| 「TWILIGHT DREAM」は同人誌「北西航路6(創作研究会)」に掲載されたものを、渡辺さんの許可を得て転載させていただきました。小説の形を取ったSF論で、1983年の作です。固い言葉が登場するのでちょっと引いてしまいますが、SFを少し読んだ人ならなんとなく理解できる内容ではないでしょうか。いまのSFの現状と照らし合わせて読むのも面白いかと思います。 |
| TWILIGHT DREAM |
渡辺直人 |
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風が梢を揺らしていた。 見上げれば、葉は軽やかで涼し気な笑い声をたてて波打ってはいるのだが、その風は、この緑がかった木陰の中に座り込み熱気に喘いでいる僕の所にまでは一向に降りてこようとはしなかった。葉の緑、ジッと動かぬ白い雲が僅かに点在する空の青さは、見た目に涼やかな感じを与えてはいるものの、近くの樹や道路や家々はもちろん、遠く地平線の彼方まで、およそ視野に入るすべての物の輪郭を白銀色に燃えたたせる太陽の眼差しの下では、それ等がそこに実在するものではなく、美術館に展示されたガラス・ケースの中の絵、観光案内のポスターに使われる写真の風景であるかのような空々しさを漂わせていた。僕がこの偽りの風景の中で、救いを、涼しさを求めて両手を差し出すと、僕の掌の上では木もれ日が楽し気に躍り始めた。僕は半ば苦笑し、ズボンの汚れを払い落しながら、読みかけの本を手に取って立ち上った。木陰で本を読もうというのは失敗だったようだ。 涼しさを求めて歩き始めると、僕が動いた事によって生じる風は、それでもまだ木陰の静止した空気、僕の肩を押さえ込んで、熱気で身動きできないようにしてしまおうとする空気よりはずっと優しく、はにかみがちに僕をソッと撫ぜて行くのだ。しぱらく歩くと、木立ちの向うに小さなせせらぎが銀の身をくねらせて見えた。僕は、あたりに人影が無くひっそりと静まりかえっている事を確かめると、靴を脱ぎ靴下を放り出して、足を水に浸した。ひんやりした水流が、もう一つの分流を生じて、僕の足先から体に向って流れだしたみたいだ。あの木もれ日は、いつの間に僕について来たのか、今はまたユラユラ揺れる輪をつくって躍りながら水面の上から僕に笑いかけている。何処か遠くで子供の声が聞こえ、車の排気音が静気さをくすぐった。 僕は、手にした本を開いて読み始める。僕はその本に、そのSF評論に対して、たちまちもどかしさと苛立ちを感じる。いや、ちがう。そうではない、そうではないのだ。うまく言えないが、どこか違うのだ。そう思いながらも、それが何故どう違うのかを指摘する事ができなかった。そして、その事がいっそう僕のもどかしさを募らせたのだ。 ちがう。そうだ、ちがう。ここには、せせらぎなど無い。青い空も、あたりを燃えあがらせるような陽の光も無い。僕は自分の部屋に居るのだ。そして幻想を、あの過去の幻想をプルーストが発見した方法によって呼び戻していたのだ。あれから、随分長い歳月が流れた。今では、あのもどかしさの原因もわかっている。僕は、この評論の場当り的な経験論に基づいた実証主義に対して違和感を覚えたのだ。その恣意性と方法論に対して感じる二重の違和感は、それ故異和感とでも表現する事ができるかも知れない。 例えば、よくこうしたSF論では空想力に満ちた先駆的なSFの古典的文学作品としてホメロスの「オデュッセイア」やダンテの「神曲」等の名が実例に挙げられる事がある。しかし、フェンテスが「セルバンテスまたは読みの批判」の中でも書いているように「つまり、叙事詩の記述と読みは、予見しうる、一義的な、外延的(デノターダ)なものである。これらの特徴は一つの意味―ー叙事詩とその叙事詩が依拠している現実の秩序との同一性―に還元しうる。さらに、この同一性は秩序―古代ギリシャのポリス、ローマ帝国、あるいは中世の自由都市の秩序―の是認でもある。叙事詩の形式と規範はぴったりと符合する―「イーリアス」や「アイネーイス」、あるいは「ローランの歌」にあっては、記号(シグニフィカンテ)と記号内容(シグニフィカード)の間に介入するものは何もないのである。 オルテガ・イ・ガセーがいうように、叙事詩の詩的テーマは、前もって確固として存在しているのである―「ホメーロスは、その六歩格詩行がわれわれに物語っている通りに事象が生起したと信じ、聴衆もまたそう信じていた。