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資料8:週刊オマケとオマケ現象



■概説「オマケ現象」
一般に「オマケ運動」と呼ばれるブームがSF研に吹き荒れたのは、1977年(昭和52年)のことであった。この「オマケ運動」に関しては、後述する「週刊オマケ」に詳しい。そこでは関係者の行動を中心とした「運動」の全容が明らかにされている。そこで拙論では、それとはまた違った側面、すなわちこのムーブメントをSF研という閉ざされた環境の中で発生した一種の「現象」ととらえ、発生の経緯、環境に与えた影響などに考察を加えていきたいと思う。
さて、この運動もしくは現象に関する現存する最も古い記録は、資料7「回覧版NOTE3」に記されたものであることが調査の結果わかった。記事の日付は1977年5月31日〜6月1日。まあ、深夜に書いたという事だろう。「オズ3号」を印刷作業中の三吉健一の記述である。以下は、その抜粋。
(オズ3号の印刷に)今日刷(り)に来てくれんかった伊佐さんアッカンベェー。もうオマケさんと仲良しにさせたげないからねェだ。
この文面から、伊佐さんがオマケさんと仲良しさせてもらった事、その決定権を三吉健一が持っていた事などがうかがいしれる。それが事実か、彼の虚言か今となってはわからないが、少なくともこの時点までに、オマケさんと仲良しする事がある種のステータスとされる風潮がすでにあった、という事実は認めねばなるまい。「オマケ運動」の聖典ともいわれる「週刊オマケ」創刊の2ヶ月前の記録である。

続いて同じく「回覧版NOTE3」の記事。正確な日付はわからないものの、前後の関係から1977年6月18日もしくは19日と推察される。記述者は伊佐研一。ネモ宮原(宮島雅)をポルノ映画に連れていく約束をしていた伊佐さんが、土壇場で怖じ気を振るったネモに怒りをぶつけている一文があり、問題の記事はそれに添えられたものである。
オマケさんとの会話
「オマケさん、えい画行きませんか」
「なんのですか?」
「ポルノ」
「なんですかそれ?」
「おもしろいエイガのことです」
「いきます」
・・・・・(ぜんぜんおもしろくない)
ひどいジョークである。最後に書き添えられているように、全然おもしろくない。しかし注目すべきはそのセンスではなく、ジョークのネタになるほど、オマケさんの存在がSF研の中へ浸透していたという事実なのだ。そしてその傾向は、日を追うごとに拍車がかかるのである。

「回覧版NOTE3」からの抜粋が続く。日付は直後の6月20日。記述者は中原則彦。当時のSF研の部長である。
(前略)今日はオマケさんその他(伊佐さん、堀越さん)とサテンに行った。伊佐さんのとなりに座ったぼくはオマケさんと真正面から向かいあうようになってしまった。恥ずかしい…こう書いていると興味シンシンだが、オマケさんに話しかけるのは伊佐さんと堀越さんで、ぼくは一人シコシコとお茶ヅケの味をかみしめていた。結局ぼくはつまはじきだった。グスン。(後略)
泣くのである。SF研の部長が、オマケさんとまともに話せなかった言って、グスンと泣くのである。これ以上、何をかいわんや藤岡琢也。この日6月20日をもって、オマケ現象はSF研を完全制圧したといえる。

日付は変わって、6月28日。記述者は、ぴんきっしゅくん。なんかしらんけど、堀越さんのペンネームらしい。
6月28日おまけさんと話をした。
6月29日おまけさんと話をするだろう。
6月30日おまけさんと話をするにちがいない。
7月1日おまけさんと話をする可能性がある。
7月2日おまけさんと話をするような気がする。
7月3日おまけさんと話をするつもりだ。
7月4日おまけさんと話をしようと思う。
7月5日おまけさんと話がしたい。
7月6日おまけさんと話すべきだ。ぐぶぐぶ…。
このあと、二人の人物がチャチャを入れる。
7月7日おまけさんと話しすぎて舌が痛くなった。(K.I.)
7月8日おまけさんと話したいが意地でもそれができないワタクシ…○○死ねぇーッ(ネモ)
(K.I.)は、言わずと知れた伊佐さんである。まるで「もうエアマックスは終わったね」とか「クラブ遊びなんてあきちゃったよ」みたいな口振りだ。これが中原やネモさんの神経を逆なでする。
次の(ネモ)さんの発言は、その悔しさがにじみ出ている。彼は「オマケ運動」の中枢から仲間はずれにされ、ごく初期に運動から脱退した人物である。この辺の経緯は後述の「週刊オマケ」に詳しい。

