| 「イリュージョン/ILLUSION」 |
渡辺直人 |
| 私は、ずっと長い間、この世にも何か確かなものが、確かな手応えを持ったものが存在するに違いないと信じていた。きっと、きっと何処かにある筈だと。 たとえ、どのように堅牢な構築物であろうとも、数千年、数万年の時の流れの中では、崩れ去り、塵に帰ってしまうだろう。その塵も、やがては分子に解体し、分子は原子に、原子は素粒子に、その素粒子でさえクォークに、…………。そんな風に、この世で確かなものなど何一つありはしないかのように見える。エントロピーは増大し、どんな物体もいずれは崩壊してしまうのだ。 それでも、私はそれを探し求めることをやめはしなかった。きっとこの世の中にも、何か確かなものが存在するに違いない。そう信じているうちに、私は君の中にそれを見い出したように思ったのだ、ロリア。そんな君のためだからこそ、私はここまでこうしてやって来たんだ。 カイロス星で疫病が発生した。はじめは検疫船が派遣されたが、原因不明の疫病が猛威を奮っている旨の連絡が入った後、通信が途絶えた。疫病が他の星系に拡がることを恐れた銀河連邦衛生局は、直ちにカイロス星を封鎖した。カイロス星からの出航はもちろんのこと、あらゆる外界との接触が禁止され、検問所が設けられると同時に非常線がはられた。 それを聞いた時、商談のためにコラリー星を訪れていた私は大きく動揺した。つい数ヵ月前、カイロスの宇宙港で別れたばかりの婚約者、つまり君の事をすぐに思い浮べた。私は商談を途中で打切り、コラリー星の知人が止めるりも聞かずに、急いで荷物をまとめると、個人用の高速艇でカイロスへと旅立った。しかし、そこに私を待ちうけていたものは失望だった。疫病が沈静するまでカイロス星に留まる事を条件に、すぐにも着陸許可がおりるものと思っていたのだが、君のいるカイロス星を目前にして、私は検問所として設けられた衛星軌道上のステーションに何日も足留めをくらったままだった。私は、君の安否を知りたくて矢も楯もたまらずにいた。それなのにカイロス星との通信は、あいかわらず途絶したままだった。苛立ちは日々につのり、とうとう私のがまんも限界に達する日が来てしまった。 ある日、一旦コラリー星へ商談をまとめに帰るという口実で、私は自分の高速艇に乗り込んでステーションを離れ、非常線の強行突破を試みた。この非常線は、カイロス星から脱出しようとする者に対する警戒を主眼としたものであったため、それほど激しい攻撃を受けることもなく、また隔雑された惑星へ自らすすんで着陸しようという馬鹿者を、わざわざ深追いする酔狂な,警備艇もなかったので、私の高速艇は何とかカイロス星の大地へ着陸することができた。とはいえ、彼等は決してすんなりと通してくれたわけではなかった。警備艇の攻撃を受けて、私の高速艇は廃船も同様のスクラップにされていた。着陸のショックで、この船の機能はすべてオシャカになってしまったのだ。大気圏外で破壌されなかったのも幸運だったし、これほど痛めつけられた機体で、空中分解したり失速したりせず無事に着陸できたのが不思議なくらいだった。兎に角、まあどうにかここまでやって来ることができたのだ、ロリア。 「フィリップ、来てくれるだろうと思っていたわ」 私に話しかけてくる君の笑顔が瞼に浮んだ。大きく息を吐くと、私は外に出る。目の前に、この星が疫病に冒されているなんて信じられないくらい澄みきった高く青い空と、どこか見慣れた山並みがあった。この着陸地点は、ロリアの住んでいる町からは、そう遠くはない筈だ。おそらく数十キロと離れてはいないに違いない。但し、それでも歩いて行くには遠すぎる距離ではある。赤茶気た土が扇状に拡がって見える、やや緩やかな斜面に、私の船は着陸していた。さて、ここからどの方角へ進めば良いものやらと思案していると、草笛の音が、遠く風にのって、高く低く、ともすれば途切れがちに聞こえてきた。私は、よく聞きとれるように耳をすました。