さらにいえぱ、ホメーロスは何ら新しいことを物語ろうとしているのではない。彼が語ることなど大衆はすでに知っており、ホメーロスも、彼らがそれを知っていることを知っているのである」。かくして叙事詩は、根源的な亀裂や未知の出発点を排除し、独創性、あるいは再・記述(レエスクリトウーラ)とか読みの多様性を求めようともしない。叙事詩は控訴なき法延である」であり、「もし新たなテキストが以前の形式の規範を尊重していれば、その記述は単に、唯一の読みの規範に貢献する、外延的(デノターダ)な差異を導入しているにすぎない。「神曲」はこうした操作の最高の実例、天才による実例である」とすれば、この場合読者と作品との間には何等差異=非日常化が生じていない事は明白であり、これ等の作品(テクスト)を古代人の輝かしいSF的空想力の産物とする見方は否定されるだろう。 では、どうしてこのような間違いが生じたのであろうか?それは正しく読みの問題である。こうしたSF論の論者は、現代の状況から、少くとも近代合理主義的な観点から過去を振り返っており、現代人にとっても充分にファンタスティックに感じられる作品(テクスト)が、そのまま過去の人々にとっても同じように空想的な虚構であったとする読みは、自らの視点に内省を加える事なく、過去の事例=作品(テクスト)に現代の観点をそのままあてはめようとした事によって生じた錯覚と言えるだろう。また言い換えれば、現実感の歴史的=通時的な変化=差異を、作品(テクスト)におけるシチュエーションの機能的な差異と取違えたと言う事もできる。僕には、こうした実証主義的な発想の恣意性、御都合主義的な所が、どうにも気にくわない。そもそも検証作業に目をつぶり、場当り的に古典文学の中からSFの先駆的な作品を見い出そうとする姿勢は、こうした見せかけの類似性をもとにSFをまことしやかに文学史の中に位置づけようとする権威主義的な発想に他ならないではないか。 また一方で、実証主義的なSF評論は、SFを定義づける場合、ロボットや宇宙船といった小道具が登場する必要性を持ち出すが、本来こうした小道具が持っていたシチュエーションとしての機能的な差異=非日常化は、今日では様々な技術革新によって急速に日常化されており、もはやそれ自身では何の差異=非日常化の力も持たなくなりつつある。そこで起るのが、よりSF的でマニアックな小道具の再生産、ロボット→アンドロイド、宇宙船→ワープ航法といった差異=非日常化のスライド=縮小再生産である。しかし、結局はこれも同じように映画やマンガやアニメ等のメディアで吸収され、例えぱテレパシー、テレポート等という用語は、特にSFという事を意識せずに製作されたこれ等のメディアの作品でも普通に使われ始めており、日常化されてしまうのも時間の問題であろうかと思う。したがって、こうしたSF用語の特殊化=横滑りをいくら続けて行っても、それは現実との不毛な追いかけっこ、その上袋小路の方法でしかないだろう。 次に出てくるのが、このような小道具、断片ではなく体系的な差異=非日常化の発想だ。SFファンお得意の思考の相対化というヤツである。なるほどこれはなかなか有効な方法だが、実際には異った体系をそう簡単に考え出せるものではない。多くのSF作家が行っているのは、実は既製の体系のSF的シチュエーションへの置き換えでしかない。具体例を挙げれば、ル=グインの「ゲド戦記」、特に第一巻の「影との闘い」はユング派の精神分析をそのままSFの(と言うよりはファンタジーのか?)シチュエーションの中へ置き換えたものにすぎない。こんなものはSFファンの他のジャンルへの無知をあてこんだ書き方、差異=非日常化の確立で、SFの全体像そのものには何の新しい展開ももたらさない。これに限らず最近のSF界では、確かに従来のSFには無かったのだが、同時に何の新味も感じられない、どこか別のジャンルでお目にかかったような印象を受ける作品を多く見かける。僕には最近のアメリカSFのつまらなさが、こうした実証主義的発想に基づいて実作された作品の不毛さに由来しているように思える。そして、実証主義的な方法に頼ってSFを把握しようとしている間は、SFには出口が無いように思えるのだ。