そしてその次のページに、このような出走表が載っている。
産大競馬サラ競特別おまけ賞8頭立て
馬名 きゅう舎 寸評
ミヤジマレンゴ 可愛島 家庭不和がなければ案外…?
ミヨシコークス 京大前 色つや良いが信頼度薄し。
スネカズオー 不死身荘 とてもむり。出走するだけムダ
ホリコシホマレ あやめ池 体力知力気力全ていうことなし。圧倒的本命。ただしライオンが気がかり。
ナカハラボテ 宝塚 最近腹が地面にこすれる。
トヨチチシボリ 富士見荘 かまいたち。上野の五倍!
コシクダケ 伊佐宅 気力充実なるも体力伴わず。見えないスイングが鍵か?
ヤセツダキング 西宮 馬体の衰えが気になる。かいばに問題があるのでは?
記述者はぴんきっしゅくん、堀越一郎。この狂気のオマケレースを競馬に見たて、その覇者を予想する体裁のものである。しかし競馬新聞というよりも、おみくじのような怪しげな節回しだ。寸評は出走馬の当時の状況を端的に表わしていて興味深い。ミヤジマレンゴはパートナーとの関係が如実に言動に現れるタイプ。ミヨシコークスの信頼度の薄さは、彼のマン研急接近への警戒心の表われだろう。この記事の前後にも「三吉SF研除名」の記述がいくつか見うけられる。スネカズオーは問題視されていない。「オマケ運動」から完全に疎外されていたためである。ホリコシホマレは本人が書いているため信頼性に乏しい。ただライオンが気がかりという部分は興味深い。ナカハラボテは運動不足を指摘する内容。トヨチチシボリは、たぶんマン研の上野(かみの)さんに関係する事だろうけど意味不明。コシクダケは節操のない下半身に対する批判。ヤセツダキングは当時患っていた自律神経失調症への気遣いである。

さてここで改めて、オマケさんのことに触れたい。彼女の正体は、マンガ研究会の「山元るり子」さん。マン研の会誌「プロフィール」(昭和51年)によると、
(ペンネーム)拓馬るい(本名・山元るり子)
京都生まれの京都育ち。京都産業大学外国語学部英米語学科。昭和33年1月28日生まれの水瓶座・金星六白・戌年。
身長156センチ体重50キロぐらい(にしておく)。上から順に57センチ、1.0と1.5、23.5〜23.0センチ。
なんでオマケさんと呼ぶかというと、新入生の頃、マン研の豊島のあとをおまけのようにぽつんとついて歩くところをよく目撃されたことから。同年代のマン研の女子の中では、むしろ目立たないおとなしい部類の存在だった。
しかし彼女のある種のセンスが、SF研の何かに重大な影響を与えてしまった。もともとSF研は、オピニオンリーダー的な(つまり時代や社会に対しておっちょこちょいな)個性の集団であった。時は70年代の終盤、価値観の多様化へと向かう時代性が、このセンシティブなマイノリティに新たなマドンナ性の獲得を促したのかもしれない(どういう意味や?)。
もちろんSF研のすべてがこの現象に同調したわけではない。一方ではこれらシンパに対する反発、さらには明確に不快感を示す流れも確かに存在した。これについては後で述べることになる。

次にこの現象を初めてブームとして捉えた記事が登場する。正確な日付はわからないが前後の記事の関係から、'77年6月末であろうと推測されるのだ。記述者はまたしても三吉健一。その全文を紹介しよう。
オマケさんブーム!!
最近SF研部員間で異常な動きが見られる。
調査によるとこの中心はマン研の2回生女子部員でオマケさんというニックネームで親しまれている山元るり子さんである事が判った。
中には年も忘れて熱狂するOBや、立場を忘れて騒いでいる人間もいる。各々が、あわよくば…と暗躍しているが、この点、色の黒さで定評のあるM氏が有力であるとされている。これに対してI氏は暑い日中、ガードマンをして色を黒くするなどの努力をしているという。
さっそく、このブームに目をつけた東芝EMIでは"オマケ、その世界"と銘うったLPを8月中旬に発売するし、又、ネモフィルムセンターはオマケさんパネルをまず3種発売する事に決定しているという。
この夏のポストタワダはオマケさんだとH氏は豪語するのも当然かもしれない。
ま、三吉健一の牽制球であるが、本気がはっきり見えているのでシャレになっていない。さらに相次ぐ強気の発言は、騒ぎの裏での根回しを感じさせるものがある。この時点で「オマケ運動」の行き着く先がおおむね見えていたのだと考えていいだろう。この記事の一週間後、「週刊オマケ」が創刊される。

