劉以鬯掌篇集より〜
「蜘蛛の精」
渡辺直人/訳


 蜘蛛(くも)の精は裸で水の中から這(は)い出てきた。彼女の六匹の妹分たちも裸で水の中から這い出してきた。彼女たちの衣服はどこにも見えなかった。彼女たちの衣服は孫悟空(そんごくう)に盗まれてしまったのだ。つるつるのお尻で荒野を駆(か)け回らなければならないことに、彼女たちは狼狽(ろうばい)していた。彼女たちの脚は回転する車輪のように速く、驚きの中に狂喜が有った。盤絲洞(ばんしどう)に帰る途中、乱れた足音とグェグェというばか笑いの声がゴチャ混ぜになって響いていた。この日発生した出来事はすべて今までになかった事なので、彼女たちは口に出せないほど興奮していた。洞に入って、洞の門を閉じてはじめて気分を変えることができた。依然として事情は予想外のものであったとはいえ、すでに洞に帰り、心情は先ほどのように慌(あわ)ただしいものではなくなっていた。一匹の小妖怪が言った。「あの匂いは猪八戒(ちょはっかい)。魚に変じて、真っ先にあたしの太股の間を泳ぎ去った」別の小妖怪が言った。「すぐにあの唐の坊主を蒸(む)して食おう!」蜘蛛の精が言う。「慌てるな。あれは十世修行した真体だぞ。蒸す前に別の使い道がある。」小妖怪たちはいっせいに聞いた。「どんな使い道ですか?」蜘蛛の精は答えなかった。小妖怪たちは皆不老長寿を思い浮かべたが、蜘蛛の精は別の欲望を持っていた。蜘蛛の精は山の洞の中をしなやかに進み、梁(はり)の上から吊(つ)るされた唐僧(とうそう)が経(きょう)を念(ねん)じたままなのを見て取った。唐僧は蜘蛛の精が裸なのを見て、慌てて眼を閉じた。阿弥陀仏阿弥陀仏阿弥陀仏阿弥陀仏阿弥陀仏阿弥陀仏阿弥陀仏…。蜘蛛の精は唐僧を下に降ろした。縄を弛(ゆる)める。唐僧はこの時離れられると思って、慌てて逃げ出した。蜘蛛の精は腹を反らすと、腹から糸を吐き出して投げつけ、唐僧の手を縛(しば)り上げてしまった。唐僧は全身を震わせ、額から珠のような汗を流した。悟空おまえはこの中の何処かにいるのに何故私を助けに来ないのか猪八戒、沙悟浄(さごじょう)おまえたちはこの中の何処かにいるのに何故私を助けに来ないのか蜘蛛の精の体からは特殊な誘惑力を持った香りがしていて、眼を閉じた三藏はその香りが鼻孔に進入して来るのを拒絶することが出来なかった。眼を閉じた唐僧は心はあわてふためき、意識は乱れていたが、ただ叫びはしなかった。悟空何処(いずこ)にいるまるで酒瓶(さかがめ)が割れたように香りが鼻を刺した。薄暗い盤絲洞に妖気がたちこめてきた。唐僧は眼を開けて見る勇気はなかったが、滑(なめ)らかな指が頬(ほお)を愛撫するのを感じた。彼女は妖怪彼女は美女ではなく妖怪の化けた美女即座に深い印象が刻み込まれる…宝石のようにきらめく眼。白く透き通ったまるで蓮の花びらのような皮膚。彼女は確かに大変美しい。笑うとえくぼが出来る。見なくてもいい絶対に彼女を見なくてもいい…よく香る…これはとても奇妙な香りだ…彼女の体から発散している彼女の口は彼の耳のすぐ近くにあった。彼女の口から洩れた吐息が馨しい蘭の香りを放っていた。阿弥陀仏「眼を開けてあたしを見て。よく見て。あなたを喜ばせてあげられるわ。きっとよ。」