サイト運営者の部屋


「みそたねくん」を訪問いただき有難う御座います。

このサイトは、阪神淡路大震災の翌年に開設いたしました。
当時、多くの日本人が大震災の情報がなかなか届かない、情報の混乱を目の当たりにしていたのですが、それと同時に震災現場から発信される情報がなぜか世界に配信されていた事実に驚いたわけであります。実はそれはインターネットによって発信されたいた情報だったのです。
私はパソコン通信といって、テキストで情報をやり取りするPC−VanやNiftyなどを使っていましたが、それはまるっきりクローズなネットの伝言掲示板のようなものでしたので、このインターネットに非常に興味を持ちましたですね。
これは私だけでなく多くの人が関心を持ったと思います。
私は特別高圧受変電施設の電気主任技術者長く勤めそのあと電気プラントの設計施工管理の仕事をしていたのでそれなりにインターネットについての情報は得ていたのですが、まだまだ敷居が高いものでした。
この震災での出来事をきっかけに少し腰を据えてインターネットに取り組もうとしたわけであります。
当時は、今と違って、便利なホームページ作成ソフトなどありません。個人でサイトを立ち上げるのもまだまだ大変な頃でした。
最初に申し込みをしたプロバイダなどは、個人がインターネットの申し込みをしたとしてものインターネット情報を見るだけで、一個人が情報を発信するとは思っていなかったのでしょう。(これが普通でした)
インターネットを閲覧するにもネットスケープといった結構高価なソフトが必要でした。
そしてホームページの作成は、コマンド表を見ながらテキスト形式で文字を打ち込んで作成するのです。また出来上がったファイルをサーバーに送り込むにしても、これまたPPP設定がこれまた結構ややこしく、FTPソフトもなかなか使い勝手のいいものが手に入りません。それでもなんとか手探りで開設にこぎつけました。
ところが、出来上がったホームページファイルがどうしてもサーバーに送れません。
プロバイダと連絡を繰り返し行い、試行錯誤を幾度もしましたが、結局だめです。
実はプロバイダーのうたい文句にホームページも可と有ったのですが、実はプロパイダー自身対応していなかったのです。(ソフト面ハード面のどちらの技術も未熟でした)。個人のパソコン側もまだNECとか富士通などのメーカーがソフトを囲い込んでいた時代ですからなかなか技術知識もわからないところがありました。私などはPC98互換のエプソンPCを使っていたころです。
その頃は雨後の竹の子のように次々と新しいプロバイダが生まれ、中には技術的にうまく対応できないお粗末なプロパイダーも沢山ありました。結局、向こうからから返金するから解約してほしいといってきました。
その後、今発信しているプロバイダに変更して以来、ずっと発信を続けています。