ところでポストタワダのタワダさんとは、当時法学部2回生だった多和田暁美さんのことで、SF研にほんの少しだけ在籍した人。記録映画「実録SF研」にその後ろ姿を一瞬見ることができる。以下は、かのゴシップ誌「MEZ4号」(昭和51年11月10日発行)の記事。

新入会員紹介
多和田暁美さん/法学二回生
★堀越さん、彼女には好きな人がいるそうです。
もちろんH氏とは堀越さんのこと。彼の気持ちが多和田さんからオマケさんに移ったことがよく分かる。まったく気の多い人である。


■「週刊オマケ」誕生
昭和52年7月5日、オマケブームはその頂点に達する。「週刊オマケ」の創刊である。発行人はダブルケンイチこと、伊佐研一と三吉健一。「オマケさん公認」というのがうたい文句である。
これに先立つ5月20日、「オマケさんとお茶を飲む会(以下通例に従って「オマ茶会」と略)」と称する一派が、オマケさんを主賓に招き、その第一回会合をもった。「週刊オマケ」ではその記事で、この「オマ茶会」の発足をもって「オマケ運動」の発端としている。 「オマ茶会」は当初、ネモ宮原と伊佐研一の二人で発足。直後にムパと三吉健一が加わる。ところが第一回会合においてすでに策が弄され、ムパ及びネモが会合より外された。設立メンバーであったネモ宮原は、この出来事によって早々と会を去る。陰謀と策略、謀殺の渦巻く「オマ茶会」の血塗られた歴史は、このようにして始まったのである。

「週刊オマケ」は「オマ茶会」唯一の会報であるとともに、その活動を伝える対外的な広報誌でもある。本誌は大きく分けて3つのブロックからなっている。
まず「素晴らしきオマケスト達へ−オマケ党誕生とその周辺−」。これはおまけ運動の勃興と変遷をつづった記事で、37もの注釈が添えられている。しかしまあ、あまり意味のある内容が述べられているわけではないので驚く事はない。 次に「オマケさんに10の質問」。インタビュー記事である。好きなものとか寝る時何を着るかといった他愛のないものであるが、わずかながらひととなりを彷彿とさせるものがないわけではない(どっちや?)。 3つめは「オマケさん、独り言(先週の日記から)」。これは6月24日から29日までの出来事がおまけさんの日記の体裁で書かれている。が、「この記事のみ公認なるも非公認」の但し書きが示すように、おそらくは三吉健一の創作である。しかもここで描かれているのは、「オマケさんに10の質問」で垣間見れるオマケさん像とはまったく別のキャラクターに思える。もしオマケさん本人が、ここに描かれているような人物であるならば、オマケ運動なるものは生まれなかったのではないだろうか。この記事の意図がわからない。

そのわずか1週間後、「週刊オマケ」2号が発行された。「続オマケさんに10の質問」「オマケさんのある一日(イラスト付)」「京都チョコパフェ食べある記」。創刊号に掲載された予告編どおりである。ただし予告にあった付録の「ジャンボピンナップ」はない。その他、「オマケバッジプレゼント」や「オマケスト度テスト」などの記事がある。ここでオマケとして「オマケスト度テスト」を転載しておく。往年のオマケスト諸君は試されるとよい。

<第一回オマケスト度テスト>

あなたは真のオマケストか?
(問題1)オマケさんのもうひとつのあだ名を、知っていますか?
     1:おさげコンコン
     2:恐怖のおしり
     3:チョメ子ちゃん
(問題2)オマケさんのお父さんのお仕事は?
     1:必殺電気工事人
     2:道路のガードマン
     3:地方公務員
(問題3)外人に「京都ロイヤルホテルはどこですか」
     と聞かれた時、オマケさんはどうしました。
     1:英語でペラペラと答えた。
     2:泣いて走り帰った。
     3:隣の友達がスラリと答えた。
(問題4)オマケさんが、マン研に入った時、どう感じたでしょう。
     1:完全なアホの集団
     2:完全なバケモノ集団
     3:かしこそうな人達のあつまり
(問題5)オマケさんの必殺技は?
     1:必殺オサゲ・パンチ
     2:チョメチョメ・キック
     3:オマケ・ウインク

正解:2・1・3・3・1
評価:正解数0〜2問の人、あなたはもうニイストに転向する以外、
   道はありません。
   3〜4問の人、もう一息の努力です。ツイストでも踊って
   がんばれ!
   全問正解の人、スバラシイ、でもあなたホントのテストの方、
   だいじょうぶですか?