音は、どうやら小高い丘の向う側から聞こえてくるようだ。とりあえず近くに人の居る事がわかって、私はホッとした。これで町のある方角を聞く事もできるし、運がよければ乗物を貸してもらえるかも知れない。 丘をこえると、かつては牧場の納屋だったらしい崩れかけた廃屋と、その前にある朽ちかけた木の柵に腰をかけて草笛を吹いている少年の姿が見えた。少年は、私が近づくのを気にする様子もなく、一心に草笛を吹き鳴らしている。黒い髪に黒い憧、シワだらけの紺のズポンと所々土に茶色く汚れ草の汁がシミになった本来は白いシャツ。 私は少年の手前まで来て立ち止まると、彼の演奏が一段落するのを待っていた。少年はそれまで悪戦苦闘しながら吹いていた曲を途中でピタリと止め、顔をあげて私の方を見た。 「おじさん、おいらに何か用かい?」 「ああ。君はこのあたりの子かい?」 「そうだけど、……。おじさんはこの辺では見かけないなあ」 少年は、不審そうに私をジロジロと見た。 「君は原因不明の疫病の事を聞いてないかい?今、大流行している筈なんだが」 「病気だって、……。そう言えば去年家畜がバタバタ死んじゃう病気が流行ったけれど、それじゃないんだろ?」 「違うよ、人の病気さ。おかしいなあ。この辺の田舎までは感染していないのかな。恐い病気が都会で流行ってるって噂も聞かなかったかい?」 「うん、全然」 「ふうーん。ところで、この近くにどこか人の居る所はないのかい?」 「そうだね、すぐ近くに幾つか牧場があるし、南の方へ歩いて行けば村があるよ」 「村ねえ。それより、ここはシルト市から遠いのかい?」 少年は、黙って首を横に振った。 「宇宙港のある町なんだけれど、どうすれば行けるのか知らないかい?」 しかし、少年は首を横に振るばかりだった。 「シルト市なんて聞いた事もないよ。おいら、この牧場から他の所へはほとんど行ったことがないんだ。村へ行って誰かに聞きなよ。外の世界のことは、おいらには何もわかんないんだ」 「村へは、南へ歩いて行けばいいと言ったね。南はどっちかな?」 少年は目を丸くして私を見つめた。 「おかしな人だね、あんた。方角もわかんないのかい?まあいいや。そうだよ、まっすぐ南へ行けばいいんだ。ホラ、おいらが指でさしている方角が南だから、この坂道をずっと降りて行けば村に着くんだ。途中には何も無いから、道に迷ったりしないさ」 「ありがとう。行ってみるよ」 私は少年に礼を言うと、教えてもらったばかりの坂道を歩みだした。しばらくすると、私の背後では、風の音に混じって再び草笛の音が響き始めた。 私がやっとの事で村へ辿り着いた時には、もう陽が沈みかけていた。疲労で重くなった足を引きずりながら村の中へ入って行くと、家並みにはひっそりと人気がなく、どことなく不気味で、まるでゴースト・タウンのようだった。 「誰か居ませんか」 私の声に応えるのは、半ば腐りかけた古い板壁が、強い風に吹かれてキィーときしむ音だけだ。 「誰も居ないんですかっ!」 私の声は、空しくあたりの空間に吸い込まれていった。私は落胆のあまりその場に座りこんでしまった。しばらくの間、そうしてボンヤリと空をながめていると、周囲が一段と薄暗くなっているのに気づいた。もう時間が無い。私は気をとり直すと、家々の戸口をノックし、「誰か居ませんか?」と呼びかけながら進んで行く。 誰も居なかった。行く先々のどこも空家だった。疫病にやられて全滅してしまったのだろうか?でも、あの少年は疫病の噂も聞いた事がないと言っていた。そうしているうちに、空はもうすっかり暗くなり、物がはっきりと見分けられなくなり始めていた。私は焦りを感じ、もう一度大きな声をはりあげた。 「誰か居ませんか!」 私の声に、手前の家の陰で何かが動いたように思えた。暗がりに仄白く浮かび上がった、それは人の手だった。黒い人影が動いた。 「誰か、………居るんですか?」 その人影は、私の方へよろめくように進んできた。