478号
2014年9月9日

主な記事のインデックス

 〈豊島支部〉本部・支部・正規の団結で通勤手当を実現しました!

 ー第20回闘いに学ぶ夏の旅
 「世界遺産の富士山に基地はいらない」に参加してー
 ◇シリーズ 〜私と戦争〜A
 連載 「カナリアは歌い続ける 17」
[HPトップに戻る]


豊島支部
本部・支部・正規の団結で
通勤手当を実現しました!



 豊島支部は区当局との交渉で、通勤手当の支給を勝ち取りました。
繰り返しの交渉と宣伝活動のなかで得た成果です。



豊島支部 組合員

 「粘り強く闘う」。これは労働運動の決まり文句だと思っていました。
それがまさに、今回の経過を表しているのだと感じています。

通勤費支給求め続ける
 かねてから当局の言い分では、「非常勤職員の賃金に通勤手当分見合いとして、8000円が含まれている、実費を支給するならこれを減額してから」というものでした。
これに対して私たちは、早期の解決を焦る思いと、実質手取り額の下がる職員が出ないようにと願う葛藤の中にいました。でも、たとえ交渉が平行線をたどるとしても、あくまで賃金水準を下げずに通勤手当を支給するよう要求してきたのです。
今回の回答はその結実であり、自転車通勤手当の支給もあることや、課税対象金額が下がることなど、不利益を被る職員はいないものと考えています。

超勤支給の道開く
 通勤手当支給には条例改正が必要だという理由から、ここまで時間がかかったこともあるのでしょうが、結果的には、超過勤務手当の可能性まで同時に開きました。
これまで「非常勤に超過勤務命令をすることはあり得ない」と当局は現場の実態からかけはなれた建て前を主張するばかりでした。
 このように粘ることができた理由は、視野を拡げ、5年雇い止め撤廃や休暇制度等の均等待遇の原点に立ち戻り、繰り返し要求してきたからでした。
お金のかかることが難しければそうでないことから切り崩していく。
そうした視野を拡げ粘ることができたのは、豊島区の公共一般支部活動が、正規の区職労組と密接に団結し、歩調を合わせて運動してきたおかげです。加えて本部の力添えが大きく作用しました。
毎月の支部会議では正規の二重加盟役員と本部役員とのリードと後押しがあり、それに学び、具体的に行動することができたからでした。

「良い仕事」環境整えてこそ
 経費削減と言うのなら、職員が意欲を持って仕事ができる環境を整えることこそが、本当の成果につながるのではないでしょうか。
たとえ遠距離でも、5年を超えても、働き続けたい。私たちはより良い仕事がしたいのです。
皆がそう思い続け共に闘って大きな実を結んだ。
この喜びを職場の仲間と一緒に分かち合っています。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

総務省通知が要求前進の武器に

担当オルグ

 総務省が7月4日に公布した「公務員部長通知」(総務省通知)は、「通勤費用の実費弁償」を明記しています。
区当局の交通費支給は、総務省通知を踏まえた回答です。
総務省通知を要求前進の武器として、今後も活用していきます。 


[このページのトップに戻る]
「富士山には 月見草がよく似合ふ」(太宰治) 
ー第20回闘いに学ぶ夏の旅
 「世界遺産の富士山に基地はいらない」に参加してー



 毎年恒例の「夏の旅行」が、8月2・3日に行われました。今回は参加者22人で山梨県を訪れました。
 雨宮争議の地や世界遺産になった富士山にある北富士演習場などを巡り、闘いに学んだ旅行。
参加した組合員さんの感想を紹介します。


 1日目の目的地は、日本で最初のストライキのあった甲府の「雨宮製糸工場跡地」。
くしくも、その日の朝日新聞・天声人語、「128年前の雨宮製糸の時代を彷彿とさせる牛丼チェーン『すき屋』の労働実態・・・経営側が人を安く、都合よく使おうとする大きな流れは変わっていない」との記事がバスの中で紹介された。この旅の企画が、実に時宜にかなったものであることが良くわかる。

