カンバスの犬


松川慎一は中学三年生でありながら、犬をひどく恐れている。
大型であれば慎一に限らず大概の人も同感であろうが、彼の場合、形の大小、 いや、それが実物であろうが写真であろうと、絵の中の犬であっても恐怖するの であった。
そればかりか、書籍の中の「犬」という活字にさえ敏感に反応するのっであっ て、それは、もう、一種の病的な状態といえた。

それは、慎一が学校からの帰り道、いつものように商店街を通り抜け裏道の方 へ出たときであった。
雨の染みに汚れた、小さな工場のブロック塀の基礎部を排水溝が平行してはし り、茶褐色の澱みから、薬品臭が漂っていた。
雑草もまばらな乾いた景色のなかを、漠然と歩いていると、行く手に何か飛び 出したような感覚が、彼の視神経を刺激した。
彼は、慌てて視線を上げた。
あるものを捕らえた瞬間、彼の全身の筋肉が、氷水にほうり込まれたように、 ギュッと硬直していった。
犬であった。
キリリと尾を巻いた柴犬であった。慎一は、下痢のおきそうなほどの強い胃の 萎縮を感じながら、必死で冷静さを取り戻そうと努力をしたが、夢の中で走るよ うに、歯がゆさばかりが募って、事態は一向に好転しない。
こんな場合、慎一は目を閉じて大きく深呼吸する事にしている。
すべての、現実を遮断してしまうのである。

人によっては、却って、状況が見えないための不安が大きいようにおもえるが 、彼には、そうする事が、一種、暗示の役目を果たしているのか、ひどく落ち着 kれうのである。
ようやく、動悸も治まり、落ち着きを取り戻せたので、両眼を恐る恐る開いて みた。
犬はいなかった。
ブロック塀から乗り出すように広げられた、落葉した枝が、青々とした空を背 景に線模様を描いていた。



村井沖が中学二年の松川慎一のいるクラスに転向してきたのは、三学期のはじ めの事であった。
彼の第一印象は、黒い学生服の上に、ちょこんと貧弱な頭部が乗っかていると 、言う風なものであった。
そして、誰の目にも、どこか奇異に感じられた。
村井沖の髪型も、奇異に映ったものの一つである。
慎一の学校にも、規則には無かったが、暗黙の規則があり、男生徒は丸刈りが 、半ば強制のように決められていた。
例えば、誰かが、改めてそんなことを問題にでもすれば「各自の自由だから、 お前の好きなようにすればいいいいじゃないか」
と、言い返されるに決まっている。
じゃあ、と言って、伸ばすような馬鹿もいない。そんなことをすれば、きっと 仲間はずれにされてしまうだろうから。
学校の中は、表向きは、自由ぶってはいるが決して自由ではない。いつも、暗 黙の戒律がすべてを支配しているのである。
これは、学校に限らず、地域だって、社会だって同じなのだけど・・・・
沖は、女生徒のように髪が長く(これもくどいようだが、おかっぱ頭が暗黙の 約束であり、それを破る勇気のあるも女生徒はまだいなかったのであるから、極 端に長かったというのではない)、かつまた、染めたような茶褐色をしていた。

学生服に支えられたような、ひ弱そうな貧弱な転校生は、大柄の森本先生と並 んで教壇に立った。
「え、君たちに紹介するが、やむをえない事情でこの学校に転向してこられ、 いや、うん・・・。君たちの中にも、すでにテレビのニュースなどで見た人もい ると思うが、お父さんが急に亡くなられ・・・・そうそう、この村井さんのお父 さんは、大日本美術協会の会長をされていた偉い方で、・・・」
思わず、慎一は吹き出しそうになった。いつもは、偉そうに生徒を呼び捨てに しているのに、転校生には、”さん”をつけてった。それに、”偉い方”のとこ ろで、いかにも自分も偉くなったように、背をぐっと伸ばし得意満面に紹介をし たのである。
「え、君たちに改めて紹介する。荒井沖君です」
「村井チュウです。チュウは、若沖(江戸時代の画家=伊藤若中のこと)のチ ュウです」
それだけ言うと、ぺロッと舌で唇のまわりをなめる仕草をした。
その時、慎一の眼に、彼の異様なまでに血色を帯びた、鮮やかな唇が眼に飛び 込んできた。
彼には、なんとなく虫が好かない、不快なな感じの新人であった。

