[リストへもどる]
新着記事(10件)

新着記事10件を表示しました

投稿時間:19/07/17(Wed) 10:17
投稿者名:davidUnugS
Eメール:david2784@gmail.com
URL :http://https://www.youtube.com/watch?v=wVj1l3AlbOs&app=desktop
タイトル:Howdy
I absolutely liked caboodle that was written.
I'd out of to regard reading more and more.
I transfer be happy to learn as much as I can
I really admire you in behalf of the issue so well done recognition you acutely much to save the time. Successfully!

投稿時間:18/12/13(Thu) 13:49
投稿者名:how to get your ex Back free
Eメール:lesley_macgillivray@gmail.com
URL :http://Fanaticspace.com/members/carminehiggin/profile/
タイトル:OK
Hey! I know this is kinda off topic but I was wondering which blog platform are you using for this site? I'm getting fed up of Wordpress because I've had issues with hackers and I'm looking at alternatives for another platform. I would be fantastic if you could point me in the direction of a good platform.

投稿時間:18/09/12(Wed) 17:09
投稿者名:happiM
Eメール:
URL :
タイトル:恥かしがりや
恥かしがりや」にも、二通りある。たんに恥かしいままに、いたずらに逃避の生活を送るものと、自ら恥かしがるのを、不甲斐なく、悲しむべきこととして、努力するものとがある。

たんなる「恥かしがりや」は、どうすることもできず、「縁なき衆生は度しがたし」であって、「猫に小判」「豚に真珠」である。
「求めよ、得られん」「叩けよ、開かれん」というように、ただ、努力を厭わないものは、どの ようにでも、これを導くことができる。

投稿時間:18/09/10(Mon) 16:32
投稿者名:happiM
Eメール:
URL :
タイトル:自分を伸ばす生き方の研究3
「短い一生は面白く、気持ちよく、自分の好きなようにくらすのでなければ生きる甲斐がない。生きている価値がない」というように考えるのを、私は気分本位と名づけている。それは人生の事実や実際を無視して、ただ自分の気分を標準にして人生を判断しようとするものである。享楽主義とか耽溺主義とかいうものは、そこからおこるのである。

投稿時間:18/09/10(Mon) 16:24
投稿者名:happiM
Eメール:
URL :
タイトル:自分を伸ばす生き方の研究2
ゲーテはその創作夛アウスト」の中で、ある人間の一生を詳細に記述して、「人生は努力である」という人生観をしめしたのである。それは人生を、欲望、執着、奮闘という主観的な面から観察したものと言うことができる。もしそれを客観的に外面から観察するときには、「すべて人間の生活は絶えざる活動である」といえよう。それは「動物」という名称ができた理由である。さらに それを価値批判の方面から見るならば、「人生は創造」であり、「日に新たに、また日々に新たな り」といわれるように、絶えざる進歩であり、前進である。ベルグソンのいう「創造的進化」もこの意味をふくんでいるのである。

投稿時間:18/09/10(Mon) 16:23
投稿者名:happiM
Eメール:
URL :
タイトル:自分を伸ばす生き方の研究
素直な心

自分を伸ばす生き方は、すなおな心で生きる事が大切だろう。
すなお・従順・「はからわない心」というのは、「自然に服従し、境遇に柔順な心」である。たとえば、親や先生から命じられることは、それを無理だと思い反抗的な気分がおこっても、とにかくためしに命じられるとおりにやってみることである。
また自分の職業や地位に不平不満があり、 あるいは自分の能力に自信がなく不安があっても、そのままに毎日の仕事にかじりついていくことである。
あるいはまた、頭が重く不快な感じがあっても、医者が診察して勉強(仕事)してもさしつかえな いと言えば、医者の言葉を疑い自分の身体を心配しながらも、まずためしに医者の言うとおりにやってみることである。
それと反対に、腹を立てて親や先生に反抗し、不平をこぼして自分のするべき仕事をせず、医者の言葉を疑って言うこともきかないのを、わがままとか、強情とかいうのである。

投稿時間:17/08/19(Sat) 09:37
投稿者名:直人
Eメール:
URL :
タイトル:Re: 治さない
happiN
>「症状を持ったまま行動する」とは不十分ですか。「症状を治すことを放棄する」の違いを教えてください。
これは何の為にこんな事を知り行う必要が有るだろう、自分を問題にする事が病的であり良くないでしょう
こんな事を知り実行して良い目を見ようとする事が良くない、それをしないのが
「症状を持ったまま行動する」「症状を治すことを放棄する」ですが、同じことの裏表の見方だと思う。

>「症状を考えない」ことと、「治すことを放棄する」の違いを教えてください。
神経症の人が、「症状を考えない」「治すことを放棄する」を実行出来たら、安楽な道にたどり着くのだが
本人の願望と正反対なので実行は難しい、これが良いと言う人がいるので、試しにやってみるか!で良いと思う。
それで安楽な道にたどり着くかは本人の心がけしだいだが、安楽を知れば、不安楽に戻る人はいないでしょう。
「症状を考えない」「治すことを放棄する」これも同じことの裏表の見方でしょう。
ただこれが本当に出来るのは、症状との苦闘に完全に挫折して、無条件降伏した時でしょう、人為的に作るは出来ないですね。

