追求していくことができないあり方を思いますと、重大な生活上の問題の方に重点が置けれた状態では、神経質どころではないというわけです。
まったくそうですね、自己の人生を積極的に生きている時は、自己をあまり見つめません
ある事に必死で取組んでいる時は、自己を見詰めないので神経症にはなりませんね。

>実生活上の問題解決に全力を挙げて進んでいらっしゃるという状況を全治とするわけです
反対側から言うなら、自分を見詰めて無い時間は全治ですね。実生活の問題解決に
全力で取組んでいれば、自己を見詰める時間は無いですね、だからその時間は全治です。

>今ある心より別の状態を求めない状況を全治とするのです。求めるよりも生活を先にしてくださいというわけです。
「今ある心」以外のものを得ようとするのは、心に手出しであり、そんな事は止めて
生活に飛び込んで行くのが良いのですね。そしたら心は自然、勝手に変化するでしょう。

>どなたにおきましても、それ以上、自分の心に手出しをなさらず、外の場面、社会生活の中で何らかの骨折りをされているその姿が全治にほかならないのです。
いつも同じ事を言われますが、自分の中でない、外の社会への活動が全治と言われます。

>そこからあとどうなるかは知ったことではなく、不安が消えるのか、消えないのかそれは全治と関係ありません。今すぐ直ちにしなければならない必要なこと、社会的な状況に照らして、これが先、これが大事、ということを大急ぎでなさるその途中がもう全治なのです。
ここにお医者さんの理論が有る様に思います、全治はその通りだと思いますが、人間の
願望は全治で止まらず幸せが欲しいのです。
治癒の為には「社会的に大事な事を大急ぎで行う」は必要でそれが全治を生むのだが
その社会的大事の成功が幸せをうむのです、大急ぎで行うは良いが、真面目に懸命に行い
それ以上に必要な事も探し行うのが良いですね。そこからより成功も生まれるでしょう。
その努力の過程が幸せであり、成功が満足につながるでしょう。

>「あるがまま」は、一切の心の工夫のいらない、心の問題を全部棚上げしてしまうくらいの素晴らしい世界である
一切の心の工夫のいらない、全部棚上げしてしまう「あるがまま」とはどういう事だろう。
「あるがまま」は自己を治し変えないの徹底であり、自己の心をいじる時間は有りません。
「あるがまま」の実行時には時間の浪費が無いのです。
「あるがまま」で無いなら他の心を求めるのであり、そこには使う時間が発生します。
その発生する時間が病気であるとのご指摘だと思います。

>実生活での骨折りが全治にほかならない−本当の怖がりになりなさい−
現実を生きる日々が、骨折りが全治だと言われています。そこには自己改善は無いですね
現実をしっかり見詰めて、前向きに努力して成功をつかんで行こうではないですか。

投稿時間:09/01/19(Mon) 23:44
投稿者名:宇佐博士
Eメール:
URL :
タイトル:実生活での骨折りが全治にほかならない−本当の怖がりになりなさい−

http://homepage2.nifty.com/3seikai/kouwa/kouwa351.html

読み終われば左上のWindowsの←戻るで帰って下さい。

投稿時間:09/01/18(Sun) 01:30
投稿者名:直人
Eメール:
URL :
タイトル:Re: どう治すかは課題ではない−実生活上の問題に骨折る−
>世間の人が考えるような、修養して後に、ある素晴らしい境地に到達してそれが全治であるというような、ある経過をもって実現するようなことでは決してありません。全治というのはそういう経過があってのことではなく、いつでもどこでもあるのです。
宇佐博士の神経症治癒の理論の総てと言って良いほど、この事はよく言われますね。
自己改善の成功の為に、修養して努力して成功してから、治癒が有るのではありません
今即テレビのチャンネンルを切り替える様に、目の前の生活、仕事に飛び込むのです
そこに心の変化があり囚われからの解脱があります、そこに幸せも満足も有ります
そういう何回かの体験から自己の本能が体が幸せになる方法を体得して行くのです
そしたらそれは自分の本能になり、心の動作の方向性がそちらに向くのです。

>実生活上のことをいきなり、その場で急いで始められましたらそれが見事な全治です。
いつもこの事を言われます。これが宇佐博士の全治の定義です。まったく正しいでしょう。
しかし幸せ技術研究所としては、この上に幸せになってほしいのです。全治してそれから
幸せになる、その為には、行う現実生活、仕事に真剣に取り組み、苦労を耐えて努力する
そこの積み重ねから少しづつ成功と幸せは得られて来るのです。

