[リストへもどる]
一 括 講 読

投稿時間:18/05/16(Wed) 00:23
投稿者名:5巻P40 恐怖の治し方P224 生の欲望P61, 62,44
Eメール:
URL :
タイトル:奇形恐怖の強迫観念
五巻P40
眼が横に二つついている事は平等であるが、その眼のつきぶりが、実に千変万化であって美人もできれば醜人もできる。これが差別である。しかるに吾人はただこの差別のみを強調して観ぜずに平等と差別と両方面を正しく批判する時に、「事実唯真」を認める事ができて、いたずらに自己中心的の小我にとらわれて、強迫観念になるような事はないのであります。

美人になる法は、いたずらに鼻の上に白粉をぬりつけ、眼の周りに紅をさしても、それはただ低級で、気陣で、目障りになるばかりです。本当に心の修養ができ、立居・振舞・表情が整えば、自然に醜人も美人になるのであります。

対人恐怖の治し方 P224
「自分の醜い顔を相手に見せて、不快を感じさせるのは罪悪である」これは、自我中心主義の反語もしくは間接の解釈すなわち自己弁護にて、けっして真の利他主義ではなく、見せかけの偽善の言かと存じます。
この流儀の好意とか善とかいうのは、たとえば成金が、自分で威張りたいために金をまき散らして、人に有難いと思わせ、人を自分の思いのままにしたいと考え、自分の考え通りにならねば、恩知らずといって憤るようなものである。これは、自己中心主義であって、けっして真の善ではない。

恥かしいということは何を意味するか。それは、人から嫌われないように、好かれたい。
劣等のものと思われず、偉いものと見られたい、という感情である。いいかえれば、人から良く思われたい欲望で、すなわち同時に、悪く思われはせぬか、という恐怖である。
人々は、異性、金銭、名誉、権勢等を獲たいと憧れる。これを獲るには、人から良く思われることが得策である。このゆえに、美人や金持ちや偉い人の前では恥かしいが、乞食や愚人や醜婦の前では恥かしくないのである。

平等観と差別観  生の欲望 P61, 62
人間は平等であり、悉皆成仏という点で、草木国土もすべて平等である。ところで、平等とは無形の抽象であり概念であり理論・屍理屈である。鼻はタテに口はヨコに顔についている点ではたしかに平等であるけれども、世界人類の一人として、ほかの人と全然同じという顔形がないことは、じっにおどろくべき差別ではある。
同じように横に長い眼なのに、その眼ざしがどれほど美醜の差を生じさせていることであろうか。差別は具体的であり実際であり事実である。

生の欲望P44
自分の醜さをかくすためのお化粧か、人前をつくろうための着物のようなもので、いつも人から笑われまい、軽べつされまい、悪く思われまい、と自分を保護し、さらにまた人のご機嫌をとり、自分の好意に感謝させようとするなど、あくまで自己中心的である。これは、小ざかしい知恵が働きすぎて、人間が本来もっているところの捧牲心がくらまされた結果である。

投稿時間:18/05/16(Wed) 00:26
投稿者名:HapiN
Eメール:
URL :
タイトル:悩む時間を無くする
心の病気が治るとは、自分を問題にして時間を使う事が完全に無くなる事です、奇形恐怖も強迫観念も、それを相手にする時間が無くなれば勝手に死滅します。
森田博士の理論は、我欲を起こして自乗地縄で苦しんでいる人の間違を指摘して、普通の道に戻しているのでしょう。

[記事リスト]

-