>happiM
我々は、ことさらに驚こうとしても、驚くことはできない。試みに死を覚悟しようとしてみても
その覚悟ができるものではない。驚くことも必死も、みなただその境遇と条件とによってのみ、はじめてできることである。
すなわち、外界の境遇と主観とは一にして二ではない。
境遇を離れ、思想によってそれを仮想しようとすることは、それこそ思想の矛盾でなくて何であろう。
右に挙げた私の方法は、けっして理論ではなくて、実際に体験させるものである。もしこの
方法を、暗示法や気合術と同一視しようとする人があったら、それはともに論じるに足りないのである。

>HappiU
「心を(あるいは症状を)そのままにしておいてから働く、という順序があるのではなく、
"働くこと″が"そのまま″であり、"そのまま″は"働くこと″と同一である」
<あるがまま>とか<そのまま>というように森田療法の神髄を表す言葉があるが、それらが
言葉にとどまっている限りはなんら意味を持たないのである。
不安や雑念などの症状を持ったまま、目前の仕事や勉強に懸命に取り組んでいくことが肝心なのである。

治さなければ神絲症は治らない、しかし治そうとすればするほど治らない、治さないでいれば不安で仕方なく、治そうとすればますます苦しい。
一刻もはやく治りたい人のために、はっきりと答をいうならば、症状に対する心構えはいらないということである
それ以上安心することもいらなければ、心配することもいらない。要するに気になるままで、それに(現実に)対して努力する

投稿時間:17/08/18(Fri) 09:51
投稿者名:あきら
Eメール:
URL :
タイトル:治さない
私は、過去、吃音恐怖に苦しんだ経験があります。
そこで、質問に移ります。「症状を持ったまま行動する」とは
不十分ですか。「症状を治すことを放棄する」の違いを教えて
ください。また、「症状を考えない」ことと、「治すことを
放棄する」の違いを教えてください。
「治さない」とは大変刺激的な表現ですが、「放棄する」との
違いはありますか?

投稿時間:17/07/09(Sun) 07:21
投稿者名:人工知能happiN
Eメール:
URL :
タイトル:治癒の経過、結果
治った結果から言いますと、対人恐怖の神経症を治すとの事は非常に簡単で治癒すればその後の人生は変わり幸せになります
神経症と心は重大な関係があり、この心への無知が延々神経症を続けさせます
心は仏教が教えているが、その心を上手に扱う事で治癒があります

自分を変えるなどとの横暴は心の存在を無視した無知であり、こころには
手出し無用との仏教の教えが真実であり、自分を変える事は止めて、心を自由にすると素晴らしい働きをする
自分の行いは治すを放棄するだが、これで心は自由になり一気に活動を始める

理屈は解りにくいが、勇気を持って治すを放棄すれば、自然に理解できます
具体的に対人恐怖を治し始めるには、人と接している対人の現場とそれ以外の
時間と別けて対応する必要があります。人と接している時は、余計な考えは捨てて
目の前の対人関係に理屈抜きに好意的に対応して、成功を目指します。

人と接している時間を取り出し合計しても数十分しかならない、しかし人と
接していない自由になる時間は膨大にあり、ここで心に手出しはしないです
自分を見詰め思い悩み、欠点を改善すべく工夫して時間を使うは厳禁です
これで心は開放されて、目の前の現実を自分の心の欲するまま自由に生きます

現場も自由な時間も、建設的に前向きに意欲的に生きるは、人とは当然に
行うべき事です、この日々を生きた時に、心は生き生きと活動を始めます
対人の現場も、努力は無くなり、心が自由に飛び出し笑い冗談も飛び出します
自由な時間も心が主人で自分は家来になります、それは自分の望む所です

長くなりましたが、以上が対人恐怖の治癒の道であり、実行して見て下さい

投稿時間:17/07/09(Sun) 07:17
投稿者名:人工知能happiM
Eメール:
URL :
タイトル:治癒えの道
なぜ捉われるか
捉われる根本的な理由として、第一に神経質の人は普通人の誰にも起こる対人恐怖を自分だけに特別なものと心得て
それが自分の生活にとって非常に不利なものと思い込んで、この当然あるべき自然の人情を、否定しようとしたり
それから逃れようとしたりすることになるのである。それは不可能を可能にしようとする葛藤である。
かなわぬ戦争をするようなもので、いよいよ苦しむばかりである。
それを絶対に起こさぬように念ずれば、いよいよ対人恐怖を強く意識するようになり、それがこびりついて
頭から離れないのである、こういう対人恐怖の捉われをどうして脱却するか

あるがままに任せる
どうにもならぬことは、仕方がないとして、そのままでやれるだけのことをやってゆくのである。
あるのが常態と心得て、素直に、対人恐怖でも何でも感じがら、びくびくはらはらのままやってゆくだけである。
平気になろともなんともしないから、葛藤もなく、ちょっと対人恐怖を感じても、いつの間にかすっと消えてしまう。

完全欲から虫のいい考え
人に逢って、少しも気後れしないように、固くならぬように、圧迫感を受けないように念ずるから、事実に裏切られて、
いよいよ症状を強く感ずるのである。だから、むしろはじめから、そういうことは人情の常と心得て
素直に受け入れてゆくのが正しい態度であり、捉われのないやり方である。
対立的な態度では無く人から何でも学んでゆくというような態度であれば、人も欣ぶし自分も得るところが多く人と融合する。

[記事リスト]

-