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新着記事(10件)

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投稿時間:22/01/22(Sat) 15:19
投稿者名:happiM
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タイトル:Re^2: 法悦
ここで治った人の内には、しばしば法悦という事を感ずる事がある。つまり自分が救われると同時に、その真理を世の人にも伝え、
その喜びをともにしたいという感じであって、堀君が座談会で、雄弁を発揮したのも、そのためであります。

投稿時間:22/01/22(Sat) 13:55
投稿者名:happiM
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タイトル:Re: 法悦
宗教的の歓喜の体験を法悦というが、それはわずかな心の置き所によって、今までの人生の苦悩がたちまちにして楽観にかわる。
極めて簡単である。間一髪の相違である。そこに法悦があるのである。
例えば親鸞が九歳から叡山で修業し、二十年の苦心もますます煩悶を増すばかりであった。ついに法然上人に会って、
ただ南無阿弥陀仏といえばよいということを忠告されて、たちまちにして悟ったようなものである。
もし人生において財産とか地位とかいうものは、必ずそれ相当の努力と年数とを要するものであるが、心の極き所は、
自分が一度その境涯になってみれぱ、極めて簡単であるから、世の中の人の誰にでも、ちょっとこんなうまいものを一口食べさせてみたいと
いうのが、すべての宗教家の希望である。ここに初めて犠牲心が起こり、もし世の千万の人びとに、この大安楽を与えうる事ができれば、
自分の命も惜しくはない。すなわち法然が遠国されても喜び、キリストが身を殺しても自ら満足するのであります。

投稿時間:22/01/22(Sat) 13:28
投稿者名:happiM
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タイトル:法悦
ここで神経質の全快した諸君も、この法悦に似たものがある。心機一転により、たちまちにして全快する事が多い。
自分が治るとともに、同病相憐むところの他の患者たちをも治したい心が当然起こるのである。
もし単に自分が治ったというだけで、犠牲神が発動せず、自分の打明け話が恥ずかしいとか、人に知られては損害になるとかいう
風では、まだその人は小我に偏執し、自己中心的であって、本当に神経質が全治しているのではない。
本当の法悦の味を知らない人の事であります。
どうか皆槻も同病相憐むほかの患者のために、自分の病症やその治るに至った成行きを詳しく打ち明けて、後進の人のために
犠牲心を発揮してもらいたいのであります。

投稿時間:21/12/04(Sat) 20:22
投稿者名:happiM
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タイトル: 森田慮法の開始
従来の治療法は、神経の衰弱に基づくと考え、神経系統の安静と快復をはかる目的で
休養するや鎮静剤、強壮剤等がもちいられたが、こういった療法がほとんど効果がなかったので
精神療法が重視されるようになったが、その精神療法も不徹底で、あるいは非科学的なものが多く
実際の役に立つものがほとんどなかった。
森田正馬博士は新しい精神療法を創案して、治療不能と思われた強迫観念や各種の神経質症状を
改善に導き、多くの成果を上げました。

投稿時間:21/08/01(Sun) 21:57
投稿者名:happiN
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タイトル:なりきる
意思や知性の努力で**するのは止めましょう、しかしそれが上手くできないのが自分です、そういう自分のままで生きる事が「あるがまま」です
**しないように努力するが、それが出来なかった自分を問題にして、悩むや改善の努力を始めないで生きるのが「あるがまま」です
悩むや改善の努力に時間とエネルギーを使うのが神経症の病気です、そういった事をせず、そく次の現実に移り進むのが治癒の世界です
「前に謀る(たばかる=だます、たくらむ、まどわす、方策を考える、工夫する、思案する )、後を慮る(おもんばかる=あれこれ思いを巡らし、深く考えること)」
こればかりして前に進まないのが神経症の病気です、あるがままに生きよう