駄目だ彼女は絶対駄目だ阿弥陀仏阿弥陀仏阿弥陀仏柔らかい唇が頬の上に押しつけられた。頬に手で掻きたいようなくすぐったさを覚える。あぁ、どうしてこの様なことで私の心臓が速く打ち出したりするのだ阿弥陀仏阿弥陀仏阿弥陀仏大変だ鼓動が更に速くなってゆくどくどくどく…まるで太鼓を打つようだ阿弥陀仏阿弥陀仏阿弥陀仏「和尚(おしょう)さん、眼を開いて、あたしを見て!」駄目だ彼女は絶対駄目だ彼女は妖怪彼女は美女ではなく妖怪の化けた美女彼女は本当の美女じゃない彼女は妖かし彼女は女性じゃない彼女は人じゃない唇が重なった。大慌てで頭を反対側に捻(ひね)る。後ろ手に縛られていてはどうすることも出来ない。心は麻のように乱れた。阿弥陀仏阿弥陀仏悟空いったい何処に居るんだ何故まだ私を助けに来ないんだ阿弥陀仏どうしてこんな香りがああ阿弥陀仏彼女は妖怪の化けた美女であることを私は知っている「あたしを見て!よぉーく見て!」彼女の笑い声は眼を閉じた私の脳裏にとても美しい姿で現れた阿弥陀仏阿弥陀仏阿弥陀仏柔らかい腕がぎゅっと鉄の箍(たが)の様に締める。唐僧はすでにその鉄の箍に捕まっている。恐怖を克服する方法はなかった。おののきが彼に汗を流させた。たまらない彼女の手が…「和尚さん、あなたを喜ばせてあげるわ」彼女は私の肉を食べようと思っている私の肉を食べれば不老長寿になれるからだまた唇が押しつけられた。しまった彼女の手が…阿弥陀仏阿弥陀仏どうしてこんな事が阿弥陀仏阿弥陀仏彼女の手が私の袈裟(けさ)に伸びてきた阿弥陀仏阿弥陀仏悟空何故まだ私を助けに来ないんだ唐僧の手は縛り上げられていた。唐僧の脚はまだ縛り上げられていない。必ずしも盤絲洞から逃げ出せるとは言えないが、蜘蛛の精がまとわりつくのを避けることぐらいは出来る筈だ。彼は立ち上がり、大股で歩こうとしたが、すぐに座り込んでしまった。どうしてこんな事が…私は何故…彼女はまるで藤のつるのように彼をぐるぐる巻にしてしまった。阿弥陀仏私は動揺した阿弥陀仏彼女は妖怪阿弥陀仏彼女は私を食べようとしている阿弥陀仏私はどうして動揺したのだ彼は体を転がして彼女の体を探る手から逃れようとした。どうして彼女はその事を知ることが出来たのだこの事だけは彼女も知ることは不可能な筈なのに腰を曲げ背中を丸める。膝を胸につける。阿弥陀仏この香りは私を我慢できなくさせる阿弥陀仏彼女を見てはいけない彼女のことを考えてはいけない阿弥陀仏彼女のことを考えてはいけない彼女を見てはいけない阿弥陀仏指は悪戯(いたずら)に夢中になっている十の腕白(わんぱく)坊主のようだった。だが蜘蛛の精は腕白坊主ではない。蜘蛛の精は妖怪だ。妖怪は欲している。彼女は六匹の小妖怪とは違う。小妖怪たちはただ不老長寿の事を考えているだけだ。蜘蛛の精の欲望はもっと大きい。蜘蛛の精は長寿だけでなく、さらに天に昇って神仙に成る事を考えているのだ。唐僧の肉を食べれば不老長寿を得ることが出来るが、唐僧の精液を食べれば神仙に成れるのだ。蜘蛛の精の野心は、むろんそうなれば六匹の妹分と比べてはるかに多くを得るわけだ。阿弥陀仏阿弥陀仏阿弥陀仏「和尚さん、あなたの頭の髪の毛は剃ってしまったのね。下の方はどうかしら?剃っているのいないの?