何故ならロシア・フォルマリズムやプラハ構造言語学サークル、所謂プラーグ学派に近い発想から言えば、内容はフォルムを規定するが、フォルムもまた内容を規定するのであり、今SFそれ自身のフォルムが問題とされているからなのだ。 それでは、どうすればよいのか?一つの方法はSFの解体、再構成であり、デリダの言う脱構築(デコンストラクション)である。しかし、この方法によって脱構築(デコンストラクション)されたもの総てが、なおSFと呼びうるかどうかというのは、また別な問題である。これには、ちょうどアメリカ構造言語学におけるチョムスキーの生成変形文法理論のような意味論的(セマンティックス)な検証法しか無いように思える。そして、そこで見えてくるのがもう一つの方法、即ちSF構造の統辞論的(シンタックス)な検証の方法である。この方法によって構造としてのSFを抽出、把握し検証する事が可能となる。そのためには、先ず構造概念を識らねばならない。ここで言う構造とは、静止的な見せかけの構成や体系と異るものであり、人文科学の方法論としての構造主義で言う構造である。日本では構造主義と言えば、すぐにフーコー、バルト等の名前を思い浮べる傾向があるうえに、スコールズのような道化が「構造主義はイデオロギーだ」等と言うので様々な誤解があるようだが、僕の言う構造主義は、ソシュール以降の構造言語学、レヴィ=ストロースの文化人類学、ピアジェの心理学、ラカンの精神分析学等の科学の方法論としての構造主義である。 では、その「構造」とはどのようなものなのか? 「かりに、どこかの辞書のために、わたしたちが用いている意味での「構造」という語の定義を求められたとすれば、次のように言いたい。すなわち、「構造」とは要素と要素間の関係からなる全体であって、この関係は、一連の変化過程を通じて不変の特性を保持する」あるいは「というのも、わたしたちが探究しているのは、他の一切が変化する時に、なお変化せずにあるものだからであります」というレヴィ=ストロースの「構造主義再考」における言葉が、この構造概念をよく表わしている。また構造は、よく音楽に例えられる。ある曲が、転調したり、リズムを変えたり、様々に編曲されたりしても、我々がそれ等を聞いて、そのどれもが同じ曲である事を認めるのは、その曲が構造を持っているからである。構造においては、個々の要素(エレメント)は変換可能なのである。これが個々の要素(エレメント)の積み重ねから全体を構成しようとする実証主義的な方法との最大の相違点である。構造主義の具体的な方法をここで紹介するだけのスペースは無いが、SFにおける分節化可能な部分は全てこの構造主義的な方法によって扱う事が可能であろうし、その方法はSF論に対して多くの革新的なヴィジョンをもたらすであろう。むろん、それでもなお分節化不可能な部分、即ち超分節要素というものは残るだろう。しかし、超分節要素が何であるのかを知る事は、分節可能な構造が何であるのかを知る事によって初めてよりよく知る事が可能となるのである。 いつの間に眠ってしまったんだろう。ひんやりとした風の肌寒さに目を覚すと、もはやあの陽気な木もれ日の姿は何処にも無く、毒毒しい赤で空を汚す妙にブヨブヨとした太陽が、息をきらし喘ぎながらも、かろうじて空の片隅に掛っていた。せせらぎに漬けられたままの足は、水温がいつの間にか冷たくなって、踝のあたりまで感覚が無くなっていた。 僕はあわてて足を引きあげ、こすって血行をよくした。そして幾分みじめな気分で靴下を探し、見つけだすと、ノロノロとそれを穿いた。本を手に、トボトボと帰り道を歩き始めた僕の眼に、タ陽が不思議な悪戯をした。僕の目の前の茂みが急にキラめきを帯びて燃え上り、そこにあの木もれ日の成長した姿を見い出す事ができたのだ。その木もれ日は、キラキラと僕に笑いかけながら、同時に言葉にならないメッセージを語りかけているように思えた。キラキラ、キラキラ。その光の笑い声は、僕に楽しい未来の予感を告げていた。 (了) |
| SFナラトロジー試論 |
| 給水「塔の幽霊」 |
渡辺直人 |