工女の決起場は境内
 雨宮製糸工場跡は町なかの平凡な駐車場となってしまっていたが、工女たちが立てこもった瑞泉寺はいまだ健在だった。
 当時の山梨日日新聞は、「お松・お竹・お梅・お虎の面々、・・百余名の工女が同町の寺院に会し」、工女たちは「『雇主が同盟規約で妾(わらわ)達を苦しめるならば、妾達も同盟しなければ不利益なり、先鞭はこの紡績場から始めん』と決起」と記事にしている。まさに現代に通じる名言だ。
 それにしても100人からの工女が駈けこんだ先が工場すぐそばの寺院とは、住職さんもさぞかし気骨のあった人だったような気もする。現代の労働者の駆け込み寺と決起の場は組合だ。

富士で人殺しの演習
 2日目は、北富士演習場。
開放日とはいえ演習場だというから物々しい警備が・・、と思っていたが、開けっ放しの金網のゲートがあるだけ、誰もいない。
 中は草地が続く丘陵だ。ナデシコ・キキョウ・ギボウシ等々が自生している。自家用車がちらほら止まっていて、蝶々取りの網を持った人も歩いている。
ここは国立公園、標高1000メートルを超える自然あふれる高原地帯なのだ。
 こんな丘陵地帯を踏みつぶして、「戦車道」や「徹甲弾ドーム」と呼ばれる模擬劣化ウラン弾の標的、人型の標的、市街戦想定の建物が造られている。
「不発弾注意」の看板もあちこちに。平日は実弾射撃の轟音が響きわたるという。
富士のふもとで人殺しの練習が行われている。とんでもない話だ。
 「富士山に迷彩服は似合わない」のだ。ましてやオスプレイなどもってのほかだ。


[このページのトップに戻る]
◇シリーズ 〜私と戦争〜A

 来年は終戦から70年。戦争の記憶を風化させずに、継承しようと、戦争の苦難を生き抜いた組合員から、体験談を語ってもらいました。


東京大空襲で同級生のほとんどが亡くなった

新宿区路上喫煙 禁止パトロール分会 組合員(81) 東京都生まれ


「疎開」寒さに耐えて
 小学6年生の冬(1944年)、群馬県草津に集団疎開しました。
4畳半の部屋に4人、1つの布団に2人で寝ていました。部屋のいろりは夜に消され、浴衣1枚で凍えながら寝ました。
朝起きると、建付けの悪い建物の隙間から粉雪が入り込み、廊下は雪で真っ白でした。
風呂から出て移動しただけで、手ぬぐいが凍って固まってしまう程の寒さでした。

学校に裸足で通う
 私たちは裸一貫で疎開してきましたので、地元の農家の方とは生活に格差がありました。
制服を買うこともできず裸足で学校へ通っていました。
中学校に進学する時、制服を買うための抽選がありました。
私はたまたま抽選に当たってしまいました。
しかし、家の経済状態では買えないことは分かっていました。抽選券をおふくろに出せませんでした。
我慢を重ねる生活
 東京の人はみじめでした。農家を訪ねて、おふくろの帯や衣類をもっていき、それと引換えにサツマイモなどを分けてもらいました。
両親は自分が食べる分も私に食べさせてくれました。
「贅沢は敵」、「欲しがりません勝つまでは」と、我慢にがまんを重ねてきました。
あの時に私を育ててくれた親はどんな気持ちだったか。

空襲で同級生は死んだ
 進学のために東京に帰った同級生たちは、東京大空襲にあい、ほとんどが亡くなりました。だから、小学校の修学旅行や卒業式、同窓会もやったことがないのです。
 それでも、私の世代はまだ生き残れました。
先輩たちは特攻隊で零戦に乗り、体当たりして死んでいます。
私は実戦の経験はなくとも零戦がB にぶつかっていくところを目で見ています。
米軍機の機銃掃射から逃げたこともあります。多くの若者が犠牲になりました。
再び戦争が起きれば、当然若い人が犠牲になるのです。戦争なんて絶対にだめですよ。

憲法があってこそ
 戦争を知っている世代は、我々の世代でおしまいです。
安倍首相は理由をこじつけて、集団的自衛権を行使すると言っています。
アメリカが戦争を仕掛けても、戦争が収まった所はどこにもない。テロが繰り返されています。
 戦争がどれだけ悲惨なものか、政治家は分かっているのでしょうか。
69年間、日本が戦争を起こさなかったのは、憲法があったからです。
 歴史を振り返り、戦前に私たちがどういう生活を送り、努力してきたか、分かってもらいたい。