投稿時間:21/07/11(Sun) 15:49
投稿者名:happiM
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タイトル:感情の法則
第一、感情はこれをそのままに放任し、もしくはその自然発動のままに従えば、その経過は山形の曲線をなし、一昇り一降りして、ついには消失するものである
(たとえば、苦痛、煩悶もそれを自然に放任して、堪え忍んでいれば、それほどたたないうち消失する)
第二、感情はその衝動を満足すれば、頓挫し消失するものである。
(たとえば餓えたとき、食を摂ればその苦痛は去るように)
第三、感情は同一の感覚に慣れるにしたがって、鈍くなり不感となるものである
(たとえば寒さ暑さも、慣れるにしたがって意に介さなくなる)
童が、つねに叱責されることによりついにはその叱責の言も、馬耳東風となるようなものであ
第四、感情はその刺激が継続して起こるときと、注意をこれに集注するときにますます強くなるものである。
(たとえば喧嘩がしだいに激烈になるのは、盆怒の刺激が継続して加わるためである)
第五、感情は新しい経験によって体得し、その反復によってますますその情を養成するものである。
(われわれが努力と成功との経験を反復することによって、はじめて勇気と自信を養成する)

投稿時間:21/06/18(Fri) 17:40
投稿者名:hsppiM
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タイトル:Re: 治る
仏の慈悲は、われわれが子供を愛するように衆生を愛するといわれるものであって、これがすなわち大我の極致である。
それに反して神経質患者は、自分の苦痛から逃れることばかりに心を労しているために、わが子も家族も犠牲にしてかえりみないことがある。
これが小我の執着である。 生の欲望P156

神経質の症状の治ると治らないとの境は、苦痛をなくしよう逃れようとする間は、十年でも二十年でも決して治らぬが、
苦痛はこれをどうする事も出来ぬ、しかたがないと知り分け、往生した時は、その日から治るのである。 五巻389

不眠でも、赤面恐怖でも、なんでもこれを治そうと思う間は、どうしても治らぬ。治す事を断念し、治す事を忘れたら治る 五巻318

もし自分の希望を捨てて、自分の人生をしだいに退縮して行くならば、決して書痙も対人恐怖も治る時節は到来せぬのである。
我々が生きる必要は欲望のためである。強迫観念を治すのは希望に向かってのためである。
欲望を捨て、希望を失うならば、命も必要がなければ、病も治す必要がないのである。
ここが最も大切なる自覚のあるところであるから、皆様もこの点をよくよく注意しなければなりません。五巻P40

苦しみが治るということは、煩悶苦悩の解決であり、迷妄から脱却して、正しい悟りの境地に達することを意味する。それはまた、人格的に未熟な状態から脱して一人前の社会人になることである。
さらにまた、適応性の欠如のために自己の欲求を満たすことのできなかった人が、社会や環境に適応しつつ、自己の欲求を満たしてゆけるようになることである。
また、自分の性格、能力、身体の欠点ぱかりにとらわれて、自己嫌悪におちいっている人が、自分の性格の特長を発揮し、能力を充分に活用することにより、新しい生き甲斐を感ずるようになることである。
さらに積極的にいうならば、精神的なとらわれのためにあまり社会の役に立たなかった人間が、それぞれの立場において、社会に貢献するようになることである。 神経質問答P3〜4(水谷啓二)

投稿時間:21/06/18(Fri) 01:28
投稿者名:happiM
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タイトル:治る
「神経質の人が種々の症状に悩むのは、そのかぎりない欲望に向かって逼進するようになるための過渡期であり、ついには悟りに達すべき迷妄の時期である。
それは自分の苦悩のみを誇張して考えてこれに執着し、自分の本来の心を自覚することのできない時期である。
それがある機縁にふれることにより、ひとたび生の欲望を自覚して心機一転したとき、はじめて、そこに従来の苦悩が雲散霧消するのである。
そしてひとたび自覚を得たのちには、前の苦悩はまるで夢のように思われ、かつて苦悩を去らんがために百方手をつくしたことがいかに馬鹿げたことであったかがわかり、
百八十度の方向転換をして、ひたすらに向上心に駆られて勇猛心を起こし、苦痛困難を度外視して、努力奮闘するようになるのである。
それと同時に、いよいよ精神修養に興味を起こし、人格的にも大成するようになるのである。」 神経質問答P4