単純な動機、理由のわからない感情が、えてして、人間関係を支配してしまう ものである。そして、それが時間とともに輪郭がつけられ、合理的な理由づけが なされ、確固たる信念として落ち着いてしまう。
そして、それが、自然と相手にも了解され、相対的反作用でもって、また、相 手の反目の動機となってしまう。
まあ、現実的にも、某高校の校長を務めあげ、御上から勲章まで頂いたような 分別ある老人が、隣の家の幸せに嫉妬して、執拗に嫌がらせを仕掛けるようなご 時世であるから、ある意味では、こういう理由なき偏見は当たり前なのかもしれ ない。

慎一と沖は、あらゆる点で対象的でもあった。直線上の正と負である。
慎一は、クラスでも大柄な方であって、大人になれば料理屋の主人が似合いそ うな福々しい顔をしていた。
人気者であったが、それが、少し軽く押しの効かない負の面でもあって、野球 部の副キャプテンに甘んじている。
それに比べ、沖は貧弱な様子で、クラブ活動をするでもなく、授業の休み時間 もクラスの喧騒とは無縁に、ぽつねんと席にただひとり座りノートに何かを書い ているだけの、あまり目立たない存在であった。
勉強もあまり出来るとは言い難い。
ただ、それが、消極からくるものでも無いようで、生来、信念として、勉強と は無縁なのかもしれない。
授業中に教科書を机に立てかけた陰で、ほかの事をしていようが、ただ、ぼん やり窓の外に眼を向けていようが、この事を注意する先生はいない。
その理由が、沖の不幸の事を気遣って大目に見ているのでもない。新顔だから といってしばらく無視をしていようと言う風でもない。その理由がなになのか、 当の先生達は気がついていないらしいが、ほとんどの生徒は予感していた。
まず、”著名な画家”の息子である事への諂いがあった。
明らかに、彼の描く絵は、誰の目にも、美術の大田先生を足元に寄せ付け迫力 があった。
同僚の太田先生を気遣い、また、それがいずれ自分の危機の折りの貸しになる と言った受け止め方をしていたのであろう、”無視”と言う行動で、相手を評価 しないような手段に出たのである。
そうすることで、優劣関係があいまいなまま、先生と生徒と言う権力序列が崩 されることなくいつまでも安泰でいられるから・・・
彼の描く絵は、将来間違いなく、父親の様に高名な画家になる予感を放ってい た。
サラブレッドの調教は、サラリーマン教師には嫉妬を生むばかりで、何の手出 しもできなかったのである。
事実、慎一は、太田先生の授業のとき、沖のデッサンを横目で覗き見たが、思 わずごくりと生唾を飲み込んでしまったほど、何か胸にジンとくるものがあった 。
それは、一種の不安と言えるものでもあった。
自分と同じ年代の生徒の、どでかい才能をま近で見せつけられると、平凡な自 分が、あまりに惨めに見え、非常な焦燥感に襲われてしまう。
ちらっと太田先生の方をを窺うと、教室を巡りながら沖の横を通りかかっても 何も言わず、へたくそな生徒の絵を手にとり、わざと大きな声だ誉めたりして、 ”何だそんな絵ぐらいでで威張るな”と、いかにも沖に遠回しに言っているよう に見える。
慎一は、沖のスケッチしたデスマスクを見たとき思わず「すごい」と感嘆の呟 きが口からもれてしまったほどである。
沖の描いた一枚の画用紙は、太田先生のネガをすり抜けた絵とはまるっきり違 っていた。
かと言って、不正確なのではない。
被写体そのままに描かれたデスマスクが、蘇生に執着をしているように、氷の 炎をほの揺らせながら冷たく目を閉じていたからである。
まさに、硬直した魂が、沖の墨筆によって永遠の静寂から甦ろうとしていたの である。

この天分は、彼のすべての欠点を補って余る物があった。
すべての欠点は”芸術家の偏屈”でしかなく、クラスの生徒は消極的ではあっ たが、尊敬の念こそあれ、軽蔑をしたりする者はいなかった。