| ソビエト文化記号論グループタルトゥー学派は各文化固有の自然言語を一次モデル形成体とみなし、この一次モデル形成体の上に築かれる諸文化を二次モデル形成体とみなして文化記号論の対象とした。ここで注意しなければならない事は、一次モデル形成体があくまでその固有の世界観の外側に出ることができないのに対して、二次モデル形成体は逆に各一次モデル形成体に対して横断的な関係を持ち得るということである。 そうでなければ各文化間のコミニュケーションは不可能なものとなってしまうだろう。実際の場においては各文化は二次モデル形成体を通じて各一次モデル形成体の翻訳を行なっているのである。 この意味に於いて二次モデル形成体は言語横断的であると言えるだろう。各文化形成体はそれゆえ異なった自然言語の間で流通可能なのである。デリダ風に言えば、この時二次モデル形成体は自然言語を代補しているという事になるだろう。 二次モデル形成体は自然言語に付け加えられる事によって自然言語を完成させると同時に、それをそれ自身の外へ向かって開いてしまう。 そして代補するものは同時にそれを散種するのである。こうした二次モデル形成体の中でもとりわけタルトゥー学派の注目を集め、好んで研究の対象とされるのは文学ジャンルであるが、それは文学がその中で他のすべての二次モデル形成体のジャンルを取り扱い得るからである。それは特定の社会における諸文化の鏡として機能する。これは、あの悪名高い反映論ではなく各二次モデル形成体が文学テクストの中でインターテクスチュアリティを持つということである。 それは単なる諸文化の反映にとどまらずむしろそれらを異なったコンテクストの中に置き直し積極的に変形してゆく。新たなコンテクストの上に接木されたそれは常に新しい意味を生産するだろう。 そして文学ジャンルの中でもこのような接木の手法を著しく前景化したジャンルとしてSFが存在している。 しかしSFは、決して文学ジャンルの内にのみとどまるものではない。 SF映画、SFマンガ、SF画etc。様々なジャンルの中にSFはクロスオーバーして散種されている。 それゆえSFはただ単に言語横断的なだけではなく、文化記号論の対象たる二次モデル形成体をも横断しているという意味に於いて記号横断的でもある。 このことからSFは代補の代補として三次モデル形成体として扱うことができるかも知れない。この視点によってSFを文化記号論の対象として取り扱うことを正当化し得るであろう。 ナラトロジーという言葉が耳新しくなくなってからもうどれだけの時間がたったのだろうか?構造主義のブームと共に誕生した筈のこの分野は、しかしかなり遅ればせにジュネットの名のもとに日本にも紹介された。 紹介の時期が遅れたのが致命的であったのか、すでに現代思想の表面的なブームはポスト構造主義に取って代られ、ジュネットに先行して紹介されていたトドロフの詩学などと共に我国では幾分冷ややかな目で見られていたように思う。 そのせいか一部の専門的な研究を除いてはこのナラトロジーに本格的に取り組んだ作品はあまり見かけられないようである。 一般的な文学批評に於いてさえそうであってみれば、SF批評の分野に於いてナラトロジーに本格的に取り組んだ研究が見当たらないのはむしろ当然すぎるほど当然の事かも知れない。 にもかかわらず、この小論に於いてはその長さにみあった作品、ショートショートの構造分析を敢えて試みてみよう。 おそらく、後衛というポジションを守りながらもジュネットは凡百のポスト構造主義者のエピゴーネンたちよりもはるかにラディカルな存在である。そしてその事は何よりも彼自身の仕事、とりわけフィギュールVの圧倒的な仕事に於いて余す所無く証明されているといっていいだろう。 とは言えここで分析の対象とされるショートショートに対してジュネットの極度に洗練された手法を用いるのはあまりにおおげさ過ぎるように思われるし、またかえって分かりにくいのではないかと思うので、むしろより古典的な物語りの構造分祈の手法を用いてみる方が良いだろう。 ナラトロジーに大きく道を開いたもの、それはプロップの昔話の構造分析というよりもむしろロシア・フォルマリストたちの仕事の中に求めることができるだろう。そしてそのことをもっともよく示しているのは、誰もがすぐに思い浮べるようにフォルマリストの中でも他のメンバーの多くが詩を研究対象に選ぶのに対して好んで散文を研究対象に選び、『非日常化』の概念で広く知られ後世に影響を与えることになったシクロフスキーではない。 