>神経症をどう治すかというような、症状を相手取ったやりくりは、ことごとく普通の論理で、神経症という論理の異なる世界のものを解決しようとするものですから、自分対自分の葛藤は文字通り煩悶に終ってしまいます。
症状を相手にした治す努力、改善の努力そのものが神経症です、治す努力が病気ですね
だから治癒は簡単な事であり、治すのを止めるのです。即ち宇佐博士の言われる通り
いきなり生活、仕事に飛び込めば良いのです、その状態が治癒の世界ですね。
これから幸せと元気をもらい、自己の本能がそれが正しいと認めるのです、その後は
努力は要らず勝手に自分がその道を歩いて行きます。

>神経症をどう治すかはすでに課題ではなく、それが成り立たない世界にいらっしゃって、立派に現実生活に骨折っていらっしゃると言ってよろしいのです。ちょうど猿のように、自分で見た自分、自分を対象化、概念化することなく、それでいて人間の知恵を外側に発揮している状態と見てよいのです。猿には自分対自分の問題がありません。ただ、外のことに真剣に取り組むのみです。
なるほど猿に学べですね、確かに猿は「自分対自分の問題」は無いですね、自己改善も
有りません、現実を見る眼、心で全身で現実を見て行動している、人間もそれで良いが
人間には猿以上の知恵と能力が有ります、それを外に向けて発揮すれば良いのです。
その知恵と能力が自分に向かって取り組ませる時に神経症は発生します。

>どう治すかは課題ではない−実生活上の問題に骨折る−
治す方法は無いですね、無いまま-実生活上の問題に骨折る-事が治癒の世界ですね。
その上に現実生活に必死に取り組んで成功を重ねて行くのが、当研究所の方向です
苦しみを相手にせず、自己改善にいっさい時間を取られず、世の為人の為家族の為に
必死で働く事を当研究所では求めます。

投稿時間:09/01/18(Sun) 01:29
投稿者名:宇佐博士
Eメール:
URL :
タイトル:どう治すかは課題ではない−実生活上の問題に骨折る−
http://homepage2.nifty.com/3seikai/kouwa/kouwa349.html

読み終われば左上のWindowsの←戻るで帰って下さい。

投稿時間:09/01/16(Fri) 18:58
投稿者名:直人
Eメール:
URL :
タイトル:Re: 不安を妙薬として生活に邁進 −自分のことは説明不要−
>不安を妙薬として生活に邁進 −自分のことは説明不要−
不安が有るからこそ努力をするでしょう、総て安心、恵まれていては努力する気持ちは
起きないでしょう、不安が有りそれを妙薬として、生活、仕事にまい進するでしょう。
その時に気持ちは自分から離れ、一人の人間が自然に生きています。
その心を理屈で説明は出来ないし、勝手に自然に明るく元気になって来るのでしょう。

>薄い氷のはった池を進む時、いわゆる薄氷を踏む思いですが、いつズルズルと沈むか分からない。この場合、「沈んだらどうしよう」ではなく、どうしようはいつも外の肝心な生活上、仕事上、勉強上のことです。自分をどうしようというのでなく、自分は沈んだら沈んだままゆくということです。
どうも薄氷の池で「沈んだら沈んだままゆく」と言うのは納得できず、お断りしたいが
言われたいのは、自己えの思考でなくて、自分以外の「生活上、仕事上、勉強上」の事を
見詰めて生活して行けだろう。
自己については自分の努力では変化させる事は出来ないので、そのまま行けとの事でしょう。

>自己意識内容はすべて薬ですから、安心のある方はその安心が一番効く薬、今、不安があるとおっしゃる方は、それがもうまことに妙薬であります。ここでしたら、症状と名をつけておられるそのものが薬です。
薬と言うからには、自分を治して良くしてくれるものでしょう、不安や症状自身に
そんな力が有るとは思えないが、不安や症状が有るからこそ生活に真剣にまい進出来る
不安や症状が薬になって自分の発展向上も生活の向上も有るのだろう。
そう言う意味では不安も症状も妙薬には違いないですね。

>薬剤で症状を抑えようとするやり方は、身体の故障で起こった病気を治すのと同じ論理で言ってますから、心というまったく論理の異なる世界に間違った取り扱い方をしているとしか言えません。
はっきりと「間違った取り扱い方をしている」と専門家が言われている、世の精神科医は
心を薬で治すと言って仕事をしている、薬はまったく酒と同じで一時的効き目しかなくて
治し変える事は無いでしょう。酒を飲んで心が強くなった人などいない事を知れ!

