企画・構成 MEZ HOUSE


 問題は「何故ゴケダミドロなのか」という点だ。どうしてゴケダミドロでなければならないのだろう。

 ゴケダミドロは、最初「ネモ宮原」が描き始めたアドリブ漫画であった。それは完成度よりも「描く」という行為に意味を求めるものであり、瞬時のイマジネーションとテクニックを凍結させるものであった。それはネモの持つ「写真感覚」に起因するところが大きい。ゆえにそれは、ストーリィ性から逸脱した一瞬あるいは数瞬の連続されたものであり、必然的に形式というものはないがしろにされた、いわゆるフリー漫画でもあった。

 ところが、ここに今一人の「ゴケダミドロ・ライター」を自称する人物が現われた。「ムパ」である。彼の描くゴケダミドロは、路線的にはネモと同一線上のものと見受けられる。それは当初、彼がネモのゴケダミドロのパロディ化を意図していたためであろう。しかしネモがそれを挑戦と受け止め、逆に挑みかかったために(ゴケダミドロW表紙参照)ムパとしても引っ込みがつかなくなった。
 かくて競作ゴケダミドロ・シリーズが誕生したのである。

 後進のムパの強みは、おそらく絵のうまさだろう。その大胆なペンさばきは、ネモにはなかったスピーディなバイオレンス性を持つ。この点において彼のショットガンの導入は、一応の成功をおさめたと見て良い。これはネモの「写真感覚」とは好対照なムパの「映画感覚」のためであろうか。
 ただし彼の場合、最初の目的がパロディであったがゆえに、その後において(ゴケダミドロX参照)若干の変質も見受けられる。

 ネモがそのキャラクターの個性を、デフォルメされた単一のものとして描いたのとは逆に、ムパの場合そのキャラクターに作者としての主観を投影し、それを描く。
 ありのままのものにフィルターをかける写真感覚と、ありのままのものに演出を加える映画感覚の相違が如実に現われているのである。
 ムパのこの演出は極めて個人的な感情であることは言うまでもない。つまりそれは、反射衛星砲のコンビネーション・プレーに凝縮される。
 またデッサン力を媒介とした「オチ」への屈折した愛情もその中核をなす。犯罪的にまで極似した彼の顔がその証拠である。
 しかしムパの限界は、そのワンパターン性でのみストーリィ性を無視しようとしたことにあるのだ。同じ物を重ねて実体をかくす、いわゆる「意識の保護色現象」がその狙い目だろうが、残念ながらその効果はあまりなかった。そのためフレーズに連続しすぎる傾向がある。形式にとらわれる、これはゴケダミドロにとっては致命的な弱点なのだ。

 しかしながらネモとムパが描く2つのゴケダミドロには共通点がひとつある。それは悪玉の親分として常に登場する「山根千秋」である。ネモの描く山根が幼児的な社会不適応者で、ムパの描く山根がホモセクシャル的な社会不適応者だという違いはあるにしても、それがテーマであることは明確だろう。

 何故ゴケダミドロなのか。それは山根の事を描くからだ。そして彼を描く以上、そのストーリィ性はおのずと失わざるを得なくなる。何故なら、彼を描くにはまず、そのクモの巣(環境)を描かねばならないからだ。
 環境―、それはかのマン研であり、かつまたSF研である。ストーリィ性が追従するはずはなく、完成するはずもないのだ。

(文中敬称略)

(了)