さてこのような「週刊オマケ」2号だが、もはや創刊時のインパクトはない。それを裏付けるように「週刊オマケ」は創刊2号までで、3号はついに発行されなかった。それは当初からの予定であったと思われる。確信犯である。
「週刊オマケ」は当時四回生だった伊佐研一氏の、就職活動のストレスから生まれた私生児だった。以前ほどクラブに顔を出さなくなった氏が、密かに企む手頃な遊びであったのだろう。現に「週刊オマケ」には伊佐さんが「OZ」で培ったガリグラフィの技術がいかんなく発揮されている。
今回の企画を立ち上げるにあたって、筆者は伊佐さんに電話インタビューを試み、手記を依頼した。ところが彼の口は意外に重く、たった一言「消し去りたい過去の一つね」 とのコメントを得ただけだった。
いずれにしろ当時、伊佐さんは創刊号の記事の中でオマケ運動を過去の出来事としてとらえている。つまりオマケ運動は「週刊オマケ」創刊をもってそのピークを迎え、同時に事実上終結したと考えられるのである。
こうして運動の中心からまた主要人物が一人去り、あとには三吉健一だけが残ることになるのである。


■アンチ「オマケ運動」
さてこのようにSF研を席巻したオマケ運動ではあったが、必ずしも諸手をあげて歓迎されたわけではなかった。寝首をかかれたもの、疎外されたもの、同調できなかったもの…。それぞれの理由から、アンチ「オマケ運動」というべき存在が少数ではあるものの一方にあったのである。
筆者はまず、運動の中心人物でありながらそのピークにおいて「オマ茶会」を脱退せざるを得なかった、ネモ宮原氏に電話インタビューを試みた。計画的にネモ氏ムパ氏を除外した、第1回オマ茶会の真相である。しかしその回答は、意外にも次のようなものだったのである。
「ああ、あれねえ。古い話だねえ。まあ、三吉君がオマケさんにちょっかいを出して、オマケさんは当時アイドルみたいな存在で、別に惚れてたとかいう話じゃないけども、ぬけがけされるとまあおもしろくないというか。あんまりよく覚えてないし、よく考えれば思い出すかもしれないけど、別に考えたくもないわけで。まあ、逆の立場なら俺もそうしたかなあと、いまでは思えるんであって…それより和也、仕事してんのか?」(大きなお世話だ
倉本聡のドラマの台詞みたいなコメントである。結局、古い話なのだ。生存者の記憶もあいまいである。時はすべてを押し流し、すべてを風化させる。怒りさえも。(こらこら、戦争ドキュメンタリーやないちゅうの^^;)

かくゆう筆者は疎外されたくちである。このような運動が進んでいる事を、間際になるまで知らされていなかった。このような催し物には必ずお声がかかっていたのに、蚊帳の外であった。それは当時隆盛を誇っていた筆者発行のゴシップ誌「MEZ」への対抗意識が、オマ茶会一派にあったのかもしれない。事実、ゴシップ誌であるはずの「MEZ」に、格好のネタであるはずのオマケ運動の記事がどこにもない。どういう事や。
前述の「クラブノート3」に次のような記載がある。
「週刊オマケ」しょせん「MEZ」の敵ではない。
中道革新のやることはまあこの程度だろう。

乗りおくれの和也

(自分のペンで書いたのじゃ、わーいわーい。)

むさ苦しい文章で申し訳ない。筆者の書いたものである。日付の記載はないが前後の関係から7月6日と思われる。「週刊オマケ」発行直後である。中道革新というのは、当時伊佐さんが提唱していた「SF研の在り方」を表わしたもので、それに対し筆者は過激派を名乗っていた。具体的にどういうものであったか、両者とも今となってはさっぱりわからない。まあ真っ向から対立していた関係に「週刊オマケ」が 油を注いだ形であろう。文末カッコ内の「自分のペンで書いたのじゃ、わーいわーい。」は、前ページの三吉健一によるアニメ上映会レポートの一文「オマケさんのペンで書いたのじゃ、わーいわーい」と対をなす。(とほほ)