三年も松川慎一と沖とは、クラスが同じであった。そして、六月も終わりに近 い、ある雨上がりの日であった。
梅雨の切れ間の息継ぎほどの尼や身の空は、薄灰色の毛羽模様のカーテンが全 面を覆っていた。
五時間目の予鈴のチャイムと同時にけたたましい足音が教室になだれ込んでき た。
五六人が物を奪い合って、あちらこちらの机や椅子に派手にぶつかりながら、 教室中をかけ巡る様は、小戦場であった。
そんな喧噪に、悲鳴を上げていた女性との金切り声がひとしきり大きくなった とたん、喧噪は静寂に急転換してしまった。
「あれ、あれ見て!」
叫びに近い先ほどの金切り声の声の主の言葉に、指で指し示す方に、室内のす べての視線が収束した。
そこは、先ほど、勢いのよい生徒たちによって床に倒された沖の机があった。
横倒しの机から、教科書が滑り出ている。筆箱もふたが開き、中から短い鉛筆 が数本飛び出していた。紙箱があった。しかし、多くの目は、hかの物に吸い付 けられていた。
それは、かって、自由に自分の意志で行動していたはずの、は虫類のメカの塊 がべっとりと床に並んでいた。
その光景は、ほんの瞬間のシーンであっていつの間か沖が戻ってきていて、す べての物を手際よく元の箱に収めてしまったのである。
その出来事は、いつも話題に飢えた教室から教室へ、きらびやかに伝えられて いった。

七月も半ば過ぎになると急に夏の季候に覆われ、日中も長くなる。
慎一が、野球部の練習を終えて帰ろうとしていた時間は、長い日中もようやく 地面近くを闇色に染め出していた。
そらは、彩度を落としながらなお、青く広がっていた。
涼を含んだ風が暗がりを縫ってわずかに吹いている。
U字型の校舎に囲まれた中庭を通りがかっていた彼に、「ばす!」と鈍い音が 飛びかかってきた。
心を驚かせながら音の飛んできた方に目をやると、そこには、色をすっかり失 った燃え尽きた炭色の木々が絵のように疎らに垂直の線を描いていた。
木の陰に人影が見えたので声をかけてみる。
「だれだ、」
返事が返らない。
慎一は、思い切って近づいていく。黒い陰が垂直な線と一つになったり離れた りしながら、だんだん大きく見えてくる。
「沖か・・・」
それは、沖であった。
樹の根本にうずくまるようにして、かすかな光に照らされた中池の水面をじっ と見ながらなにかをスケッチしている風であった。
手のひらですくい上げたほどのわずかな光の中でうずくまるようにして一心に 何かを観察している沖の姿は、荘厳な暮色の一枚の絵に見えた。
天を模写した蒼色の深みに、沖のブロンズがはめ込まれている。
背中越しにのぞき込もうとした慎一にやっと気づいた沖が振り返り、お互いか をお見合わせ、ばつの悪い微笑を浮かべて、お互いに、
「や!」と、声をかけあう。
お互いの感情が見えにくく、薄明かりで薄められていなかったら、きっと、感 情を害し有っていたかもしれない。

「おそいやないか」
「あ、練習さ」
「なにしてる」
「スケッチ」
それだけの会話で、ふたりは、多くを語ったように、満足な気持ちで胸をいっ ぱいにしながら、二人は、別の方向へ足早に遠ざかっていった。
次の日の朝、教室についた慎一に、「やあ!」と、沖が声をかけてきた。
「やあ」と慎一も返す。
たったそれだけのことなのに、慎一と沖は、旧友のような親しみを感じていた 。
それからまもなくして、夏休みに入ったが、休みにはお互いの家を訪れる約束 ができていた。
慎一は、クラスの誰よりもさきに自分が選ばれ満足感に満ちた気持ちで、その 日を待った。