あたしに触らせてね,」あぁこんな聞くに堪(た)えない話をすることが出来るなんて彼女はまったく差恥心というものを持っていないんだ阿弥陀仏彼女はなんて軽はずみなんだ阿弥陀仏「和尚さん、皆は、あなたが十世修行した真体で、あなたの肉を食べれば不老長寿に成れるって言ってるわ。あなたの精を食べれば神仙に成れるかしら?」阿弥陀仏「たとえあたしが天に昇って神仙に成ったとしても、あなたを生かしておいてあげるわよ和尚ちゃん」阿弥陀仏阿弥陀仏「来て、和尚さん!あたしがあなたに手解きしてあげるわ」阿弥陀仏阿弥陀仏阿弥陀仏力を尽くして自己を制御し、唐僧は自我の観念が消え去る境界に達することを望んだ。敬虔(けいけん)に仏に向かっても、すでにどうしようもなくなっていた。体の誘惑に抵抗しようと思って、ただ眼をぎゅっとつぶっているだけだった。眼をぎゅっと閉じていても、そのすべすべした体は脳裏に浮かんできた。これは抵抗。これは格闘。香りは絶え間なく鼻孔に進入してくる。滑らかな指が下腹部で踊っている。戦況は激烈だった。西方へ経典を取りに行く和尚は、過去にこの様な経験をしたことがなかった。和尚の心はもつれた糸のようだった。無形の防御はすでに効果を失っていた。責める者の方は猛攻だった。守る者の方は慌てふためいていた。悟空何故まだ来ないのだ八戒何故まだ来ないのだ悟浄何故まだ来ないのだおまえたちは師匠が不要になったのか?…湯気は石の割れ目から来ていた。かすかに滝のような音が聞こえてきた。大変だ彼女たちは湯を沸かし終わった湯は十世修行の体を沸騰させるだろう。グラグラと煮立った音は彼の耳を刺し心を刺した。悟空来なければ私はもう生きてはいられない湯の沸く音は更に大きく響き。湯気は更に濃くなる。彼女たちは煮えたぎった湯で私を蒸すのだ珠のような汗がぽたぽたと落ちる。私は死んでしまう考えれば考えるほど慌てふためいて、心は刀の紋のように波打っていた。本当に嫌(いや)なら何故彼女の手にまさぐらせたままにしておくのか。激しい声で叱りつけると蜘蛛の精は驚いてその嫌な手を引っ込めた。私は邪悪に勝った唐僧は早まった結論を下した。蜘蛛の精はすでに彼の袈裟を解いていた。差恥は覆いを取り去られた。和尚の身体は妖怪の野心を孕(はら)み育てていた。終わった終わったすべてが終わった阿弥陀仏罪悪だ罪悪だ阿弥陀仏こうなってしまったからには夢の中であっても罪悪だ悟空おまえは何処にいる八戒、悟浄おまえたちは何処にいるおまえたちに私は不要なのかおまえたちは何故私を助けに来ないのだ妖怪の口はまるで啄木鳥(きつつき)の嘴(はし)のようだ。和尚の身体はまるで木の幹のようだ。和尚は叫んだ。洞の壁はこだませず恫喝(どうかつ)を阻止(そし)した。蜘蛛の精の笑い声は一斉に発射された矢のようだった。阿弥陀仏阿弥陀仏阿弥陀仏阿弥陀仏阿弥陀仏常軌(じょうき)を逸(いっ)した動き。唐僧は狂ったように叫んだ。終わった秘密の覆いは突然取り去られた。持っていた防御はすべて消え去った。これは唐僧が仏に背(そむ)いたのか、それとも仏が唐僧に背いたのか?唐僧は、眼を開けてこの美しい妖怪を子細(しさい)に見てみようと心を決めた。この最後の時までに何度でも見る機会があったのにどうして見なかったのか唐僧は急いで眼を開いて今まで見ていなかった部分を見た。くたばれ!どうして私は…
(了)