消えゆく陽の最後の光に照らされて、枯木のように痩せている小柄な老婆の姿が現われた。全身黒づくめの服を着て、頭にも黒い頭巾のようなものを被っている。こう暗くては見分けられなかったわけだ。 「おまえさんこそ誰じゃね?」 「私は、シルト市の者です。でも、この村の様子は一体どうしてしまったっていうんですか?」 「どうもこうも、みんな疫病の奴のしわざじゃよ」 「やっぱり、………」 やっぱりそうだったのか。疫病が、こんな田舎の村にまで蔓延しているとは、……。町ではどうなのだろう、君は無事でいるのだろうか、ロリア? 「今ではこの村で生き残っているのは、どうやらわし一人になってしもうた。ううっ、寒くはないかの?こんな所で立ち話しもなんじゃ、ともかくわしの家へ来なされや、町の方」 老婆は、クルリと私に背を向けると、危かしげにヒョコヒョコと歩き始めた。聞きたい事は山ほどあったが、私はがまんして黙ったまま後をついていった。 やがて、古めかしくガランとして大きな家の戸口に老婆の姿が消えた。私は、ためらいながらもその家の中へ入った。玄関と小部屋を幾つか抜けて、食堂らしい部屋に入ると老婆は立ち止まった。私の方へ顔を振り向けて、「いますぐ何か淹れるから、腰かけて待っているといいさ」と言った。部屋の中央には傷だらけのテープルがあり、それがどうやら食卓らしかった。私は木製の椅子をひいて腰をかけたが、それはかん高い悲鳴をあげてきしみ、今にも壊れてしまいそうだった。 壁ぎわには色褪せた写真が並ぺてかけられている。古い肖像。何気なく目をやって、ふとその中の一つの写真に先ほどの少年によく似た人物が写っていることに気がついた。黒い髪に黒い瞳。写真の中の人物はあの少年よりも幾分年上のようだが、兄弟と言ってもよい程よく似ている。こんな小さな村だ、二人はきっと血縁関係にあるのだろう。 老婆がロウソクを点したので、写真がもっとよく見えるようになった。見れば見るはどあの少年に似ていた。私は、その写真を指して老婆に聞いた。 「どなたか肉親の方ですか?」 皺だらけの顔の中て、眩しいものでも見るように瞼がしばたいた。 「それはねえ、あたしの御先祖様で、あたしの祖父の若い頃の写真だよ」 私は、その言葉に少し驚ろいた。写真の人物を老婆より若い彼女の親類だろうと思っていたからだ。 「そうですか。村外れの牧場にも御親威の方がいらっしゃるんでしょうね。私は今日村外れの牧場で、この写真の方とよく似た少年に会いましたよ」 老婆は私の言葉に首をかしげた。 「そりゃ何かの間違いじゃないかのう。あたしの一族は、この村ではもうあたししか残っておらんしのう。みんな疫病にやられてしもうた。それに、村外れに牧場が有ったのは、それこそあたしの祖父の時代のことで、牧場は祖父が子供の頃に家畜の病気が流行った時から成りたたなくなってきて、今では打ち捨てられたまま誰も住んではおらん筈じゃがなあ」 私は、崩れかけた廃屋の事を思い出していた。それでは、あんな所であの少年は何をしていたのだろう?しかし私のそんな回想は、老婆の再開した昔の思い出話しに断ち切られた。 「そうそう、あたしの祖父という人はね、子供の頃は草笛を吹くのが随分好きだったそうな。たいして上手でもないくせに、牧場の仕事をサボっては、柵の所へ行って一日中吹いていたそうだよ」 私は気味が悪くなったので、あわてて話題を変えた。 「町の方でも疫病が流行ってるって噂をお聞きになったことはありませんか?」 老婆が紅茶らしきものの入ったカップを私の前に置いた。 「お飲みよ。ああ、もちろん聞いたことがあるよ。どこでも同じさ。この星全体で流行ってるんだよ」 「そうですか」 疲労と不安で体がブルブル震え始めた。ロリア、無事でいてくれ。 「おや、震えているね。寒いのかい。ちょっとお待ちよ、いま夕食を作ってあげるから。もっとも、たいしたものはできないけどさ」 「ありがとうございます。ところで、シルト市へはどう行けばよいのか御存知ありませんか?