彼は重い足取りで、大阪国際空港の建物を出た。午後七時三○分、外は暗かった。空の星は相変わらずお粗末で、数えたところでたかが知れている。
彼は神戸方面のタクシー乗り場で、一台のタクシーを掴まえると、後部シートに旅行かばんを放り込み、自分もドサッと大きな音を立ててシートに着いた。
今までに味わった事のないような酷い虚脱感だった。元来、彼は虚脱感などというものには、ほとんど縁のない男だった。四年制の大学を出て以来この5年間、別に就職する訳でもなく、豪遊に豪遊を重ねる日日を送ってきた。金は腐るほど親から貰えた。
彼は今まで虚脱状態に陥ったことはしばしば有ったが、札束が部屋中に乱舞するようなドンチャン騒ぎをすれば、虚脱感などたちどころに吹き飛んでしまった。ところが、今の状態はドンチャンさわぎをする気分になれないのはもちろん、タバコを吸う事さえ億劫だった。
彼は左肩に手をやった。鈍く長い痛みが上半身を襲った。狼に噛まれたのだ。
彼にとって、この痛みだけが唯一の現実のように思えた。
「…お客さん。お客さん」
彼は運転手の声で気が付いた。シートに坐るなり、彼は軽い寝息を立てて、行く先も告げずに寝入ってしまっていたのだ。「お客さん。寝るのは結構やけど、何処まで行くんか云うてもらわな」
運転手は呆れながら云った。
「…芦屋。第二阪神国道に入って、阪神打出駅のあたりで止めてくれ。着いたら起こしてくれ…」
彼は、それだけ云うと、もう軽い寝息をたてていた。
タクシーは心地良い振動を彼に与えながら夜道を走っていった。
タクシーを降り、一人住まいのマンションの自室までどう歩いたものやらまるで記憶が無かった。気が付くと窓から朝日が差し込み、自分は服のままでベッドに横になっていた。
酷い汗だった。肌に下着がねちっこく纏いつき、強い朝日が目に痛い。おまけに、鈍い嘔叶感が胸をむかつかせた。
彼は肩の痛みに自分の存在を自認した。旅の疲れなのか?カナダへ行き、そして帰る程度のものではないか。それとも、この傷が原因なのか?
彼は左肩を庇うようにして、ベッドを降り、クーラーのスイッチを入れてから、服を脱いだ。
朝のシャワーは冷たかった。冷たい水が肌をピリピリと刺激するのは、いたって爽快な気分であった。
シャワーを浴びてさっぱりしても、陰欝さは依然として残っていた。
何故、こんな気分なのか彼には理解できなかった。彼のように苦労知らずで馬鹿陽気な遊び人にとって、閉鎖的な気分になってしまうことは、どうにも絶え切れないことだった。冷蔵庫から生ジュースを取り出し、無理矢理、胃に流し込んだ。他のものを口にする気にはなれなかった。
左肩は、まだ痛みを残している。外傷など何処にもないし、骨にも異状はなかった。医者が云ったのだから間違いない。
彼が日本に帰る気になったのも、元はといえば、この肩の痛みのせいだった。
彼はテレビのスイッチを入れて時間を知った。七時二分であった。テレビでもつけていないとやり切れない気分だった。
体温計を取り出し、熱を計ったが、別に異状はなかった。彼はソファーに横になり、ただぼんやりとテレビの画面に目をやり、それに飽きたかのように、やがて眠ってしまった。
彼は夢を見た。カナダの森林で出会ったあの灰褐色の狼の夢を…。
夕暮れ時。彼と彼の友人は森の中に居た。そして、彼の無知ないたずらが一匹の狼を傷つけた。彼の持っていた猟銃で。
手負いの凶暴な獣となった狼は彼に襲いかかった。彼の友人は、狼が襲いかかろうとするのを見るやいなや、狼の脳天めがけて銃を撃った。狙いは正確だった。薄明りの中でのそれは、まぐれだったのかもしれない。狼は彼からほんの二メートル先で頭から血を吹いた。しかし、まだ狼は倒れなかった。残されたほんのわずかの命を鋭い牙にかけた。狼は大地を蹴ると、その鋭い牙を彼の左肩にたてた。
