宇佐博士の言葉の解説を書きます
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投稿時間:09/01/06(Tue) 00:15
投稿者名:直人
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タイトル:Re: あるがままでないものはない−生活上の創意工夫が大事

>"あるがまま"でないものはない−生活上の創意工夫が大事−
「あるがまま」が治癒の状態だとすると、確かに言葉で説明できないものですね。
あえて言うと「生活上の創意工夫」している時があるがままで、治癒の状態でしょう
煎じ詰めると人生を前向きに懸命に生きている姿が治癒でありあるがままでしょう。

>いつでもどこでも自分をどう解決するかの課題にとりくむ前に、とりあえずちょっと身近な用事に手を出すときが思ってもみなかった全治の始まりです。
「自分をどう解決するか」を考えている時が病気であり、これをしなくなった時が治癒
状態でしょう。すなわち治さなくなった時が治癒でしょう。そして
自己を治さない変えないと相手にしないなら、目の前の現実を相手にする事になります。

>その用事にさらに一層の工夫が加わって、必要さに向けての仕事の向上が研究的に行われれば、そこが生活の場面でのもっとも明るい意識の中心になり、ものごとの完成を目ざす骨折りがあるばかりです。この時自分自身を照らす意識は暗くなり、よしあしを始めとする、あらゆる比較がなくなって、不安その他の症状も、性格上の自己不全感も途端に成り立ちようがなくなってしまいます。
人間の頭は同時に2つの事を考えるは不可能であり、生活、仕事に夢中になっている時は
自己についての意識は無く、その間はまったく自己を相手にしなくなります。
その時は神経症の症状は成り立たなくて。症状をまったく思い出さない治癒の状態です。
しかし生活、仕事に必死になって治癒を求めると、治す努力になりおかしな事になります。
自己の症状を放置して治さず生きる時に治癒はあるでしょう、その連続がいいですね。

>それは同時に”これが自分だ”という明確な意識が闇に没して、もはや知る対象でなくなり、どのようにも決められないのです。これが先程申しました分からなさのおのずからな成立で、自分を知ったり、決めたりすることからは絶対に導き出せるものではないことはご経験のとおりです。
結局に治癒は、自己を見詰めて理論的に理解して成立するのでは無くて、現実に取組む
時に生じる自覚、認識が導き出すものでしょう。

>森田の”あるがまま”は正面からはっきりさせようとすると、どれも皆抽象的な説明になって身につきません。日常生活のさ中に現実場面の裏側の分からなさとして見てほしいのです。そのときの前進が全治そのものです。
私はこの全治と言われる「そのときの前進」は生活、仕事に真面目に取り組んでいる状態
だと思います、そこには多くの成功が出来て、生き甲斐も自然に生まれるでしょう。
結局にこれが森田博士の言う「あるがまま」に生きている事になるでしょう。


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- あるがままでないものはない−生... - 宇佐博士 09/01/06(Tue) 00:14 No.2256

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