確かに彼の研究は散文を中心としたものであるが、それはエイヘンバウムの研究もそうであるように、詩の構造分析において成果をあげた手法を無理に散文に適用している為に、その分析は小説における語りの部分に集中していて、とても全体の構造を論じるといったようなものではない。 ナラトロジーに道を開いたもの。それはボリス・トマシェフスキーの『テーマ論』なのだ。 このトマシェフスキーのテーマ論で使われているアィディアは、ナラトロジーの原始的な形態というよりは、多少趣を変えられ呼び名を変えられてはいるものの、ほとんど根本的な変形を加えられる事なくジュネットのみならず後世の物語りの構造分析に於いて広く使われている。 特にファーブラ(筋)とシュジュート(プロット)の区別は必ず行なわれているといっていい。 では、ここでは構造分析の具体的な例として筒井康隆の「あるいは酒でいっぱいの海」に収録されているショートショート「給水塔の幽霊」を取り上げてみよう。 トマシェフスキーは「テーマ論」においてテーマこそが作品に有機的な統一的全体性を与えるものだと語っている。したがってテーマの選択はその作品の細部までに影響を及ぼす事になるだろう。細部はテーマとの関係においてこそ有意的になり機能することができるからだ。 即ち各作品はテーマを基準として差異の体系を構成するのである。だからもしテーマが示されなければ有意的な差異を構成する基盤そのものが失われてしまい物語りは機能することができなくなってしまう。 ではこの作品「給水塔の幽霊」のテーマは何だろうか? この作品をしばらく読んですぐに気がつく事はタイトルからも分かるようにこれが幽霊譚だという事である。古典的な幽霊譚である「塔の幽霊」がこの作品のテーマなのだ。 とはいえむろん「塔の幽霊」そのままがこの作品であるわけではない。この作品は何かを「塔の幽霊」に給水し異化しているのだ。 しかし何をどのように給水しているのだろうか?トマシェフスキーは、先程も触れたように筋(ファーブラ〉とプロット(シュジェート)とを区別する。筋とは時間の因果関係に沿って「実際にあった」事、プロットとは「読者がそれをどのようにして知ったか」の配列的順序に当たる。 同時にトマシェフスキーはテーマは小テーマに分解でき、さらに最小単位のテーマ素であるモチーフに分解されるとした。 そして因果・時間的関係に束縛されたモチーフを筋、それから自由なモチーフをプロットとした。この視点から見れば「給水塔の幽霊」は短い作品であり一見直線的な時間に支配されているように見えるにもかかわらず、両者のモチーフは錯綜している。 さらにこれらのモチーフは状況の変化をもたらすか否かによって静的なモチーフと動的なモチーフとに分けられる。筋の弁証法として定立は発端であり静的なモチーフ反定立は危機であり動的なモチーフ、そして総合は大団円であり静と動の中和であるとした。 そしてプロットとは展示であり、これはそのまま叙述される直接の展示と秘密のシステムとして逆行的な時間的転移を可能とする引き延ばされた展示とに分けられる。 この作品においては言頭から「私はあきらめて、自分のアパートの方角を見定めると、歩きはじめた。」までの一人称の記述の部分がこの引き延ばされた展示に当たるだろう。 この直後の会話の部分によって明かされる秘密のシステムがここに含まれている。秘密はこのモチーフの時点ですでに起こってしまっているのではあるが、その現前の意味は遅延させられている。 さて、その次ぎには各モチーフの動機づけが問題になる。各モチーフは動機づけされることによって美的統一を示すとトマシェフスキーは語る。それは構成上の動機づけ、現実的な動機づけ、美的動機づけに分けられる。 構成上の動機づけとはモチーフの節約と合目的性の事であり、例外の特珠な構成上のモチーフとして偽りのモチーフがある。偽りのモチーフとは読者の注意を真の状況からそらす為のモチーフである。一見モチーフの節約に反するように思われるが独自のエコノミーに従っている。 現実的な動機づけとは真実らしさの要求であり、あらゆるモチーフは所与の状況における蓋然性のモチーフとして導入されなければならない。 そして美的動機づけに於いて現実的なモチーフがそれぞれ何らかの形で物語りの構造に定着させられ、特殊な面から照明されなければならない。