尺八を手にしたのは昭和40年前後頃です。
その頃私は江坂に住んでいました。
江坂にはJR吹田駅から阪急豊津駅に至り、そこからは田園風景の中を一直線に道路が伸びていました。
道に接して集落が点在している長閑な時代です。
この道は、天井川に行き当たるとそこでS字に大きく右折し急坂を駆け上り川を跨ぎ服部駅に向かいますが、このS字に折れ曲がった登り道の傍に小さな集落があり、バスの窓から眺めると”尺八教授”の大きな看板が目に入ってきます。それが上田流尺八家元の上田佳道先生のお宅でした。
佳道先生はなかなか愉快な先生でした。お酒の方も結構なまれていたと記憶します。
車も、まだ当時としては庶民にはての届かないものでしたが、確かコロナに乗っておられたのではなかったでしょうか。
私も何回か勉強会などの開場に行く時、先生のご自宅からご一緒させていただいたものですが、道路は今のように渋滞など考えられない時代でした。その道を勢い良く運転されるので大変緊張して乗せていただいていたのを覚えています。また、私の周りには洋楽をしているともが多かったのですが、稽古の合間にその話をするととても洋楽について興味をお持ちで聞いていただきましたね。
尺八は持っていなかったので、先生推奨の竹を購入しました。龍風銘(藤原龍風)の尺八で、この方は確か神戸三宮あたりの方と記憶しています。(間違っているかも分かりません)
お宅は玄関口に楽譜棚がありまして、そこにはまだがりずるの譜面が主で、青焼きの譜面もおいてありました。
正面おくの右手部屋で稽古をしていただいていたのですが、先に稽古の方が来られているときにはよく奥様が左手並びの居間に呼んでくださってお茶を頂紀ながら待っていたものです。
結構先生も忙しい方で、稽古びに出かけておられて帰宅が間に合わない時などには、まだお元気だった流祖の芳憧(ほうどう)先生が代わりに稽古をして下さいましたですね。
何か分からないまま門をたたき、3年ほどお世話になりました。お名前も”佳陽”というお名前(雅号)まで頂いたのですが、なんとなく辞めてしまいましたですね。
で、暫くは友達と下手ねギターを弾いたりしていました。
その後、再び尺八を再開したのは30歳頃でした。
電話帳でたまたま見かけた尺八の先生にお電話をしたのですがそれがいまもお世話になっている琴古流美風会の家元佐藤晴美(せいび)先生でした。晴美先生は吉田晴風先生(宮城道雄師を朝鮮から日本に呼び寄せ、三曲会に新風を巻き起こされた方です)から第1号の第一号の免許を頂いたそうですが、広門伶風先生も、特か、特別の第1号だったというようなお話を聞きました。
大先生もお弟子さんの処遇にお気遣いされていたのでしょうか。
このことについて、勝手な推測をするなら、以前吉田晴風集なるLPレコードが出されましたが、この中に付録の冊子が入っていて、晴風会本部の座談会が内容になっていました。ここで、広門先生ご本人が、私は月謝を免除されていたといった風な・・・間違っているかな?事を述べられています。晴風先生門下に入られた時にはすでに尺八ではご活躍されていたからだと思います。晴風先生を補佐されていたので、免状の方もひょっとしたら特別に授与されたのでは、と勝手な想像をするわけです
吉田晴風先生には、ほかに出光計風、佐々木操風、渡辺浩風、石高琴風、山川直春師など著名なお弟子さんが沢山在籍する晴風会本部を主宰。晴美先生になぜ”風”というお名前ではないのかと、お尋ねしたことがあります。確か四名の方が同じときにお名前を頂いたそうですが4人とも”風”が付いていては、風で四方ふさがりになり縁起がよくないので一方を空かすために”晴”を頂いたとのことでしたね。その後、晴風会本部からの独立をお願い出て、お許しを得たので”美風会本部を創立したとの事です。
美風会には吉田晴風のお弟子さんだった堀江春風(故人)や、元美風会理事長の鈴木閑風師(この方は晴風の最後のお弟子さん)なども加わりました。
この美風会で、津田雅風というお名前を先生から頂き、現在もこの名前を主に使って活動しています。実は私が晴美先生の最後の弟子ということになってしまいましたですね。
晴美先生は阪急三国駅から5分ほどのところにお住まいでした。
稽古は2階の間です。階段を上って正面の小さい部屋は先生の作業場で、尺八製管作業場でした。
右手奥の部屋が稽古場です。
いつも手前の部屋のほうに入りそこで準備をして奥の間に入ります。
床間を背に机の前に座られた先生に差し向かいで座って稽古を受けます。
待っている時は、脇に座って聞かせていただきます。
自慢ながら、わたしは稽古を欠席したことは一度もありません。
仕事が終わって途中で食事をして、先生宅に着くと、いつもお話がほとんどで稽古はちょっとだけでしたね。
で、終わるのは11時ごろが当たり前でした。仕事で疲れていて、早く稽古をしていただいて帰りたいと思っていたり、あまり家で稽古をせずにいくとすぐに稽古は終わってしまい、あとはお話ばかり延々と続きます。
私にも家庭の事情などがあり子供の面倒を見なければならなくなて、どうしても稽古にはこれない旨をお伝えしたとき、稽古はお休みにしますが、日曜に子供さんをつれて遊びに来なさいと言われました。日曜は稽古はなされていませんでしたが自宅に居られるときは製管の作業をされていました。わたしの子供は連れては行きませんでしたが暫く日曜に先生宅に通いそこで尺八の製管作業のお手伝いをさせて頂きました。作業中にいろいろお話をおうかい出来るのが楽しみでしたですね。

