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ひたむきな、黒髪の少女の瞳を、あたしは知っている。ムーン・バイクをとばしながら、あたしは、その事を考えた。長く尾をひいてムーン・バイクの通り過ぎた跡を砂塵が舞い上がり、あたしの軌跡をくっきりと、闇の背景に浮き上がらせていた。風が、無いのね、月面では。握り締めたハンドルに伝わってくる振動が快い。あたしは、手のひらで月面を感じている。体をかたむけ、ムーン・バイクを大きくカーブさせる。あたしの通り過ぎた跡を見る為に。月面では音もないから、スピード感は、全て視覚に頼ってしまう。高く舞い上がった砂塵は、キラキラと光を受けて、もう星々と見分けがつかない。砂塵が落ちるのは、月面ではとても遅い。自分でつくり出した人工の霧の中に、あたしは真っすぐ突き進んで行く。こうして自分自身の軌跡をかき乱し、一瞬の錯乱を楽しんだ。ムーン・バイクをまたカーブさせて元のコースに戻すと、あたしの視野の片隅に、例の緑とプルーの星が飛び込んできた。ハロー、姉君様。あなたは今、その星の何処に居るのかしら。あなたの妹、どうしようもない馬鹿娘は、月面をムーン・バイクではしゃぎまわっています。わっ、クレーター !本当に焦っちゃう。バイクを、軽くジャンプさせて、その小さなクレーターを飛び越える。気をつけなくっちゃ、ね。月面には、ちゃあんとした道路等無いのだから。特にクレーターにはね。でも、許して下さい姉君様。あたしのようなはねっかえりには、このルナ・シティ郊外のドライヴくらいしか気ばらしがないのですから。ムーン・バイクのエンジンの唸りが、唯一のあたしの救いなのですから。あなたの黒い巻毛を最後に見てから、すでに久しいですね。お元気ですか。ステロタイプだけれど、本当にお元気ですか。あなたの仕送りが無いと、あたしは飢えちゃうのです。お体を大切に姉君様。あたしのバースディ・プレゼントが間に合えぱいいのだけれど。
でないと次の仕送り、…。
銀色に、地平線−月平線かしら?−がけむっている。沈黙の衣をまとった死が、あたしの近くにいる。ムーン・バイクは、だからあたしの生きがい。不恰好な外出着なんてとてもつける気にならない。不意のクレーターに気をつけながら、闇と光のモノローグの世界を走り抜けて行く。地球は見上げたくない。危険だから、足もとが。それに、緑とブルーに光っているあの星を見たら、そこに残してきた様々なもの、何よりも、もう一人のあたし自身、あのわがままな少女を、思い出してやっぱり泣いてしまう。あたしはダメな娘。気持ち良くバイクを飛ばしている時に、あの空の闇が裂けたらすてきだろうな。置き去りにした、あの昔の夢が、闇を裂いてあたしのところに戻ってきたら。でも闇は、あたしの前にも横たわっている。とても大きなクレーター。とべるかしらと、チラッと頭の隅でそう考える。とび越える為にスピードを最高にあげると、ムーン・バイクのメカがきしんで悲鳴をあげる。それは、むろん聞こえない。ただ体全体で、その絶叫を感じるの。とても大きく深いそのクレーターの闇が視野いっぱいに広がってくる。今よ、
ジャンプ!
月は確かに引力が違う。地球上ではとてもとび越せないようなクレーターでも、はるかに高く、遠くとび越せる。高く遠くへジャンプする時、それは地球では絶対に味わうことのできない自由へとあたしを解放してくれる。もちろん月でも質量はかわらないから着地の時のショックは同じだけれども、圧倒的に滞空時間の長さが違う。その為に、筋肉を着地の衝撃に備える時間がたっぷりとある。その意味わかる?だからあたしは今、ちょっとしたすてきな曲芸をやってるの。深いクレーターの上を前方宙返りをやってる。慣性で、ムーン・バイクは何度もくるくると回転しながらクレーターの向う岸(?)へ着地することになるっていう理ワケ由。頭上には、ちょうど地球が来ているから、めまぐるしく入れ替わる地獄の底のクレーターと生命の輝きをたたえた星、地球とを交互に見続けることになった。あたしは、軽いめまいを覚える。何ていう光景、本当に。ムーン・バイクがジャンプした時の慣性を受けた砂が、尾をひいて舞い上がり、キラキラと銀粉のように所々闇をさえぎっていた。最初に地獄が見えた。あたしは落下していた。まっさかさまに。太陽の光を未だかつて受けた事のない真の闇、その深いクレーターの底が、頭上からの全てを消し去っていた。銀粉が、その冷えびえとした奈落へと吸い込まれていく。凍りつくような手ざわりで狂気が、あたしの心を握りしめた。ひたむきな、黒髪の少女の瞳を、あたしは思い出した。風景が、めぐる、闇の中に輝く星星、とてもはかない灯のように見えた。わあ、眼が痛い!急に闇の中に浮び上がった太陽のギラつく視線が、あたしの瞳を切り裂いた。