(一) 静かなる殺人

「才男、グズグズせずに、早く板を持って来んか」
建物の裏側で、がなり声がする。
「ちょつと待って下さい」と、才男。
「馬鹿もの。ちょつと待てとはどういう事だ。待たんぞ。待てる訳がないだろう」
安治川先生の悲愴な声が,すぐに返ってくる。
「嵐の音で、聞き取れません。」
「ば、馬鹿もん! 早くしろと言っとるんじゃ。早くしろ・・・唖・唖・・・」
バィオリンのG線を擦りつけるような悲鳴がし、バリ・バリと板をつん裂く、すごい音がする。
ギ・ギ・グワ・グワーッ・ズ・ズドーーーン!!
地響きを伴った、すごい喧騒音が、嵐に混じる。
「先生!」
才男が、慌てて裏木戸を開ける。
大粒の雨の伴う、強い風が、一気に室内めがけて吹き込んでくる。
その勢いに、才男の体が、二、三歩室内に押し戻されてしまう。
必死にこらえながら「先生、大丈夫ですか」
外では、すっかり横倒しになった塀の上に座り込んだまま、放心状態に宙を眺める安治川先生がいた。
「・・・先生、大丈夫ですか」
雨でびしょびしょの先生に、おずおずと声をかける。
「うむ。ワシは大丈夫じゃ。だがなーーーー」 
「だが・・・?」
「こんなに強い風が吹いているのに戸を開けっ放しにしとると、屋根が吹っ飛んでしまうだろうが。そのことはわかるかな。
わかったら、早く戸をしめろ。早く、早く」
「ハイ、分かりました」
パターン!
慌てて、内側のガラス戸を閉める。
閉められたガラス越しに、嵐の中で、安治川先生の顔が、「あの馬鹿もんは」、と毒ずいていた。

「先生、昨日は、ひどい目に遭いましたね」
才男は、寝不足で目がしょぼくれている。
「うむ」
と、一言だけ返事を返す。
「裏手の塀は、どうしますか」
「うむ」
安治川先、木製のデスクの上に、足を乗せたまま、背もたれに身体を任せて、不機嫌に、キコ、キイコ揺すっている。
 事務所を掃除していた中空真弓が、才男の方を見て、『チョツト』と小さく呼ぶ。
 真弓は、この三月に高校を卒業した後、すくに、この探偵事務所に就職したばかりのフレッシュ・ガール。
先生とは、遠い親戚であるらしい。
 高校を卒業して、社会を見てから、また、自分の進む道を選ぶつもりでいる。
 その、真弓の合図に耳を傾ける。
「お金がいる事で、先生、ご機嫌斜めなの」
「ふーん。でも、そんなに財政事情、悪いのかい」
「そりゃ、もう。今日から手弁当で勤労奉仕よ」
「うへー。そりゃないよ」
「それが嫌なら、塀の修理をしっかり手伝いすることね」
「分かったよ。すりゃあいいんだろ。まつたくひでえよ、何でもかんでもこぎ使っちまうんだから」
「何言ってんの。まだ二十一になったばかりでしょう、若いんだから、汗かかなくっちやあ。はい、これ」
 いつの間にか準備した大工道具一式を、才男に手渡す。
「私も手伝ったげるから、文句言わないの」
 古い日本建てを少しいらっただけの事務所、仕方ない、と諦めて仕事にかかる。

 台風一過の空は、秋空のように、爽やかで、青々として美しい。
 遠くの方でも、トン、カチと、小気味の良い音が響いている。
「やってる、やってる。こちらも負けずにやるか!」
 二人の参加に、先生の不機嫌がいっぺんに吹き飛んでしまった。
 ねじり鉢巻きで大張り切りの先生を眺めながら、二人で「クス、クス」

