投稿時間:17/10/07(Sat) 11:16 投稿者名:hppiM、U
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タイトル:強迫観念と強迫行為
生の欲望 P36 「気に入らないと、何枚でも紙を破って書き直す」とかいうのは、もししょっちゅうやっているとすると、それは変態である。 自分は常態と思ってそれをやっているとすれば、それは私の言う強迫行為であり、 自分ではいけないいけないと思いながら抑制することができなければ、それは強迫観念である。 いやな気持ちがしてもそれを我慢して、自分の感情に支配されないのが常態である。
囚われからの解脱 P72 要は知的やりくりを離れて、雲門のように、ぶっつけに目前のことに取り掛かり特別な心境を今の自分の心境以外に 求めようとしないことが大切な事ですね、そうすると全治は自然にどなたにでも訪れます。 理論が解って治るということはないのです、なによりもぶっつけにただそのまままに前進というのが真実に生きる道んなのです。
森田理論がわかって治るということはないのです。なによりもぶっつけにただ前進といううのが真実(あるがまま)に生きる道なのです。 つまり対人恐怖といい、強迫観念といい、あるいは強迫行為といい、またほかの方々がお困りになっている身体的な心気症状といい、 ことごとくそれらはご自分についての話です。 これらの症状についての説明というのは概念化されたもの、つまりことばと論理で組みたてられたものなのです。 それよりも肝心な皆さん方の目の前のいろんな用事や勉強が、あるいは仕事や生活が待っているのですからね。 心をあれこれ分析している暇がないというわけです。
囚われからの解脱 P84 神経質にひっかかったのを、どうしたら治せるだろうか、ということから出発した全治はありえないのです。 具体的な方法はないのです。方法といいますのは、すべて知的なやりくり、計らいということですね。
そこで強迫観念と強迫行為ということですけれども、どっちが重いということではなくて、その精神的なこだわり、 すなわち自分の心を気にならない状態にしておこうという精神面でのやりくりが神経質にひっかかった状態ですし 行動を通じて安心しようとしていますと、強迫行為ということになるのでして、それはどちらの治し方も全く同じことなのです。
実際の生活が、その場に最もぴったりしておりますように、その必要さに応じて今何をしな ければならないか、ということばかりを考え、ハラハラするまでに緊張を高めて、その場その場 に対応していらっしゃればもう強迫観念と強迫行為を決して別々に治すという必要はありません。
健康人として振るまうという演出が、実は同時に自然に、心がほったらかしになるわけでして、 さらにいいのは目の前のことに取り組むことになるという点です。
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