劉以鬯掌篇集より〜
「間違い」
渡辺直人/訳


(一)

 電話のベルが鳴った時、陳煕(チェンシー)は床の上に寝そべって天井を見ていた。電話は呉麗嫦(ウーリーチャン)からだった。呉麗嫦は彼と五時半に「利舞台(リーげきじょう)」で映画を見ることを約束した。彼の気分はたちまち奮い立って、敏捷な動作で鬚を剃り、髪をとかし、服を着替えた。服を着替える時には口笛で「勇敢な中国人」を吹いていた。良い服に着替え、クローゼットの前に立ち、鏡の中の自分を見つめて、ブランド物のスポーツウェアを買わなければならないと感じていた。彼は麗嫦を愛していたし、麗嫦も彼を愛していた。仕事を探し出せば、あとは婚姻届を出しに行くことだけだった。彼はアメリカから学位を持って帰ってきたぱかりで、仕事を探すのは運に身を任せるぱかりだ。運が良けりゃ、すぐにそうなるだろう。運が悪けりや、まだ一定の期間を置かなきゃならないだろう。彼はすでに七、八通の応募の手紙を出していたからこの数日のうちに返答がある筈だった。そんなわけで、彼はこの何日かの間街に出かけることもなく家の中でぼんやりと何処かの機構の職員が電話をかけてくるのを待っていた。けれど麗嫦が電話をかけてきて彼と映画を見る約束をしたのだ。彼は行かなければならなかった。今はすでに四時五十分、大急ぎで「利舞台」へ行かなければならない。遅れて行けば麗嫦は怒るだろう。大股で歩いて行って正門を開け、鉄の門を開け、外に出て振り返り、正門と鉄の門を戸締まりし、エレベーターに乗って下へ行き、ビルから出て軽やかな気分でパスストップに向かった。パスストップに着くとすぐにすごいスピードでバスがやって来た。バスはコントロールがきかない状態でバスストップに衝突して、陳煕と老婦人と少女にぶつかって、彼等は肉餅のように礫き潰された。

(二)

 電話のベルが鳴った時、陳煕(チェンシー)は床の上に寝そべって天井を見ていた。電話は呉麗嫦(ウーリーチャン)からだった。呉麗嫦は彼と五時半に「利舞台(リーげきじょう)」で映画を見ることを約束した。彼の気分はたちまち奮い立って、敏捷な動作で鬚を剃り、髪をとかし、服を着替えた。服を着替える時には口笛で「勇敢な中国人」を吹いていた。良い服に着替え、クローゼットの前に立ち、鏡の中の自分を見つめて、ブランド物のスポーツウェアを買わなければならないと感じていた。彼は麗嫦を愛していたし、麗嫦も彼を愛していた。仕事を探し出せば、あとは婚姻届を出しに行くことだけだった。彼はアメリカから学位を持って帰ってきたぱかりで、仕事を探すのは運に身を任せるぱかりだ。運が良けりゃ、すぐにそうなるだろう。運が悪けりや、まだ一定の期間を置かなきゃならないだろう。彼はすでに七、八通の応募の手紙を出していたからこの数日のうちに返答がある筈だった。そんなわけで、彼はこの何日かの間街に出かけることもなく家の中でぼんやりと何処かの機構の職員が電話をかけてくるのを待っていた。けれど麗嫦が電話をかけてきて彼と映画を見る約束をしたのだ。彼は行かなければならなかった。今はすでに四時五十分、大急ぎで「利舞台」へ行かなければならない。遅れて行けば麗嫦は怒るだろう。大股で歩いて行って正門を開け、…
 電話のベルがまた鳴った。
 どこかの機構の職員が電話して来たんだろう。身を翻して、大急ぎで電話を取る。
 受話器からは女性の声が伝わってきた……「伯父さん、聞いて。」
「どなた?」
「伯父さん。」
「そんな人はいません。」
「伯母さんはいませんか?」
「どちらへおかけですか…?」
「三の九七五…」
「あなたは、九龍へかけているつもりですか?」
「そうです」
「間違いです!ここは香港島の中です」
 憤然として受話器を戻す。大股で歩いて行って正門を開け、鉄の門を開け、外に出て振り返り、正門と鉄の門を戸締まりし、エレベーターに乗って下へ行き、ビルから出て軽やかな気分でバスストップに向かった。バスストップまで五十ヤードほどの距離の時、すごいスピードで予想外のバスがやって来て、バスはコントロールがきかない状態でバスストップに衝突した。バスは老婦人と少女にぶつかって、彼等は肉餅のように礫き潰された。

(了)