心理的説明は、ここで強迫観念の治った人にはよくわかるが、しかしこれが理解ができたからとて、直ちに治るのではない。
理屈でわかるよりも体験ができさえすれば治り、治りさえすれば、理諭は容易にわかるようになるから、体験を先にするほうが得策である。  五巻738

ここで治った人の内には、しばしば法悦という事を感ずる事がある。つまり自分が救われると同時に、その真理を世の人にも伝え、
その喜びをともにしたいという感じであって、堀君が座談会で、雄弁を発揮したのも、そのためであります。五巻516

吃音恐怖はどうして治るかといえば、自分は吃るものであると決める事です。色の黒いものは黒いもの、知悪の回りの悪いものは悪いものと決める。
赤面恐怖は、自分は小胆なもの、書痙も自分は手の震えるものと決める事で治る。決して虚偽のからいばりをしないという事が最も大切です。 五巻516

親鸞上人が、偉くなったのは、自分が愚鈍であり悪人であると、悟ってからの事です。
赤面恐怖の人でも、自分は、身勝手・わがままであり、人に思いやりがないとかいう事を自覚するようになったら
心機一転して、たちまちに治るのである。 五巻433

なお神経質の症状を治すという事については、まず最も大切な事は、自分の病を治す事を忘れねばならない。これを忘れない間は、決して治らない。
例えば肺尖カタルでも肺のほうばかりに治療がこだわっている間は治らないが、身体が全体に健康になれば治る。
神経質も精神が健全になり、人生観が正しくなれば、初めて全快して再発しないのである。
すなわちここでは、健全なる精神を養い、正しい人生観をうるような事を目的とすれば、初めて一般の興味と利益とが得られる  五巻164

患者は、自分が何かする仕事はなかろうか、どんな事をすれば、病気が治るだろうかと、そんな事ばかりにとらわれて、その悪知に災いされているからであります。
それがこの悪知を捨てて、心槻一転すれば、すなわち病気が治るのであります。  五巻73

投稿時間:21/05/14(Fri) 00:11
投稿者名:happiM
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タイトル:精神交互作用とは何か
神経質について私がいう精神交互作用とは、われわれがある感覚に対して注意を集中すれ
ば、その感覚は鋭敏になり、そうして鋭敏になった感覚はさらにそこに注意を固着させ、この
感覚と注意が相まって交互に作用することによりその感覚をますます強大にする、そういう精
神過程を名づけたものである。

投稿時間:21/05/08(Sat) 18:59
投稿者名:happiM
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タイトル:恒心
恒心あるある者は、子として親の意見を否定しないように、社会においても他の人々の意見を頭から否定するようなことをしない。
恒心(定まった、しっかりした心)のない者は、親から悪い遺伝を受けたとか、教育や家庭の影響が悪いとか、貧乏で高等の学校を出してくれなかったとか、いろいろ怨むけれども、そんなことを一々怨んだところで追いついた話ではない。各人がその境遇と能力に応じて、生の力を発揮していくよりほかに道はない。
なお、ここに付言しておきたいことは、親だけでなく社会にたいしていろいろな不満や怒りを感じるのは誰でも同じことである。恒心のあるなしにかかわらず、すべての人に共通した感情である
ただ、恒心ある者は社会にたいする不平不満がつよいほど、ますます自ら省み、自ら重んじ、自分の実力と人徳を養おうとする。これに反して恒心のない者は、自ら省みないでいたずらに人をのろい、危険な思想に走ることになるのである。

死を恐れ、不快を厭い、災いを悲しみ、思う通りにならないことを歎くなど、みな人の感情の自然であることは、ちょうど水が低きにつくと同様である
いずれも自分の都合のよいようにばかりはできない。自然に服従するよりほかに仕方がないのである。

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