彼の肩から血が吹き出した。彼が死の暗示に顔をひきつらせたのは数秒だった。狼は命を燃やし尽くし、大地にその屍を曝した。この狼が生きていた証拠は、彼の左肩に歴然と残っている。
その時、彼の心の中に一つの感情が理性を押し除けて現れた。それは、尾を引く恐怖心や難所を切り抜けた安堵感などではない。怒りだった。屈辱を受けた怒涛のような怒りだった。初めての敗北を自分に味あわせた者に対する憎悪だった。
彼は生まれてから一度だって殴られたことも、馬鹿にされたこともなかった。いつだって人の上に立ち、勝者であった。金の力で人を従わせて来たし従わない人間は居なかった。それが、この狼一匹に、この四本足の獣に傷を負わされ、自分のプライドにも傷をつけられたのだ。
彼は銃を放り出し、狼の屍のすぐ横に転がっている大石を頭上高く持ち上げ、その石を狼目掛け投げ落とした。グシャッという音を立てて、狼の腹が潰れ、皮を破って内臓が露出した。彼は、まだ止めなかった。血に染まった石を持ち上げると、狼の頭目掛けて石を落とした。彼の友人が彼を止めたときには、狼の四肢はちぎれ、体は肉塊となり、何処にも原型をとどめていなかった。そして…
彼は目を醒ました。目を開けると部屋は暗くテレビのブラウン管の光だけが唯一の照明だった。朝とはうって変わって良い気分だった。飽きるほど寝たから旅の疲れが取れたのだろうと彼は思った。
部屋の明りをつけ、タバコに火をつけると辛い煙を肺一杯に吸い込んだ。
彼は空腹を覚えた。朝ジュースを飲んだきりだった。冷蔵庫を開けたところでたいした物は入っていない。タ食はいつも外食なのだ。時計を見ると七時三○分だった。まる半日寝ていた計算になる。
何はともあれ、腹ごしらえをしてからと思い、靴を履こうとした時である。左肩が妙にかゆい。手で触ってみると肩のあたりがふくれ上がっている。
服の上からでは良く分からないので、洗面所へ向かいながら服を脱いだ。上半身裸になった姿を鏡に映して、彼は驚愕のあまり卒倒しそうになった。
「…こんな事が…」
左肩にはこぶし大の大きさの物がこぶのように盛り上がっていた。しかも、そのこぶは妙な形をしていた。それも動物の。
長く突き出した吻。低い額。小さく立った耳。犬ではない。明らかに狼のそれであった。
「じ、人面瘡だ!」
彼は放心状態のような表情で眩いた。
彼は乱暴に服を着、部屋の鍵も掛けずに飛び出した。非常階段も転げるように降り、自家用車のシートに着くと、気違いのようなスピードで車を走らせた。彼に今できる事は医者よりもまず酒を飲む事だった。
人面瘡の事なら少しは知っていた。殺した人や動物の顔が、腹やひざ小僧に浮き上がってくるのだ。そいつは口を開け、人語を話すこともある。おまけに、そいつを何回切り取ってもすぐ新しいのが生えてくるらしい。
彼はどうせ、こんなのは作り話だと思っていたのだが、実物を見ると頭から否定することはできなかった。あまりにも、狼そっくりだったからだ。
「俺が殺した狼が」
車は第二阪神国道を神戸方面へ事故でもおこしかけないスピードで走って行った。
駐車違反を承知で車を止めると、駆け込むように一件のバーヘ入った。
扉を開けるとそこは、女たちがキャーキャーと嫡声を上げ、ジュークボックスが唸り、酒の匂いのする、彼にとって最も好ましい現実の世界だった。