劉以鬯掌篇集より〜
「天国と地獄」
渡辺直人/訳


おいらは蒼蝿。
 おいらは一ケ月前に生まれた。まあ蒼蝿風に言えば「青年蒼蝿」といったところか。
 おいらはこの一ケ月、不潔で生臭い世界の中で生活していた…ゴミ箱の中で目を覚まし、臭い溝の中で涼み、西瓜の皮と脚の垢を食ベ、埃と熱気を呼吸していた。
 この世界は良い所が無くて、食べ物が見つけにくいばかりでなく、いつ「人」に叩き殺されるかわからない。このような日々においらは不満でいっぱいになっていた。
 でも、蒼蝿の親方はおいらに言った。
「この世界はおまえさんが思い込んでいるほど悪い所じゃない。おまえさんは良い所まで行ったことがないから地獄みたいに思い込んじゃうんだよ。そりゃおまえさんの見聞が広くないからだ。」
 蒼蝿の親方はおいらより二ケ月早く生まれたので、親類と同じと見なして「叔父さん」と呼んでいた。おいらは聞いた。
「叔父さん、まさかこの世界に清潔な場所があるって言うんじゃないでしょうね?」
「清潔かって?」叔父さんは答えた。
「その場所は美味しいものが食べられて、良い眺めで、エアコンまであることを除けば本当の天国さ。おまえさんエアコンて聞いたことあるか?エアコンは人造の春さ。とても涼しい。それがどんなものか考えるだけでも気持ちいいだろう。
「おいらにもそこを見に行けますか?」
「勿論」
 叔父さんはおいらを従えてゴミ箱を飛び出し、ビクトリアロードを飛び過ぎて角を曲がり、高くて大きなビルまで進み、大きなガラスのドアの前で旋回した。
「ここは喫茶店と言うのさ」叔父さんがそう言った。
 喫茶店のドアが開き、冷たい空気が流れ出してきた。若い人がフラフラと入って行くのに従って、飛行機エンジンに引かれるように我々も進入した。
 中に人って叔父さんはおいらに聞いた。
「どうだい?ここはいいだろう?」
 そこは本当に良かった。いい匂いがしている。どこからこんなかぐわしい香りがするのかわからない。男の「人」達は洋装でピンと背を伸ばし、女の「人」達はまるで紋白蝶のように飾り立てていた。各テーブルの上はケーキや飲物や角砂糖がいっぱい置かれていて、清清潔潔で、あまりにも清潔すぎて、おいらは少し怖くなった。
 叔父さんは知らない間に何処かへ行ってしまった。おいらはしかたなく独りで飛んでいって、調味料の容器の底の下へ避難した。

このテーブルには、中年のおばさんである女の「人」と二十歳前後の顔が小さくて白い男の「人」が座っていた。
 女が言う。
「この何日かあんたはいったい何処に雲隠れしていたの?」
 白い顔の男は答える。
「現金が無くなったんでね、ちょいと稼ぎに行ってたのさ。」
「あたしがあんたに食べさせてあげて、服も着させて、住まわせてあげて、毎日小遣い銭をあげているのに、どうしてお金を稼ぎに行かなくちゃならないのよ?」
「もう金が無いんだよ。」
「いくら要るの?」
「三千」
 女はハンドバッグを開き、その中から六枚の五百元札をつかみ出した。
「持ってけ!こんなことは二度と許さないわよ!あたしは今からビクトリアロードで買い物をしようと思っているから、今晩九時に雲華ビルであなたと…あなたって本当に困った人ね。」
 中年のおばさんは、そう言ってお札を小さな白い顔に渡すと声をたてて笑い、立ち上がると腰を振り振り歩み去った。