晴美先生没後、美風会に在席のまま、古伝尺八の門田笛空(もんでんてきくう)先生が吹田市にお住まいだったので、門を叩きました。
当時は吹田市域内で勤めておりましたが、門田先生のお宅はその職場のお近くでしたが、稽古場は阪急で一駅次の豊津駅の直ぐ傍のマンション5階でした。ご自分で太い独特の地なし管をお造りになられていましたが、これはご自宅のほうで作業をされていたようです。一度、竹伐採に平群のほうまで私の車でご一緒しました。冬山の中腹で先生と二人で弁当を黙々と食べていましたですね。
竹採りは、同門の小林俊風先生(故人)という交野市にお住まいの先生ともご一緒させていただいたことがありました。
この先生は「科学朝日」という雑誌に製管の記事が掲載されたそうですが残念ながら私はその記事は目にしてはいません。
小柄でいつもにこやかなお顔のおじいちゃんといった感じの、小林先生宅はJR磐船駅の近くの住宅街にあり、玄関口に直ぐそばに竹材を沢山おかれていました。お二階の部屋を作業場にされていました。あつかましくも作業を見学させていただいていたり、秋口に竹材を探しに私の車で洛西周辺を走りました。
先生は遠方の竹藪を見ただけで、真竹の藪を見つけられましたですね。真竹だと分かると近くに行き藪を確認して、いいなと思えば、山の所有者訪ね、採取の交渉をし、冬2月ごろ再び山に入ります。(蛇足ですが、2月は竹は養分を溜め込む頃なので、採取の時期には本当は向いていないのではと、個人的には思っているのですが・・・)竹の根元を掘るためにシャベルの作り方なども教えていただきました。なかなか重労働で、沢山ハプニングもありましたが、それは、またの折にご披露したいと思います。
さて、一通り古伝曲を教えていただき(笛舟なんていうお名前も使わせていただきました)洛北(八瀬だったかな?)の生家で行われた明暗三十七世谷北無竹先生の法要にも参加させていただきました。
法衣と言うのか、虚無僧装束で厳かな法要でした。
この虚無僧装束にあこがれておられるのか、はたまた本曲を吹くことにより悟りを得ようとされているのか解りませんが、結構虚無僧をされる方が多くいます。今日のような複雑社会にがんじがらめにされた現実の自分から抜け出るための方便、一種の変身願望のような面があるのかもわかりませんが、わたしも古伝曲をと接することで、一時はどっぷり虚無僧の格好でいろいろあちらこちらに首を突っ込ませていただきましたですね。私の会の方で八木黎風師(故人)が虚無僧にすごく熱心な方で、私も誘われ(優柔不断なものですぐ誘われてしまいますね)最初は奈良の多武峰(とうのみね)談山神社で虚無僧装束で献奏のようなものが有りそれに参加しました。衣装はやはり故人の岩井省法先生の斡旋で入手しました。大阪市内の南、平野か針中野辺だったかもう昔のことなので失念しましたが、ご自宅にお伺いしました。その後、いろいろ紆余曲折があり、その後四天王寺さんで献奏を行うようになりましたですね。たしか、四天王寺のお坊さんで上田流尺八の先生、武内東尚先生のご尽力によるところが大きいと思います。現在は柘植の万寿寺(松尾芭蕉の菩提寺)のご住職です。一度仲間と三曲合奏勉強の場に本堂をお借りし大変お世話になりました。お近くにいかれた場合本堂で尺八を吹かせていただけると思います。また、幾度か武内先生の寒修行に大勢虚無僧姿でお供させていただきました。2月の一番寒いときで、一度は霙交じりの中を四天王寺から心斎橋商店街を通り抜け再びお寺に戻りましたが、まだ元気な頃でしたがとても厳しいものでした。もう、今はそんなまねは絶対出来ませんね。
室生寺の五重塔が被害を受けてときも、岩井先生のお弟子さんの増谷省陀さん(現在虚無僧研究会での大阪の役員をされています)のお声がけで私も虚無僧姿で浄財集めに参加させていただきました。御蔭で落慶法要の行列にも参加させていただきましたですね。最近は増位山虚無僧保存会会長は小出虚風先生(神如道先生の直門)のお誘いでなんとか参加させていただいている程度ですね。小出先生には一度ですが「無住心曲」を教えていただくために、兄弟弟子の植田晴韶氏と二人でお宅に寄せていただきました。暑い夏のことで、アイスクリームを頂戴しながらの勉強でしたが、何しろ私ども病持ちには加古川近くまでの訪問は大変なので、結局この曲一曲だけ教えていただいて失礼したままです。