 仕事を始めると、一度に汗が噴き出してくる。
 三人の濡れた肌に、心地よい風が吹き抜ける。

「オーイ、、ここら辺でそろそろ一服でもするか」
 慣れない仕事なのか、先生が真っ先にギブアップ。
「先生、まだ始めたばかりですよ」
 才男は、先ほどまでの不服そうな表情もどこえやら、至極上機嫌で、鼻歌まじりの作業をとめます。
「もうあかん、疲れた」
「年ですね」
「うむ。そうかもな」
 意外にもあっさりと認めてしまう。余程こたえたと思える。
 安治川先生は、丁度、四十歳で男の働き盛り。
「先生、まだまだお若いですわ」
 中空真弓が手を止めて、真顔で慰める。
「お茶でも入れましょう…」
「冷えたサイダーが準備していござーい」と才男。
 部屋の中へ取りに入った途端「よっちゃん、ビックリ。いつ来たん!」
 よっちゃんとは、真弓の妹の芳江のことである。
 いま、中学生二年生。
 安治川先生事務所によく遊びに来る。
「さっきから来てたの」
「何してたの?」と真弓。
「見てた」
「私たちが汗をかいて頑張っているのに、何もせずにボサッと?」
「そう」
「何にも感じなかった?」
「面白かった」
「あんたには負けちぁうわね。何もしないなら来なさんな」
「怒らない、怒らない。皺が増えるわよ。でも、今日は遊びで来たのじゃないの」
 そういいながら、サイダーをみんなに手渡しする。
「実は、先生にお願いあって来たの」
 その一言に、サイダーの手をピタリと止めた先生、
「うむ。これを飲むべきか、飲まざるべきかー」
「先生、飲んじゃあ駄目」と真弓。
「姉ちゃん、要らんこと言わんといてよ。ね、先生、一口だけでもいいから飲んで頂戴」と甘ったるい声。
「うむ。こりゃ、シェークスピアだね。しかし、未来に訪れるであろう災難の苦しみよりも、今ある渇きの苦しみから逃れる道を選ぶことにいょう」
「やった」
 先生がサイダーをラッバ飲みし始めると、芳江は、手をたたいて喜ぶ。
「僕も先生と運命を共にします」
 才男も續いて飲み始める。
「も、みんな、あとのこと知らないわよ」
 ブリブリしながら、真弓もやっぱり飲みだす。
 誰からともなく「うまい!」
 汗ばんだ体が急に涼しくなる。
 太陽が、透明の光を対地に注ぐ。風のそよぐ度に、枝の影が模様を描く。
 一服した後、再び仕事を始める。先生は、作業中の手を進めながら、芳江の話に耳を傾ける。
「・・・で、そのヨッちゃんの同級生の、邦楽の金竜会家元である初音ちゃんと、後見人で継母のお家騒動を、解決して欲しいということ?。何か、テレビのドラマでみたいな話ね」と真弓。
「ま、そう言えばそのようでもあるようし・・・」
「その話、当人同士で一度よく話し合いでもして解決すべきじゃあない?。下手におじさんが出るとまずいんじゃない?」
 安治川先生が手を止めて、チョツと困ったよう。
「でも、このままだと、初音ちゃん、殺されちゃうわ」
「おいおい、芳江ちゃん、おっかないね。初音ちゃんが誰に殺されるのって言うのだ」
「私も、今どう言っていいのか分からない。でも、初音ちゃんのこれまでの生活で分かるの。肌で感じるって言うのかしら。それで、十分よ」
 芳江は、安治川先生が乗り気でないのでむきになっている。
「ヨッちゃんにはよく分かっているかもしれないことだと思うが、おじさんには、予測だけで疑ってかかるのは許されないことなんだ」
「でも、本当に殺されるわ」
「だって、相手ははがりなりの言えば失礼だけど、お母さんだろう」
「初音ちゃんは、そうは言っても、信用してないわよ。それどころか、親に憎しみを持つていると思うわ。そして、誰にも気ずかれないように、今度は、初音ちゃんがいなくなってしまうのよ」
「あんた、ちょつと考え過ぎしゃあないの」
 真弓が水を差す。
「姉ちゃんは、すぐにひとの話を茶化すんだから。―もし、初音ちゃんが殺されたら先生のせいよ。大人って、はっきり見える事が重要なの?、感じるってことは、信じられない事なの?。言葉で言い表していないことでも、肌を通じて分かり合えることに気が付かないの?。それができなくっちや人を救えること、出来ないじゃあない!」
 それだけ言うと、芳江は、半べそのまま、作業中の塀でジュースを飲んでいた、安治川先生の場からかけ去って行ってしまった。
「おい、ヨッちゃん!」と先生。
「先生―」
 才男も、作業の手を止めて、去りゆく芳江ちゃんと先生の方を交互に見るばかり。
「芳江!、もう。先生、済みません」
 真弓が恐縮して頭を下げる。
「別に気にしない。子どもらしくっていいね。あの頃の友情て真剣だね」
 先生は、目を細めて、何度も一人うなずく。
「先生、僕もちょつと気になるんです」
「あ、そう。才男くんも若いから、感じるんだね」
「そうじゃあないんですけど・・・」
「何を弁解することがあるもんか。ア、は、は」
先生は、素知らぬ顔で、「初音ちゃんだったか、あの子が生まれてすぐに、お母さんが行方不明になつてしまったことを聞いたことがあるんだ」
 一息ついて、
「神隠しで話は終わったらしい。それで、間もなく新しいお母さんをもらったが、このお母さんと金竜会当主だったお父さんとは、上手くいかなかったそうだ。そして、今度は初音ちゃんが6年生になった時に、お父さんが神隠しにあった」
 先生は、遠くを見る様に
「金竜会は、先代が亡くなってからというもの、どうも良くない噂が多い。丁度仕事の方も暇だから、勉強するつもりでお前、調べて見るがいい」
「分かりました」
 才男は、腕に貧弱な力こぶを作る。
「だけど、あまり深入りしないようにしなければ駄目だぞ。あの会の幹部は、某議員や、紅十字教会と深く関わってらしいからな」
 先生は、塀の修理のことはすっかり忘れてしまっているようで、あれこれ思案するように空を見つめ、
「この、限りない空の向こうにも、やはり同じように、煩悩の世界が、こちらを覗き見つめているのだろうか?ー」
 独りつぶやく。

 安治川探偵事務が金竜会の調査を手掛けた時からまだ、1週間もたたないうちに、事件が起きた。

 会の幹部、それも、先代の一番弟子が変死を遂げたのである。




(二) 紅十字(クルス)の使者

続く