それは現実的なテーマの選択そのものが素材の文学的伝統との調和をもった芸術として正当化されなければならないからだ。 文学外の素材を作品に導入しながらも、それが芸術作品から脱落しないようにするには新しさと個性による素材の正当化が必要とされる。その技法が異化(オストラネーニエ)である。 さらにこれらのモチーフのエコノミーとして主人公が存在する。あれこれのモチーフを一定の人物に所属させることにより読者の注意力の負担が軽減される。人物は積み重ねられたモチーフの判別を可能にする導きの糸であり、個々のモチーフを分頬し整埋する補助手段となる。 主人公によって描写対象に対する関心の喚起を行なうのは基本的な手段である。人物は、普通感情的な彩どりを施される。肯定的、ならびに否定的なタイプは筋を構成するのに欠くべからざる要素である。 主人公は素材がプロットにまで練り上げられた結果として現われ、一方では諸々のモチーフを貫いてつなぎ合わせる手段、他方では、モチーフの関係の言わば具象化された動機づけとして働く。 プロット構成の手段は規範的な手段と自由な手段に分けられる。規範的な手段は義務的な感知されない手段であり、自由な手段は感知される手段で極端な古さや新しさによって手段の暴露を行ない前景化する。 そのうえジャンルの特徴、すなわち作品の構成を組織する諸手段は、支配的な手段であり、それは作品全体の創出に必要な他のすべての手段を自己に従属させるような諸手段である。 このような支配的優越的な手段は時として支配要素(ドミナント)と呼ばれる。支配要素の総体はジャンル形成における決定的な要素である。 しかし、それらの特徴は多種多様であり、交差し合う。それゆえ何らかのある一つの根拠に基づいてジャンルを分類することは不可能である。 以上がトマシェフスキーの「テーマ論」の要約であるが、それを「給水塔の幽霊」の詳細に於いてどのように適用できるか見て行こう。 時間の因果性に束縛されたモチーフである筋の弁証法はこの作品ではどうなっているだろうか? テーゼである発端の静的なモチーフにおいて私は帰宅しようとしている。そしてアンチテーゼである危機の動的なモチーフでは出現するかも知れない幽霊に対して緊張がたかまってゆく。けれど幽霊は出現せず、動的なモチーフは生じないように見える。いや、それどころかジンテーゼの大団円の中和すら生じずに、むしろ最終行において静止していたモチーが動的なモチーフに移行したようにさえ思える。 ここでは筋の弁証法は機能していないように見える。しかし、それは筋とプロットを同一視している為にそのように見えるのである。ここでもう一度筋とプロットの違いを思い出してみよう。 ラストで明かされている事柄は、因果関係に従う時間線の上ではすでに起こってしまっているのだ。 その事が読者に知らされるのは最後の行においてであるが、この短い物語りの中での真の出来事とでも呼ぶべき事は物語りの中間で読者に知らされないまま導入部の日常性に対するアンチテーゼとして動的なモチーフを展開しているのだ。 それならば総合はどのように行なわれているのだろうか?時間的には最後に位置する会話の中で、それはどのように中和されているのだろう。 それでも最終行において行なわれているのは、静的なものと動的なものの中和ではなく、日常的で静的なモチーフから危機的で動的なモチーフへの移行であるかのように感じられる。どこに両者の中和と総合があるのだろうか? それは時間の中、差延によってもたらされる時間の中、時間の間隔化の中に在る。 最終行で示される事実がどれほど動的なモチーフであろうとも、その事実は現前ではなく代行=再現前である。それ故動的なモチーフは常に時間によって隔てられている。それが語られている場所は静的な日常の場、家庭である。 その動的なモチーフそれ自身からの距離づけによって、それは語リ得るものとなっているのだ。そして逆に言えば、それが動的なモチーフとなり得るのはまさにそれ自身からの距離によるものだ。 では危機的で動的なモチーフは、それがそこに不在であるという理由によって遠ざけられ、それが語られる場である日常的で静的なモチーフのみが最終行を支配しているのだろうか? もちろんそうではない。不在の現前から危機的で動的なモチーフがここへ送り返されてくる。