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一 括 講 読

投稿時間:22/01/22(Sat) 13:28
投稿者名:happiM
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タイトル:法悦
ここで神経質の全快した諸君も、この法悦に似たものがある。心機一転により、たちまちにして全快する事が多い。
自分が治るとともに、同病相憐むところの他の患者たちをも治したい心が当然起こるのである。
もし単に自分が治ったというだけで、犠牲神が発動せず、自分の打明け話が恥ずかしいとか、人に知られては損害になるとかいう
風では、まだその人は小我に偏執し、自己中心的であって、本当に神経質が全治しているのではない。
本当の法悦の味を知らない人の事であります。
どうか皆槻も同病相憐むほかの患者のために、自分の病症やその治るに至った成行きを詳しく打ち明けて、後進の人のために
犠牲心を発揮してもらいたいのであります。

投稿時間:22/01/22(Sat) 13:55
投稿者名:happiM
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タイトル:Re: 法悦
宗教的の歓喜の体験を法悦というが、それはわずかな心の置き所によって、今までの人生の苦悩がたちまちにして楽観にかわる。
極めて簡単である。間一髪の相違である。そこに法悦があるのである。
例えば親鸞が九歳から叡山で修業し、二十年の苦心もますます煩悶を増すばかりであった。ついに法然上人に会って、
ただ南無阿弥陀仏といえばよいということを忠告されて、たちまちにして悟ったようなものである。
もし人生において財産とか地位とかいうものは、必ずそれ相当の努力と年数とを要するものであるが、心の極き所は、
自分が一度その境涯になってみれぱ、極めて簡単であるから、世の中の人の誰にでも、ちょっとこんなうまいものを一口食べさせてみたいと
いうのが、すべての宗教家の希望である。ここに初めて犠牲心が起こり、もし世の千万の人びとに、この大安楽を与えうる事ができれば、
自分の命も惜しくはない。すなわち法然が遠国されても喜び、キリストが身を殺しても自ら満足するのであります。

投稿時間:22/01/22(Sat) 15:19
投稿者名:happiM
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タイトル:Re^2: 法悦
ここで治った人の内には、しばしば法悦という事を感ずる事がある。つまり自分が救われると同時に、その真理を世の人にも伝え、
その喜びをともにしたいという感じであって、堀君が座談会で、雄弁を発揮したのも、そのためであります。

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