何か適当な乗物でもあれはいいんですが」 「シルト市ねえ、確かにこの村からは一番近い町だけれど、もうこの村には、これといった乗物はないねえ、……。ああ、そうそう、南の村外れにシルト市郊外へ通じるトロッコがあるよ。昔、この村の南でアレフ炭が出た時に炭坑からシルト市へ運ぶためにトロッコが作られたんじゃ。あの頃はこの村も栄えておったりう。当時アレフ炭は、この星で最も効率のよいエネルギー源じゃったから」 老婆は一体いつの話をしているのだろう。アレフ炭が使われていたのは、もう百年近く前のことだ。おそらく子供の頃聞いた話を自分の記憶と混同しているのだ。 「そのトロッコは今でも使えるんですか?私を乗せてシルト市まで無事に着けるような代物ですか?」 「さあ、どうかのう。重い物を運ぶのは無理かも知れんが、人ひとりぐらいは大丈夫じゃろう。しかし、それも明日の事にしなされ。もうすっかり夜も更けてしもうた。今夜はここで食事をして、この家に泊まっていくといいよ」 「はあ、御規切に言って頂いてありがとうございます。あっ、お名前をまだ伺っていませんでしたね」 老婆は、くすぐったそうに汚れた歯を見せて笑った。 「あたしの名前かね。あたしの名前はセシルって言うのさ」 「セシルさん、何と言ってお礼を申し上げたら………」 老婆は笑いながら食事の支度を始めた。食事を終えると、老婆は壁土の崩れかかったカビ臭い匂いのする部屋に案内してくれた。ほとんど何の装飾品もない部屋の中に、錆びついたフレームのベッドだけがポツンとあった。私は、もう一度老婆に礼を言った。 「おやすみ」 老婆がドアを閉めると部屋の中は真暗になった。固くて寝心地の悪そうなベッドだったが、私はとても疲れていたので、その上に横になるとすぐに眠くなった。最後に、意識が溶暗する直前に、私の脳裏にはロリアの笑顔が浮んだ。 どこか深い井戸の底で遠くから響いてくる物音に耳を傾けているような気がした。はっきりしないくぐもった声が、しきりに私に呼ぴかけているようだ。何者かが私の肩をゆすった。放っておいてくれ、眠らせておいてくれ。私は寝返りをうつと面倒くさそうにその手を払った。 「おい、起きろ!こんな所で寝ちゃいかん。起きたまえ」 声は執拗に私に語りかけた。私はたまらなくなって目を開けた。頭に白いものが混り始めた初老の小太りな男が私を覗き込んでいた。 「あなたは、どなたですか?」 目をこすりながら、そう言いかけて、私は急に気がついた。男の肩越しに空が見える。私は驚いて上体を起こした。私はベッドの上ではなく地面に寝転がっていたのだ。 「どうやら目が覚めたようだな」 初老の男は私の肩に手を置いて、落ち着いた低い声で言った。私は頭が混乱して、何と言えばよいのかわからなかった。自分の置かれた状況をもう一度確認するためにあたりを見まわした。同じだ。私は道に寝ていたのだ。目に入る家並みから見て村の中には違いないが、あの老婆に案内されて泊った家は見当らなかった。私は男に視線を戻した。 「私はこの村の医者でサンダースという者だ。君は見かけない顔だが、どうしてこんな所で寝ていたりかね?」 私は首を振りながら立ち上がった。 「それが、私にもよくわからないんです。確かにベッドの上で眠った筈なんですが、……」 「記憶にないというわけか」 「そうなんです。セシルというお婆さんの家へ泊めてもらったんですが、御存知ありませんか?」 「セシル婆さんだって!ああ、それではあの哀れな老婆の魂は、まだこの地上をさまよっているんだな」 「何ですって!どういう意昧です?」 「君が会ったのは幽霊だってことさ。セシル婆さんは十年も前に死んでいるよ。セシル婆さんが見えるようだと、どうやら君も疫病に感染しているな」 「疫病、…。そうだ、彼女も疫病の事を話していましたよ」 「そうだろうとも。セシル婆さんは、密航者によって持ち込まれたペストが大流行した時のこの村の生き残りだったからなあ」 「そんな、……。