[このページのトップに戻る]



 カナリアは歌い続ける 17

作 八重樫 節子
挿絵 小林 武雄


「シチリア遺跡)」


  長い間の夢を実現する日がやってきた。2001年1月10日、私はウィーン国立歌劇場合唱団の研修生として、ウィーンへと飛び立った。夫も同行した。
 2000年5月に新国立劇場合唱団の女声有志で、ウィーンのオペラを見に行こうというツアーを組んでいたので、劇場の制作部長トーマス・ノヴォラツキー氏(後の新国立劇場オペラ芸術監督)とは既に顔を合わせていた。また合唱団ピアニストの女性、バリトンの合唱団員のI氏という2人の日本人ともある程度のメール連絡ができていた。
  当時の新国オペラ・チーフプロデューサー小林常吉氏にこの留学についての段取りもつけてもらい、「合唱にも沢山出演できるよ!」と言われていた。
その話をI氏にした時も、私のレパートリーを積極的に告げて出演すれば、私の代わりに降板する人も喜ぶだろう!とのことだった。
しかし、この期待は劇場に行ってすぐに裏切られた。
ウィーン到着の翌朝、早速劇場に出向き、まずノヴォラツキー氏と会って事務手続きをしてから、合唱団の練習室へ!皆に紹介をされて練習を見学した。
終了後、合唱指揮者のエルネスト・ドゥンシルン氏と話し、オペラにはいつごろから出られるかを問うと、「それはできない。そもそも衣装がない」とにべもない言い方をする。
確かに以前劇場から送られてきた文書には「研修生としてリハーサルに参加。報酬はない。
期間中は私に傷害保険をかける」の3点しか書かれていない。
また、日本では研修生と訳すことが多いHospitantin(ホスピタンティン)という言葉も、聴講生の意味合いが強いこともわかった。
また研修に来た人間にオペラを見せることくらいは当然と思っていたが、それもなかった。
初日はそれでも、私が事務局に頼むと配券してくれたが、翌日から知らん顔である。
 文化庁在外派遣研修員として、滞在費が1日約1万円支給されていたが、まともにオペラの切符を買っていては到底足りるものではない。
また立見席が安いからと言って、毎日数時間前に並んで買うほどの時間もない。
劇場のパンフレットを読むと、立見席を優先的に買えるシステムがあることがわかった。まずその券を800シリング(1シリングは当時8・5円)で購入し、あとは1枚30シリングの立見席を1ヶ月分まとめて購入した。
  さて肝心の研修だが、歌うことは許されず、ひたすら指揮者のそばの席に座って練習を見る毎日となった。
声は出さないまでも、共に口を動かし、レパートリーを増やすことに努め、まずは合唱分野第1号の人間として、足がかりを作ったことに意義を見出そうと割り切ることにした。
  合唱団正団員は当時102名いて、その75%までの人が組合の作るローテーションに基づいて本番に出演し、75名以上必要な演目には、登録制のZusats Chor(ツーザッツ コーア)(150人以上いる)が交代で出演するという。
練習は月〜金曜日の午前中に2時間半程度行われ、男声で始まり混声・女声の順で終わるか、あるいはその逆で、男女それぞれ1時間半練習。
ヨーロッパの都市の多くがそうであるように、職住接近なので昼食には帰宅する人も多く、再度公演時間の少し前に劇場に出向いていたようだ。
私は本番には出られないので、午前は聴講し、午後は週3回ドイツ語学校へ、夜はオペラを見るという毎日だった。
  日本では、新しい演目の楽譜は早めに配布され、各自譜読みと意味調べをして初練習に臨み、音が取れない人は周囲の冷たい視線を浴びるものだが、ウィーンでの練習風景は全く違った。
楽譜は、団員であるライブラリアンが毎日各自の譜面台に用意し、持ち出し禁止ということもあるが、素の状態で稽古が始まるのだった。


[このページのトップに戻る]