慎一が沖の家を訪問する約束の日がきた。
こじんまりとした片流れの家は、清高地の住宅らしい新鮮な香りが満ちあふれ ていた。
チャイムを鳴らすとすぐに沖が応対に出てきた。その後ろから一匹の精悍な犬 も一緒に現れ、初めての客に親しみを込めて出迎えてくれた。
「こいつ、”良秀”って名前なんだ」
「ヨシヒデ?。は、面白いなだな」
「うん。さ、あがれよ」
玄関を入るとすぐに廊下が折れていて、その正面に大きな額の絵が掛かってい る。
「あれ、君のお父さんの?」
「そう。ま、未完成の遺作さ。そんなことより早く僕に部屋にいこ」
沖の部屋は、ちょっとしたアトリエになっていた。それも、大人の匂いのぷん ぷんするようなずっしりした雰囲気で、慎一は、一瞬緊張してしまった。
窓際に大きい机があった。その上に、本屋、沖の知らない道具が山を作ってい た
部屋の中央にカンバスがあり底に書きかけの絵が乗っている。
床に、絵の具や筆が乱雑に散っている。
慎一に、いつもいる自分の部屋が、なんだか田舎っぽい子どもの部屋のように 思い返された。
「松川君、僕宝物を見せてやろうか」
足で床の品をかき分けながら中に慎一を案内しながら彼は言った。
「宝物?」
「そう。父の形見でもあるがね」
そう言いながら一方の壁全面を覆った本箱の中からB6判程の皮表紙の古ぼけ た本を取り出し慎一に差し出した。
彼は、恐る恐る受け取る。
表紙に消えかけた金文字があった。
「ええーと、The Ete・r。nal・ life・・
「え・い・え・ん・の・命?」
「次の扉のサインさ」
言われて、表紙をめくると黒っぽいインクの文字が乱雑に斜め尻上がりに大き く書かれていた。
「ええーと・・Hen・・Ride・・・・」

「そうさ、それは、”ソロモン王”や、”洞窟の女王”のそれさ。おやじが、 欧州旅行に出かけた時に偶然手にしたものさ。
おやじは、薄汚い裏通りのカーバイト臭い明かりの中でそれを見つけた時、体 中が震えたと言うよ。
ハガードだと、感じたが相手に気づかれて足元を見られたらまずいので、いか にも詰まらなさそうな顔をして、値切ったそうだ。」
慎一は、新聞かなんかで見たことのあるうすぼんやりとした記憶の中の人物が 、==なぜか立派な鼻髭をはやしているように思ってしまうが、実際はどうだっ たか思い出せないし、また、沖に聞くほどの重要な事でもなかったが、そう想像 しながら、==一生懸命値切っている姿を想像して思わず吹き出しそうになった 。
じっと、ふきだしそうになるのをこらえながら、本のページをめくってみる。
手書きの細かいペン文字が詰まっていた。
「君、これこれ読めるの」
「は、は、まさかだよ。この頭、君の知っての通りさ」
「まーな」
「そうあっさり言うなよ。でも、勉強なんて、そうがつがつするもんじゃあ無 いよ」
「どうして」
「だって、当たり前だろう。みんなが同じ物を同じに勉強したって、メビユス の帯の中で競争しているようなもんさ。どれだけ走っても止まれば負けさ。そん なことをしているよりじっと座っていれば、自然に先頭になってしまうことだっ てあるもんさ。
勉強って、結局、自分に対する慰めの言葉なんだよ。死ぬまでの間だずっと自 分を欺くための言葉なのさ。それなのに、自分に納得できない人の言葉をいくら 覚えたって、ちっとも心が休まらないよ。」
慎一は、沖の一方的な哲学の煙にすっかり包まれてしまった。
窓の外に明るい夏の日差しがかげろうがたっていた。
時折吹き込む風に白いカーテンがかすかに揺れる。
沖の母親が持ってきてくれたジュースを飲む。
「ところで、さっきの続きだけどもさ、この本にこんなことが書いてあるそう だ。・・・と、言っても親父から聞いたんだけども、・・・(沖は慎一の興味よ 中断するように、ゆっくりコップのジュースを口の入れ)ある国の王子が、不慮 事故で無くなったときの事を書いてあるところなんだけど、王は、どうしても思 い切れず、国中に”おふれ”を出したそうな。
王子の生命を甦らせるものは居ないか・・と。すると、暫くして、老人が名乗 り出たそうだ。
”まだ、天寿を全うせざる者には、再び生命の炎が灯るであろう”と言って、 王子の亡骸とともに密室に篭った。
それから数日後に、姿をあらわしたんだが、その老人の後ろに、王子が立って いたそうだ。その話を聞いて非常に興味を抱いたハガードは、あらゆる文献を調 べまわり、人に訪ねようやく結論らしいものを見つけたその記録が書いてあるん だ。」
そこで、再び沖はジュースを飲む。
「なんだと思う?・・・・・・・そうさ、使者の骨を溶かし込んだ塗料で生前 の姿を描けば、宙で行き場を失っい迷っていた魂が、再び戻ることが出来る, そ れを、試みられるのは、魂をも惑わすほど絵が巧みな者だけである。と、このよ うな事が書かれているのさ。」
「ふーん、信じられないな。残酷だよ」
「死者に残酷なんてないさ。大体、生命の炎は残酷の上に輝いているんだよ」
沖は、舌で真っ赤な唇の周りを一なめした。慎一は、沖が、転向してきた時の 光景を思い浮かべた。
窓に近い木立にヒョドリらしい取りが飛んできた。一瞬留まろうとしたが、す ぐに飛び去っていった。風に押されたのかかすかに小枝が揺れていた。