 おばさんが行ってしまうと、小さな白い顔はすぐに席を換えた。そのテーブルに座っていた女の「人」はとても若く、華やかに着飾っていて、とても美しく、とても人を惑わせた。彼女の頭には一輪のビロードの花が挿されていた。
 おいらはすぐにそのビロードの花の中に飛んでいって盗み聞きをした。
 小さな白い顔が言う。
「媚媚(メイメイ)、今はきみに、この件については何の問題もありはしないってことを信じてもらっていいよ。」
「持ってきて。」
「ぼくの一件に関するきみの答えは?」
「何のこと?」
 小さな白い顔はお金を彼女の手の中へ滑り込ませ、彼女の耳元に口を寄せて、小声で何かボソボソと囁いていたので、おいらにはハッキリとは聞き取れなかったのだけれど、ただ媚媚が愛らしい声で罵るように「くたばっちまえ!」と言ったのが聞こえた。
「いい、それとも駄目?」
「あなたはもう説明したのに、何が駄目なの?あたしはまだここに一人で居るから、あなたは先に行ってて。あたしも一時間以内に急いで追いつくわ。」
「約束違反は無しだよ。」
「あたしがいつあなたとの約束を破ったって言うの?」
 小さな白い顔は立ち去った。
 小さな白い顔が立ち去った後、媚媚はカウンクーに電話をかけに行った。おいらはこれに乗して砂糖入れの容器まで飛んでいって、中の角砂糖を食べた。それから彼女のコーヒーカップの上へ飛んでいってカップの縁の口紅を食べた。
 それは興味深い味だったが、媚媚が席に戻ってきて手でおいらを追い払った。おいらはやむなく壁へ避難した。

 十分後、五十前後の、唐代の絹の衣装を着て胸の前に半月形の金鎖をかけたデブが入ってきた。
デブは皮張りの椅子の上に尻をのせて、媚媚に向かって言った。
「持ってこい。」
 媚媚は持っていた六枚の五百元の札をデブに渡した。デブはつかんだお札を腰の間へ取り込んだ。
「この手の若造をあしらうのはとても簡単だ。」
「彼のお金は別の女を騙して持ってきたものよ。」
「もともとの真(ま)人間にとっては、たとえわしがおまえを騙しても、おまえがわしを騙したとしても、この種の金は、ただちょっとした儲けにはなっても、悪事の元凶にはなりゃしないさ!」
この時、あの中年のおばさんが大小の包を抱えて突然現われ、外から中に入って来た。まるで、小さな白い顔を探し出して言い忘れたことを言いたいみたいな様子だった。けれど小さな白い顔はすでに立ち去っていた。彼女が見つけたのはデブだった。
 デブの前に行き、両手を腰にやって睨みつけ、顔をこわばらせて、黙ったまま銅のベルのように大きく両目をむいた。
 デブは中年のおばさんを見ると慌てて立ち上がった。そして門の辺りで女の「人」をつかまえた時に、おいらはデブの肩まで飛んでいって、こんな対話を聞いた。
「あのすべたは誰よ?」
 デブは満面に笑みをたたえた。
「怒らないでわしの話しを聞けよ。彼女は僑光洋行の支配人夫人で、わしは商売上の取引で縁故者をたどって彼女の手助けをお願いしていたところなんだよ、わかったかい?おまえはこの三千元を持って、先に何でも買いに行っておいで。この件に関しては今晩家に帰ってからもっと詳しい説明をするよ…わしの可愛い奥さん」
 おばさんは札を受け取ってハンドバッグの中にしまい込むと、厳しい声で言った。
「朝食の時に帰るわ!家には誰も居ないもの、あたしは蕭(シャオ)さんの家でマージャンを打ってくるから今晩は帰るのが遅くなるかも知れないわよ。」
 話し終わると、腰を振り振り歩み去った。おいらはすぐにそこを飛び出した。おいらは「天国」の中の「人」は外側は清潔だが、ゴミよりも悪臭を放っていると感じた。おいらはたとえゴミ箱の中の「地獄」の日々に戻らなくてはいけなくても、どんな蒼蝿も皆一刻の間も留まってはいられないほど臭いこの「天国」よりはそちらを選ぶだろう!


(了)




ここにご紹介した3編は同人誌「中国SF資料之六厄斯曼故事」(1995年8月20日発行)に掲載された「劉以鬯掌篇集」4編中より3編を、訳者の許可を得て転載したものです。
同誌によれば、劉以鬯(リウイーチャン)という人は、新聞の編集に携わりながら英米文学の翻訳も手がける、香港在住のベテラン作家ということです。このようなアイデアストーリー風の作品が多く、香港のO・ヘンリーと評されるとか。渡辺さんの「気になる作家」のひとり、ということです。