まさしく今ここにない物によってこの最終行は有意的に機能しているのだ。 動的なモチーフ、それはそこに有り同時にそこにはない。最終行が日常的で静的なモチーフであり得るのは、つねにすでにそれ自身ではないものとの関係においてのみそうであり得るのだ。 すなわち動的なモチーフは、それがある時(最終行において機能する時)それは(それが代行=再現前であるから)なく、それが(代行=再現前であるがゆえに)ない時それは(物語りの中で機能するので)ある。 最終行の中でモチーフはこのように中和されている。ジンテーゼは決定不可能性の中で姿を現わすが、それはテーゼでもなくアンチテーゼでもない第三のものとして姿を現わすのであって、へーゲル的な弁証法のようにテーゼやアンチテーゼをジンテーゼの中に止揚してしまうのではない。 このようにして、最終行は筋の持つ作品中の通時的な時間の中で自らを開示しその共時的な機能を明らかにするが、テクストの持つ機能の共時性は同時に言語の線状性にしたがって読まれる為、常に読者の読書に要する時間の通時性に依存して成立する。 しかし、テクスト内の通時的な時間をテクスト内の共時的な認識へと導く筋に対して、このテクスト外の通時的な時間の中でこそテクスト内の共時的な機能をテクスト外の共時的な認識を通して働かせる事のできるものが因果的な時間から自由なモチーフであるプロットなのである。 筋の弁証法の外にあって、プロットは共時的なものが通時的なものの尾を呑み、通時的なものが共時的なものの尾を呑むウロボロスとしてテクストの内と外とを反転させる。 逆行的な秘密のシステムとしての時間的転移を可能とする引き延ばされた展示は、しかし常に読者の読書に要する通時的な時間内にあっても最終行から遡ってのみ事後的に判別する事が可能なのである。 ではその引き延ばされた展示を各モチーフの動機づけと共に見ていこう。モチーフの判別の導き手はもちろん主人公である。 それにしてもこの主人公はどうであろうか?どう見ても肯定的なタイプとも否定的なタイプとも言い難く、強烈な感情的彩りを施されているとは言えない。したがって、この主人公では物語りを導く力が弱いように思われる。事実、最終行に到るまで事件らしい事件は起らず、日常そのものの風景に読者は肩すかしを喰うだろう。 読者がこの主人公から受け取るメッセージはただ一つ平凡という事だ。確かに長い作品ならこのような主人公で最後まで読者を引き付けておくのは難しいに違いない。しかしこの作品の中ではこのような主人公の凡庸さは却って有効に機能している。 それは主人公がサラリーマンという設定とともに日常性を強調しており、その後に続くだろう物語りのドラマチックな展開との落差をさらに大きくする為の工夫ではないかと思わせる。 この時、構成上の動機づけである読者の注意を真の状況からそらす為の偽りのモチーフは二重に機能している。 主人公の性格と生活が日常性を強調されれば、古典的な「塔の幽霊」のテーマに従って読者はこれを次ぎの展開を劇的にする為の偽りのモチーフとみなすだろう。しかし、まさにこの地点においてこの作品は「塔の幽霊」に給水しているのだ。 大方の読者の予想に反してここでは何も起こらない。肩すかしの意外性というわけだ。しかし、それだけではない。それだけでは呆気なさ過ぎるし、あまりにも安易であるから、このままで作品が終わる筈がないという期侍も生ずる。読者は予想外の方法で幽霊が現れて驚かせてくれるのを今か今かと待っている。 けれど物語りはその期待さえ裏切りつつ最終行まで読者を引っ張って来る。もうほとんどこれから先がないのでこんな少ないスペースでは何も起こる筈がないと思って読者が気を抜いた瞬間、不在の現前の中から幽霊が現れる。 この時、偽りの動機づけと同時に現実的なモチーフを特殊な面から照明する美的な動機づけも機能している。 プロット構成上で規範的で義務的な感知されない手段と思わせられていたものが、一挙に逆転させられて自由で極端な手段による手段それ自身の暴露の感知される手段である事が明らかにされる。 そして、そのことによってまたしても事後的に最終行から遡ってエコノミーに反する無意味なモチーフのように見えていたものが、実はモチーフの節約と合目的性に従っていた事が分かる。 トマシェフスキーの語る各モチーフの動機づけによる美的統一とは、このように重層決定されているのだ。 