これ以後、クラブノートからはオマケ運動に関する記述がパッタリ途絶える。次に関連記事が出るのは、なんと12月2日。署名がないので誰が書いたものかは断言できないが、筆跡からすると野崎満康(現・大石)と思われる。彼は5月30日に書いた自分のコメントの下に、後日、つまり12月2日に次のように書き足している。
(前略)ところで、上の文を書いた当時、オマケ旋風なるものが、起こりはじめていたのには、おどろいた。信じられない気持である。のちに"週刊オマケ"なるものが発行されたのも、今になるまでまったく、知らされていなかった。もうSF研では古いいにしえの事件なんだろう。そういえば、夏休み前になんか「オマケさん、オマケさん」って口々に口走っていたなあ。それにしてもSF研、っていうのは、籠の中の小鳥なみだなあ。(中略)でも、SF研の人達も暇をもてあましてたんでしょう。
とまあ、かなり厳しい。同じ筆跡で別のページに「女なくして何のクラブぞ!」という記述があり、本人もその自己矛盾に気づいていない節があるが、少なくとも「オマケ旋風」に関して否定的な見解を持っていたことがわかるのである。 次にオマケさんの名前が出るのは、12月6日の伊佐さんの記述。しかもそれは「オマケさんや小畑さん」とか「トヨシマにライオンさんにオマケさんが」といった、ただ単なる名前であって、以前のような熱のこもったメッセージはない。これはオマケ運動が終息していることを示している。

オマケ運動に関する最後の記述は、翌78年5月3日。運動が始まってからほぼ1年が経過している。伊佐さんは卒業し、筆者は4回生で隠居の身分。クラブノートの書き手も次世代の人達に移っている。
前の部分読んだ感想。「な〜にが、おまけさんだ!!誰が何と言おうと我最愛の妻の方がよいのじゃ!!」これ以上書いたら除名されるのでもうやめる。
ここにも署名がないので確かなことは言えないが、字の汚さや「2サイクルさま4サイクルさま」の記述が延延と続くことから、ひょっとしたら竹谷清史かもしれない。しかし竹谷が学生結婚していたという話は聞かないし、我最愛の妻が誰のことなのかさっぱり判らない。
ただ除名されるというのは、オマケ運動後、三吉健一がSF研からいびり出されたことを指すのではないかと思われる。この事実が彼らに少なからぬ動揺を与え、オマケ運動をタブー視する傾向があったとすれば、その後の運動の急速な衰退を説明できるかもしれない。

結局「オマケ運動」は春から夏にかけての流行り病だった。SF研はクラブとしての活動の最盛期を終え、拡散と浸透と衰退を見せていた。各派閥が生まれ、対立することによって新しい盛り上がりをもたらそうとしたのかもしれない。また単なる暇つぶしであったのかもしれない。キャストは、大部分のおっちょこちょいと「一人の本気太郎(伊佐氏談)」であった。
運動は明らかに一つの、あるいは二つの結果をもたらした。しかしそれはここで述べられるべきものではない。


■付表/オマケ運動と社会の動き
オマケ運動関連 社会の動向
76年5月/村上喜啓氏「オマケさんが一番かわいい」発言 76年5月8日/歌手の克美茂逮捕
77年5月20日/「第一回オマケさんとお茶を飲む会」開催。その後、「連れ込み下宿の怪」「第二回オマ茶会」「54番を追え・タクシー事件」「37番を追え・続タクシー事件」「河原町の乱痴」「河原町の乱痴パート2」等の関連事件が続発 77年5月/鴨川つばめ「マカロニほうれん荘」連載
6月20日/「中原則彦泣く事件」オマケ運動SF研制覇 6月21日/キャンディーズ「暑中お見舞い申し上げます」発売
7月5日/「週刊オマケ」創刊 7月17日/キャンディーズ引退宣言
12月2日/アンチオマケ運動発言 12月5日/ピンクレディ「UFO」発売
78年5月3日/オマケ運動関連最後の記事 78年5月11日/歌手の安西マリア失踪

<了>