その後、美風会の会員だった方の弟さんの垣内散風氏(故人)の誘いで美星の尺八研修館(横山勝也先生)の合宿講習会(3日間の合宿で年2回ありました)に十数回通いました。
垣内さんはどの流派にも所属しない一匹狼のような方で、社交的で結構器用な方で尺八も良く吹かれました。美風会京都支部長故田村晴翠宅で行われていた勉強会に兄さんと連れ立って押しかけ参加されていました。そこで知り合ったわけです。
絃方は京都の重鎮島田重弘、洋子夫妻です。そうそう、この時、奈良春童という先生も参加されていましたですね。大手出版社から民謡尺八教本を出されていましたのでサインの入ったものを頂きました。当時でもご高齢で、大柄で恰幅のいい偉い先生といったタイプの方でした。
この垣内さんとは結構親しくお付き合いさせていただきましたですね。
私だけでなく沢山の人からも人気が有り、わたしに、尺八の免状を作ってくれといわれ、何枚かそれらしい”師範免状”なるものをパソコンでこしらえたりしましたですね。また、上田流の田戸玄風さんとも交流があったので私宅に雑魚寝で缶ビールを飲みながらほとんど徹夜で尺八論議をしましたですね。
確か郡川直樹先生もご一緒だったかな。震災で被災されて、その後、関西から八戸のほうへ帰郷されましたですね。本曲などほんとに上手な先生でしたですね。
この垣内さんですが、どうして横山先生と昵懇であったいきさつはあまり詳しくは分かりませんが、国際尺八研修館設立のときの場所探しに尽力されたようにご本人は申されておりましたが・・・・
最初に参加したときは、新幹線で新倉敷駅に行きそこで送迎バスに乗せていただきましたが、2回目からは車で中国道を北房まで2時間すこし走り、ICを降りてそこから一般道を岡山方面に見いて美星まで行きました。
会場は元美星高校を使われていて、教室が一部宿舎になっていました。
いろんな流派の方が教室に集まって勉強するのがとても楽しかったですね。特に休憩の時に教室の床に畳をひっただけの部屋でみんなが車座になて酒をのみながら尺八談義に大いに盛り上がったのはいい思い出です。
また、この講習に10回以上参加したとき記念として”勝也人形”をいただけるのですがこれを頂いたときはとてもうれしかったですね。
横山先生が大阪に来られたときにはいつもお声がけをいただきました。私の住む茨木にも某お琴の先生の演奏会に出演されるためによく来られておられました。その演奏会の打ち上げにはなぜか私も同席させていただいたものです。一番印象に残るのは阪神淡路大震災の前日の演奏会後、茨木京都ホテル(現在はもうなくなっている)のラウンジで深夜までご一緒に飲んでいました。そして帰宅し熟睡まもなくの大震災です。後日お伺いしたところ、先生も大変だったそうで、死ぬかと思ったそうで、美星のご自宅に帰るのに数日かかり、日本海側経由の大回りで帰られたそうです。
一度などはは、垣内さんと美星の横山先生宅に事前の連絡もせずに押しかけまして、挙句には近くの宿舎をお世話頂き、朝食にはご自宅でに呼んでいただき奥様の手作りの料理をご馳走になりました。尺八を教えてもらうのではなく、ただ単に押しかけるだけのことでしたが・・・・・