>自分を、あるいは症状をどうするかということが最大の関心事で最初ここに来られました。ところが、それが徐々にではなく一挙に、まるでテレビのチャンネルを切り替えるのと一緒で、もう社会生活あるのみです。
治癒は自己の願望の成功では無いでしょう、願望を相手にせず人生を生きる事で有る。
徐々に願望の成功では無くて、治し変える努力を止め放置して目の前の現実を生きると
明るい幸せがやって来ます、その時に治癒している自分を発見します。
森田博士が言う様に、褒美、副産物として改善があるのでしょう。

投稿時間:09/01/16(Fri) 18:58
投稿者名:宇佐博士
Eメール:
URL :
タイトル:不安を妙薬として生活に邁進 −自分のことは説明不要−
http://homepage2.nifty.com/3seikai/kouwa/kouwa336.html

読み終われば左上のWindowsの←戻るで帰って下さい。

投稿時間:09/01/11(Sun) 23:14
投稿者名:直人
Eメール:
URL :
タイトル:Re: 心の説明より実生活での工夫−論理の異なる心の世界−
>心の説明より実生活での工夫−論理の異なる心の世界−
心は自己の願望、理屈から離れて自由に発動します、本当に論理の異なる世界ですね。
だからそんな心を理解して説明してもしかた無いでしょう。そういったことは止めて
実生活で工夫して努力して生きる事こそ、勝手に治癒の心を作るでしょう。

>独自の心境もお話くださいましたが、それに対して手出しをするかしないかが「伸るか反るか」なのです。さまざまな心境を問題にしない、取り合わない方が、「伸る」で、反対にお手本を決めて、そういうものに少しでも手出しをするのが「反る」です。
自己の心の成り行きに手出ししても仕方無い、心は独自に動くのであり言う事をきかない
心の成り行きは放置して現実を前向きに生きる時に、心は自由を得て活発に働くのです。
その心に制約を決めて相手をする時に心は自由を奪われ活動が鈍くなるものですね。

>「強迫性障害」といっておりますのは、その考えと考えの葛藤に明け暮れし、そのために生活がたち行かなくなるという形を称して申します。
まったくそうですね。神経症になれば生活、仕事は上手く行かなくなる、その原因は
「考えと考えの葛藤に明け暮れ」る事により、自己の現実には50%の力しか出せません
皆な100%の力で生きているので、当然に落後するでしょう。

>他の症状におきましても、嫌な、気になる、面白くない感じを少しでもなくそう、減らそう、楽にしようとすると結局、強迫観念のようになります。治そうと手出しするところからが神経症です。
そうですね「治そう」とする所から神経症は起こって来るのです。治そうとする病気即ち
「嫌な、気になる、面白くない感じを少しでもなくそう」とする事が病気を作るのです
治す事を止めて現実を必死で生きる時に治癒が有るでしょう。

>実際の生活に重点をおいて働きだすというところ、不安は邪魔にされない格好で、善し悪しなしにそのあるまま全治が訪れるのです。
実際の生活に重点をおいて生きる時には、自己の不安等の問題は放置し相手にされません。
生活に重点をおいて生きる事が重要であり、その行為から自己の心の変化が自覚されて
不安等を相手にする事の間違いを知り、そういった事をしなくなって治癒が訪れます。

>心に手を加えることなく、実際の生活に直ちに重点をおいて進まれると、もうそれをもって究極の、本物の事実として私どもの申します全治はその瞬間に成り立っていると見てよろしいのです。
全治(治癒)は心に手を加える事なく、実際の生活に取組んでいる事だと言われている。
森田療法の自覚の観点から言うと、自己を治し変える根性の間違いを心より自覚すると
もう自己の心には用なしになります、そしたらする事は実際の生活しか無いでしょう
そこでは何の矛盾もなく、100%の力で現実に取組んでいる自分がいるでしょう。
そういう意味では、治癒の為にはこの自覚が最も重要なものでしょう。

>全治はあくまでも現実的であり、一秒先とか十分先とか、こうすれば治るという形のちちょっと先を夢見るものではありません。現実生活の骨折りそのものです。
宇佐博士の主張は治癒(全治)はインスタントであり一時的なものとの理解です、それを
起させる元は、目の前の現実生活に取組む状態から興るのです。
だから自己の心には用事無く現実を前向きに生きる日々は治癒の日々でしょう。
だからそこを生きろと指導されていますね。

>治ることがいかに皆様方の考えに関係ないかという点にご注目いただきたいのです。心の世界は目において代表されますように、論理の働く余地のない、普通の論理と異なる世界ですから、理屈で説明することはまったく必要ないのです。
心は勝手に変わり動くのです、自分がこう思ってくれ、こう感じてくれと言っても無理ですね。
心は勝手に感じ思うのです。結局この心を導くのは自己の真実への勉強であり理解でしょう。
それを得るには真面目に前向きに人生を生きるのが良いですね。

投稿時間:09/01/11(Sun) 23:13
投稿者名:宇佐博士
Eメール:
URL :
タイトル:心の説明より実生活での工夫−論理の異なる心の世界−
http://homepage2.nifty.com/3seikai/kouwa/kouwa335.html

読み終われば左上のWindowsの←戻るで帰って下さい。

[BBSツリ−へ] [ホ−ムペ−ジへ]

-