ペストが大流行したのは私が子供の頃ですよ」 「だから幽霊だったんだよ。君はこの疫病に感染しているから幽霊が見えたのさ」 「幽霊が見えるなんて馬鹿な事が……」 「そうかな。君はこの星が特殊な磁場を形成している事と、この星の原生植物がフェラトンという高分子を大気中に放出している事を知らないのかね。そしてこのフェラトンは微弱な磁気、特に生体磁気に反応して立体構造を変え、言わば生命活動の記憶を磁気的に保持する働きがあり、さらにこの星の磁場がただでさえ壊れにくいフェラトンの分子構造を安定させるという事を知らないのかね。この星がカイロスと呼ばれる由来を思い出したまえ。太陽フレアが発生し、高エネルギー粒子がこの星へ飛来する時、ちょうどオーロラのようにその構成原子が励起状態になったフェラトンが磁気的な記憶に従って光を放出し、例えば雲などがスクリーンとなってその光を受け止めた時に、そこに昔の映像が再現されるじゃないか」 「でも、それは特殊な時で、普段にはそんなものは見えませんよ」 「普段ならな。しかし、今この星で流行っている原因不明の疫病に罹った時は違う。この病原体は、どうやら人間のレセプターを変容させて、フェラトンの磁気情報を直接読み取ってしまうことを可能にするらしいのだ」 「ということは、つまり,……」 「はやい話が、幽霊が見える、昔の生体磁気の情報をそのまま現実として受け取り、対応してしまうってことだ。こいつはとても始末が悪い。何故なら、この病気に感染したら、何が本当の現実なのかわからなくなってしまうからだ」 「それで外部との連絡ができないのですね。違いますか?」 「そうだ。交信しようとしても、似たような昔の記憶が割り込んできたのではなく本当に外部と接触しているのかどうかわからないからだ」 「私は、シルト市の人間です。シルト市へ戻って知人達の安否を確かめたいのですが、どうすればよいのでてしょう?」 「難かしい所だな。君はすでに感染してしまったから、シルト市へ行っても何が現実で何がそうでないかを確かめる術がない」 「それでもシルト市へ行きたいのです。あの幽霊は、アレフ炭運搬用のトロッコが有ると言っていましたが」 「ああ、それなら今も有る。使われておらんので錆びついてはいるだろうがな。あの角を曲って、しばらく歩けば見えてくる」 私は、サンダース医師が指さした方角へ視線を向けた。 「あの角を曲がるのですね?」 私は振り向いてそう尋ねた。そこには誰も居ない。無人の村の中を風が吹き抜けた。 幸いトロッコはすぐに見つかった。思った以上に錆びてはいたものの何とか動かすことができた。私はトロッコに乗り込むとシルト市までの長い道程を窮屈な姿勢でガタピシ揺られて行った。そして、やっとのことでシルト市へ着いたのだ。僅か数ヵ月前に離れたぱかりだというのに、自分の住んでいた町を目のあたりにして涙が出るほどの懐かしさを感じた。帰ってきたんだ。郊外から町のメインストリートへ入ると、さすがに後にしてきた田舎の村とは違って、いたる所に行き交う人々のざわめきが溢れていた。私はこの町の喧騒を耳にしただけでも心がはずんだ。見慣れた街角を足取りも軽く進んで行く。そうして歩いて行くうちに雑踏の中に知人の顔を見たように思ったが、すぐに見失ってしまった。まあいいや。この町の知人は彼一人だけではない。道行く人々の表情は明るく、幽霊が見える原因不明の疫病が流行っていて不安だというような風情はどこにも見られなかった。これは、どうしたことだろう?考えながら歩いていると、また別の知人を見つけた。 「フーバーさん」 私は手を振って彼に呼びかけた。聞こえないのか、彼は素知らぬ顔をして通りすぎようとした。 「フーバーさん、私です」 大きな声で叫んでも彼の表情は変らなかった。聞こえていないのだ。ある疑惑が私を捉えた。あの村の医者の幽霊は何と言っていたか。 