夏休みも終わりに近いある午後であった。
今にも一雨きそうな湿気を含んだ風が砂を、薄暗い天に巻き上げていた。
慎一が家でぼんやり寝転がっていた時である。
誰も居ない一人だけの家中に電話の湿っぽい音が重く響き渡る。
沖の母親からの電話であった。
沖が一周間も家を空けたまま帰ってこないので心当たりはないかこの電話であ った。
思い当たる節の無い彼は、不安そうな電話口の向こう側の声を何度も頭の中で 聞きながら沖の家に自転車を飛ばした。
宙の家に行ったところでなんの進展も無いはずには思えたが、そうデモしなけ ればならない気持ちがあった。
沖の家に着いた時、悲しい家をの母が迎えた。しかし、前のように、”良秀” の親しみを込めた出迎えはなかった。
通された沖の部屋は以前に比べずっと薄暗かったが、前のままの大人びたアト リエがあった。
乱雑な部屋に素早く視線を走らせる。
部屋の中央の三脚にカンバスが乗っていた。
描かれている絵が、すぐに”良秀”であることに気が付いた。
毛並みこそ真っ白であったが、真っ赤な背景に悠然とたたずむ犬は、沖の鋭い 描写で生命を帯びたような生き生きとした姿であった。
慎一の記憶の中の犬と完全に一致する。
「まるで生きているようでしょう。段々、お父さんにそっくりな絵を描くよう になって・・・」
沖の母は、誰に言うともなくそう呟きながら、窓のカーテンを両脇に押し開き 窓を開ける。
急に室内が明るくなり、表の湿気を含んだ重い空気が粋に室内に吹き込んでき た。
三脚の上のカンバスが風に吹かれた落ちそうになった。
慎一は、慌てて両手で押さえこむ。その時、”良秀”の顔が彼の間近にきた。
近くで見ると、犬の口に細い糸屑がみえる。慎一は、何気なくその線を引っ張 ってみた。
すると絵の具の下から長く引き出された。
金色ががかった糸屑・・・・髪の毛は、見覚えのある髪の毛であった。
驚く慎一に向かって”良秀”が、きりりと巻き上げた尻尾小さく振っていた。
流れ落ちそうなほど赤い背景をしたカンバスの中で、親しみを込めた尾を振っ ていたのである。

いつか雨のしみにくすんだ街工場のブロック塀に、茜色の光が反射していた。
陽は瀬の高い街の向こうに沈みかけていた。
空は、青く澄み繊細な線模様を描きながら絹雲が縁を金色に縁取っていた。
太古から今日に至るまで途切れなく繰り広げられている、広大な叙情の舞台を 仰ぎ見ながら、つい3ヶ月前の出来事を思い返していた慎一は、夕風にブルッと 一回身震いすると、再び帰路を急いだ。