人面瘡なんぞくたばっちまえ。彼はテーブルに着くと水割りを注文した。ついでにホステスたちを全部このテーブルに集めるように云った。ボーイは渋面になったが彼がテーブルの上に札束を放り出すのを見ると、承知したという顔でカウンターのほうへ引きあげた。
まもなく、彼のテーブルに女たちが集まって来た。しけた客ばかりだったらしく一目散に彼のところへ集まって来た。彼は両方の手でホステスの肩を抱きながらいつもの調子で喋り出した。
「…この前なんかカナダへ行って来てね。狼を一匹ブチ殺して来たんだ。イヤーでかい狼でね。さあ、君たちも好きなものを頼みたまえ。このテーブルの札束全部飲んで良いんだよ」
すきっ腹に入ったアルコールのせいもあって人面瘡の事など頭の片隅にもなく、バーに居るのは、いつもの陽気な彼だった。女たちはみんな水割りをたのんだ。彼がホステスたちと三○分ばかり馬鹿話をした時である。彼の左側に居たホステスが笑いながら彼に話しかけた。
「あんた、カモシカの肉なんか食べたいの」
彼はかなり酔っていた。すきっ腹に入れたアルコールは早く回る。彼はもつれた舌で云った。
「カ、カモシカって、何の事だ。エッ」
「あなた、さっきからカモシカの肉が食べたい、カモシカの肉が食べたいって咳き通しじゃないの!」
「カモシカだと。俺はそんな事いった覚えはないぞ」
彼は水割りをお代わりした。もうかなりの量を飲んでいる。飲まずにはいられなかった。
「ネェ、おねえさん。うちにカモシカの肉のオードブルなんてあった?」
一人の女が云った。その問いにおねえさんと云われた厚化粧の女は首を横に振った。
カモシカ。
その言葉が何かの暗示のように、彼のぼやけた頭の中に響いた。
カモシカ…カモシカ…狼とカモシカ…狼の好物はカモシカの肉。嫌でもあの狼の形をしたコブ、人面瘡のことが頭の中を駆け巡った。無意識に彼の目は左肩にいった。左肩の上が不調和に盛り上がっている。
突然それはピクピクと動いた。彼の顔色の急変に気付いた女たちは、話をやめ、彼の方に目を移した。
「オイ、俺にカモシカの肉を食わしてくれよ」
その声は明らかに左肩のそれから発せられたものだった。そのことは彼だけが気付いたらしく、女たちはうまい腹話術だと拍手喝采を送った。当人にとってはどちらでも同じ事であった。この人面瘡という現実と彼の体験してきた現実をどうして包括して考えられようか。
彼は恐ろしかった。生まれて初めて味わう恐怖心だった。とても彼が内包できるような恐怖ではなかった。
いきなり彼はオードブルのテーブルの皿の上のフォークを逆手に握ると、訳の分からないことを絶叫しながら、そのフォークを左肩に突き刺した。もう無我夢中だった。何度も何度も力の限りフォークを左肩のコブに着き立てた。気の弱いホステスは悲鳴を上げ、気を失う者もいた。血まみれの彼を一人のホステスがやめさせようと組み掛ったが、彼はホステスを殴り飛ばした。マシンガンを連想させるようなスピードでフォークは肩を切り、潰し、えぐり、血と肉塊を四方に散らした。
放って置いたら、彼は死ぬまでやめなかっただろう。他人には狂気の沙汰と見えるだろうが、人面瘡の底知れない恐怖がそうさせるのだ。
「狼め死ね、クソッ死ね…」
思い余った一人のホステスが彼の後頭部をビール瓶で殴り、気絶させた。彼はテーブルの上にのめり込んだ。
彼はまだ肉塊の付いたフォークをしっかり握っており、白いワイシャツは赤く染まり、背広の破れた肩からは、血のへばり付いた鎖骨が見えていた。
そのバーの中に居たものは、茫然自失としてその場に立ちつくしていた。
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