「君はすでに感染してしまったから、シルト市へ行っても何が現実て何がそうでないのか確かめる術がない」 では、フーバー氏もすでに幽霊になっているから私に見えるのではないか、本物のフーバー氏はすでに墓穴の中に横たわっているのではないのか? 私は気が狂ったようにフーバー氏の後を追って駆けだした。フーバー氏はあいかわらずゆっくり歩み続けている。私は彼を追い抜くと、両手を拡げて彼り前に立ちはだかった。彼は、目の前に私など居ないかのように近づいてくる。ぷつかる。私は、そう思った。ところが、フーバー氏は私り体を透明な空気の壁か何かりようにスーッと通り抜けてしまった。何の手応えもなかった。彼もまた過去の幻彰、幽霊にすぎなかったのだ。私はブルブル震え始めた。まさか、そんな事が……。でも、この町のにぎわいはどうだ。疫病が流行っている町としてはこれは不自然ではないのか?私は恐ろしい疑念に苦しめられた。私が今目にしている光景、これはすべて偽りではないのか?実はこのシルト市も疫病のために全滅してゴースト・タウンになっているのではないのか? 私は確かめようとして道行く人々に次々と抱きついた。誰れの体にも触れられなかった。誰も彼もが幽霊だった。このにぎやかに見える通りには、生きている人間は一人も居ないのだ。私はショックを受けて、フラフラと夢遊病者のような足取りで歩きだした。気がつくと、いつもロリアと一緒によく来たレストランの前に立っていた。私は引き奇せられるようにその中へ入っていった。まったく無意識のうちに馴染みのテーブルに座わる。隣りのテープルを見て、私はハッとした。ロリア、見知らぬ男と同じ食卓について談笑している君が居たのだ。声をかけようとして、私は深い悲しみに襲われた。君の目の前に座っている私が見えない筈はないのに、君は私を見てはいなかったからだ。私は悲しみのあまり泣きだしそうになった。あんまりだ。やっと君に会えたというのに、君もまた幽霊になっていただなんて、…。 「ロリア!」 私は悲しみに耐えかねて叫んだ。君は笑顔のまま、静かにティカップを持ち上げる。それにしても、何て素敵な、そして愛おしい笑顔なんだろう。この笑顔が過去の幻影にすぎない、もう存在しないということが信じられなかった。たまらなくつらかった。私はずっと長い間、この世にも確かなものがきっと存在するに違いないと信じていた。そして、それを君の中に見い出したと思っていた。私は、ずっと信じていたのだ………。首うなだれて、半ば放心したまま、私は君達の会話に耳を傾けた。 「ではあなたは」 男は食事の手を止めて、ためらうように視線を落してから続けた。 「今でもその方の事が忘れられないのですね」 ロリアは淋しそうに微笑んだ。 「ええ、そうです。あたしは今でも彼のことを愛しています」 「でも、もう忘れなければいけません」 咎めるような口調になって男が言った。 「あなたはまだ若いのです。いつまでも亡くなった方の事を思って人生を暗くしていてはいけません」 「わかっています、あたし。でも………」 「いいでしょう。すぐに明るく振舞えと言うのは無理な注文ですからね。その方は、どうして亡くなったのですか?」 「彼は、あたしの婚約者フィリップは、例の奇妙な疫病が流行した時に亡くなったんです。彼は、ちょうどその病気が始まった時、コラリー星へ商談に行っていました。御存知のように、あの時この星は封鎖されて外界とは音信不通になりました。彼は、あたしの安否を気づかって、非常線を強行突破しようとして警備艇に撃墜されてしまったんです。このシルト市の近く、東の山腹に墜ちたそうです」 「悪いことを聞いてしまいましたね」 「いいえ、そんな……」 それからロリアは、不思議なやすらぎに満ちた笑みを浮ベた。 「それに、あたし今でも時々夢に見るんです。馴染みのテーブルに彼と二人で腰かけて食事をしている様子を。この隣りのテーブルで、彼が静かにあたしに笑いかけている、そんな夢なんです」 ロリアは、そのテーブルへ哀し気な眼差しを向けた。誰も居ない椅子の上では、眩しい黄金色の光が躍っていた。 (了) |