横山先生がご病気で臥された頃、私も体を壊し、美星行きを残念することになりました。
ところが直ぐに、山本邦山先生が永廣真山先生宅でレッスンされているので来ないかとのお誘いを受け、分をわきまえず教えを受けることになりました。永廣先生とは三世菊塚千楽先生の直門、菊綾絹子先生(故人:菊塚四世の右腕とも称された方)の初弾き会などでご一緒させていただきました。まだ私は駆出しのころでしたが、真山先生の演奏を間じかで聞かせていただき感服させられましたですね。その息子さんの永廣孝山さんもさすがというところですね。レッスンを受けに真山先生宅に寄せて頂いた折良くお会いしますが、礼儀も正しくなかなかの好青年です。
そうそう、製管師の方は外にも何人か少し知っておりますが、皆さん演奏のほうも上手な方が多いですね。
吹田市の山手町に小林一城先生がおられますで。門田笛空先生と同じ阪急の豊津駅から歩いて10分ほどのところですね。河野玉山先生も同じく吹田市の金田のほうにお住まいですね。どちらも吹田三曲に所属の先生で、私も参加させていただいていますので演奏のほうは良く聞かせていただいておりますがたいしたものです。
私の住んでいる茨木市と同じ市内の鮎川というところに中村銀越先生が居られます。この方も尺八を吹かれますね。現在茨木三曲協会の会長さんです。
お宅のほうにも何回も遊びに寄せていただきました。あるときは、某有名な歌手の伴奏を頼まれたとき尺八の寸が合わないので前日に無理を言って商品の尺八を数本お借りしたこともありましたですね。(たまたまご本人が居られず、奥さんにお借りしたのです)
横道に入ってしまいましたが、さて、邦山先生から稽古を受けてからずいぶんに成ります。
私がまだ現役で仕事をしていた頃からで、人間国宝になられる前ですから10数年にはなるでしょうか。
いつも稽古の時には、太田道嶺先生がお手伝いに入ってくださいます。また、前後のレッスンにこられるのがご高名な絃方の先生
の時にはその先生もご一緒に箏、三絃で演奏補助して下さいます。時には邦山先生のお箏の場合もあり、なんとも贅沢な稽古をさせていただいているか、恐れ多いことであります。
話は少しそれますが、こういったある特殊なジャンルにはそれなりの業界紙的なものがあるわけです。
美風会に入門した頃、よく宗家から、「芸能新報」という地域の三曲情報新聞を発行されていた霜鳥さんの主催される演奏会などのお手伝いを仰せ付けられました。ま、といっても受付の”もぎり”程度のことで、ただ会場の机や椅子だしと入り口で座っている程度です。ま、枯れ木の賑わい程度のものです。いつの頃か、それも縁が遠くなりましたがその後、亡くなられたことを知り、その後、前田和男先生が引き継がれました。また、季刊邦楽大阪を



ま、あれやこれやと色んなことをこのように文字で書いているとものすごく尺八が上手いように見えてしまいますが、実態は素人芸の域を出ません。単なる下手のよこ好きです。
私には職業として電気の道を歩んでいたのですから、当然趣味の域を出るわけがありません。
それでもお陰で多くの人と知り合え、沢山勉強させていただきました。
立派尺八の先生方やお琴の先生などに沢山ご指導を受けることが出来て大変感謝しています。
今はまた、JAZZなんていう方面の仲間にも恵まれ恥ずかしい限りですが、楽しく合奏をしています。


【お世話になった先生方や多くの方々に対する感謝の気持ちを忘れないために、順次邦楽関係の思い出話を追加していきます。】

「みそたねくん」(孤舟庵)発信者 津田陽彦(はるひこ)