ここでは、ジャンルの特徴を決定する諸手段である支配要素(ドミナント)は、幽霊譚という自らの特徴の逆手を取って前景化されている。 読者を引っ掛ける為の表面的なストーリィこそが、この作品における幽霊だったのである。「給水塔の幽霊」は「塔の幽霊」を幽霊することによって、「塔の幽霊」に給水しているのだ。「塔の幽霊」は「当の幽霊」となる。 しかし、そうであろうか?「給水塔の幽霊」は、給水塔が幽霊の出る場所ではなく幽霊の実体そのものを指しているという解釈は、給水塔は幽霊の出る場所という読者に対する見せ掛け、実はそれこそが幽霊だったという解釈は本当に正しいのだろうか? この解釈そのものが二重底の見せ掛けではないのか?給水塔とは、やはり場所の名前でなかったのか?無生物の給水塔ではなくちゃんと生き物の幽霊が出たのではないのだろうか? さぁ、もう一度テクストをよく見てみよう。不在の現前から、もう一つの幽霊がたち現れて来る。 最初から見てみよう。「郊外電車に乗った時はもう薄暗かった。」そう、この時は「もう」なのだ。「私はいつももう一方の電車で通勤しているのだ。」従っていつもとは違う方向が選択されているのだ。 我々もまた通常の解釈とは反対の方向へ行ってみよう。 「駅の改札口を出てしばらくは自分のアパートがどちらにあるのかよくわからわなかった。いつもとは逆の方向から帰るのだから、ぜんぜんこの付近は知らないのだ。」 何故よく分からないのだろうか?どうしてよく分からない方から帰ろうとするのだろうか?「ぜんぜんこの付近は知らない」のは何故なのだろう?普段は行かない方向でも、およそは知っているのが普通ではないのか?それを知らないのは何か別の訳が有るのではなのか? 「この給水塔のあたりに幽霊が出るという噂が拡がってから、もう二ヵ月くらいになる。だが、私は、この塔にお眼にかかるのは初めてなのだ。」しかし、これはこの直前の記述と矛盾してはいないだろうか? 「給水塔の下までやってきた時はすでに日が暮れ、通る人は誰もいなかった。だが、ここまで来れば誰に訊ねなくても大丈夫だ。」とそこには書かれているのに。それともこれは矛盾しないのだろうか?そんな事が可能な隠された訳でも有るのだろうか?例えば給水塔を見るのは初めてだが、給水塔ができる前のこの辺りを知っていたとか。 それに二ヵ月前から噂になっていた幽霊とは何者なのだろうか?テクストの最終行が正しいとすれば、その幽霊は給水塔ではありえない。 「それから、ひょっとしたら、幽霊を探しまわっている本人の自分が、いつのまにか幽霊になっているのかもしれないぞと思った。」そうではないと言い切れるだろうか?むしろそうだからこそ先程の矛盾が矛盾ではなくなるのではないか? この一人称の私とその後の会話だけから成り立っている部分とが同一人物によるものであるとは言い切れない。あたかも同一人物であるかのように符合する部分が語られるが、それなら何故その事がはっきり示されずに会話のみに終始しているのだろうか? いや、それどころかこの会話が実は会話でない可能性すら考えられる。会話とは複数の人物によって行なわれるものだとすれば、この会話であるかのようなものが一人で演じられていたら何と呼べば良いのだろうか? これが「塔の幽霊」ならぬ「当の幽霊」の独り芝居であったとしたらどうなのだろうか?この時、幽霊は出ていたという事になるのだろうか? けれど、やはりこれは会話であるのかも知れない。 「二ヵ月前、ここで心中があったのだ。男は助かり、女は死んだ。出るというのはその女の幽霊だ。」 この女の幽霊はどこへ行ってしまったのだろう?単に読者の注意をそらす為のダミーだったのか?それともこの女の幽霊もそれとは分からない形で出ているのではないのだろうか? つまり、それがこの会話ではないのか?心中した相手の男こそがこの「私」ではないのか? 幽霊との会話。 あるいは、男は本当に心中して助かったのか? 幽霊同士の会話。 すべては決定不可能性の中で、そして読者に接木されたテクストの中で、その読み得る意味は散種されている。 最後に残された幽霊。それはこのテクストの意味そのものである。 はたして、読者にとって幽霊は出たのか出なかったのか? こうしてこの小文自体が給水「当の幽霊」と化すのだ。 (了) |