痛みが、閉ざしたまぶたの残像と共ににじむ。光の失が眼に刺さって抜けない。馬鹿な事、サングラスもせずに太陽を見るなんて。でも、サングラスなんてしてきたら、小さなクレーターを見落としてしまう。そうなって、あたしは気がついた。バカバカ、ドジ娘!目をつぶったままでどうして着地する気よ!かといって眼を開いたら、かわるがわるの闇と光で完全に視力を失ってしまう。太陽のすぐ側に見えた、一瞬の地球の残像が、急激に大きな意味を持つ。もう二度とあの星を見れないかもしれない。ここで、あたしは軽いめまいを覚えたの。滞空時間は長い。その事にあたしは頼りきる。たった一つの可能性が、ある。今日は、闇出づる日。目をつぶったままでも光を感じる事ができるから。暗くなったり明るくなったりして、上下のどちらにあたしがいるのかよくわかる。太陽と地球は、ほとんど頭上に、中天にある。その事だけが頼り。明るくなった時、あたしは手さぐりで予備に付いている垂直上昇ジェット噴射に点火した。ムーン・バイクが大きくバランスを崩しながらも少し上昇した。すぐに止める。バイクが回転しながらクレーターの方に、下へ向いたからだ。まぶたが、光を感じる度に、小きざみに、あたしはジェッ卜噴射をふかす。少しでも滞空時間を長くすることが、唯一の助かる可能性。もうすぐエクリプスが始まる。地球が太陽を食べ尽くしてしまう。太陽が、地球の影に侵され始める。その時こそ、目を開く時。完全に暗くなると、今度は何も見えなくて着地できない。ひたむきな、そう、あたしは思い出した。もう古びてしまった昔の電報。そこには、こう書いてあった。
アキコキトクスグカエレ
少女の命は終っていた。人間は、幸福になれる程に無神経な生き物ではないと、本当に、心からそう思う。現実、決して醒めることのない悪夢。この夢から逃れる術はない。それにしても、心がすり切れてしまう。
エクリプスが、完成しようとしていた。ゆっくりと、そして薄っすらと目を開けると、太陽の外輪だけが、暗い球体となった地球にさえぎられず、あたしの目に届いた。あたしは、ムーン・バイクのライトに点灯する。着地までにエクリプスが完成してしまったときの予備の為に。完全に暗くなってしまうまでに着地できる事を、ムーン・パイクのライトが照らし出した月面が示していた。ライトの照らし出す領域は狭い。あたしは、ホッとした。着地に備えて、あたしは、全身の筋肉を調整する。月面が、クレーターを後方に残して、眼下にひろがっている。着地した。すさまじい衝撃があたしを襲って、ムーン・バイクからあたしをはね飛ばそうとする。何度も、ムーン・バイクは大きくバウンドした。その度に、あたしは、手とヒザにしびれるようなショックをみまわれる。二度とこんな目には会いたくないと、あたしは思った。しばらくして、闇が全てを支配していた。完全犯罪だったと、あたしは思う。着地のショックが、あたしに、あのひとを礫き殺した時の胸の痛みを思い起こさせた。あたしは、この手で、あのひとを殺してしまったんだっけ。あの時礫き殺したのは、実は、他の誰でもなく、あたし自身だったのかもしれない。あのひとを殺したのと同時に、あたしの中の少女を、あの時殺してしまったのかもしれない。そんな気がした。気がつくと、何もかもが闇の中に没していた。あたしは、狂っていたのだろうか?そして、その狂気は、この闇の中、その闇をつくり出した、あの星にもたちこめているのだろうか?つまるところ全ての人は、ただの狂人だったのだろうか?自分の理性にそむいた、あの行為の理由は、あたし自身にもわからない。足早に訪れる死にせかされながらも、幸福を粧うとも、こんなにもたやすく、世界は闇の中に、狂気の中に没して行くものなのだろうか?そして、こんな風に、あたしの時は過ぎて行き、あの明るい世界はあっけなく侵されて、全ては終ってしまうのだろうか?
あたしの前には依然として闇が横たわっている。それはムーン・バイクでは決して越える事のできない闇が…。いつの日か、その闇を越える日がやってくるとすれぱ、きっと、あたしは明るすぎない陽光の中をべンガル薔薇に縁どられた美しい植え込みの向う側に、垣根を越えて誰かを探しながら、つづれおりの記憶の中に迷い込んで行くだろう。それが何であるのか、あたしはまだ知らない。それが何時になるのか、それとも決してやってこないのかも知ることはできない。こうして、闇出づる日は始まったぱかりなのだし、あたしは未だ、闇であることがどういう事なのか知りはしないのだから。こう想う今、あの地球での日々よりも、現在の方が、はるかに過去に属しているように想われ、あの時の事こそ、身近に感じているのだ。
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