シリンクス音楽フォーラム 35
Visiting Mongolia

モンゴルの旅

大久保ゆかり


 2000年5月27日(土)、pm2:00 関西空港発ミャット・モンゴル航空904便にてウランバートルへ。スチュワーデスさんの顔がやたらに大きいなあ、と思ったら、モンゴルでは、美人の条件は「顔が大きいこと」だそうです。飛行機の窓から見える景色は、砂漠ばかり。4時間後には、草原と小さな街並が見えてきて。旋回しながら、pm5:25、ウランバートルに到着。

ウランバートルの街並み
 日本の公団にそっくりのツートン・カラーのアパートが立ち並ぶ。
 ゲルとバラック風の木造家屋も混在している。

 通訳のニンジンさん(モンゴル語で、優しいという意)と、世話役のイミナさんが空港まで来て下さり、ピースブリッジホテルへ。
荷物を置いてから、プッチーニの「トスカ」を鑑賞するために、国立歌劇場へ。

 開演はpm6:00の予定なのに、まだ始まっておらず、どうしたのだろうと思っていると、pm7:30、幕が上がって、ロシア風の背景が現れました。神父さまは、なぜか頭も剃っていて、ラマ教の僧侶のようなコスチュームで登場。子どもたちは、いかにも遊牧民といった感じで、カモシカのような足で、野生的なスキップをしながら、軽やかに、ステージの上を走り回っています。言葉は子音や巻き舌が多く、ドイツ語のように聞こえますが、よく考えてみると、どうやらモンゴル語のようです。主役のトスカが現れると、突然、イタリア語で歌い出したのでびっくり。

 第1幕終了後、VIPルームに呼ばれ、劇場長から話を聞くと、社会主義時代では、ロシアのオペラをロシア語で上演することしか許されていなかったが、民主化されてからは、イタリアのオペラも、モンゴル語で上演されるようになったとのこと。今回のトスカ役の女性は、イタリア語の話せる数少ないエリートの一人で、今後、イタリア語の台詞の割合を少しづつ増やしていきたい、というお話しでした。

 どうやら、私たちは、国賓扱いになっているらしく、天皇陛下のために用意したソファーに私たちは腰をかけ、指揮者、監督、歌手の方々とも交流する機会を持つことができました。上演時間も、私たちの到着に合わせて、90分も遅らせたということで、びっくりしてしまいました。

 近代的なオペラ・ハウス
 パルテノン神殿を思わせる白い柱と、サーモン・ピンクの外壁、グレーの屋根が調和し、夕日を浴びて、格調高くそびえ立つ。
 モンゴルのオペラハウスは、1963年に設立され、1999年の改修で、システムも新しくなり、プッチーニやヴェルディのオペラ、チャイコフスキーのバレエなどが連日、上演される。正面のたれ幕には、その日の演目とスターの名前が大きな字で書かれている。
 モンゴル人の作によるオペラ「オルチタイ・ゴルバン・トルゴイ(めぐり逢いの3つの丘)」というラブ・ストーリーは大人気で、上演回数は2800回を超える。歌手では、ソプラノのジャム・ザンドラムが世界的に有名。


 この国立歌劇場は、抑留されていた日本人が1963年に建てたそうで、外観は西洋風ですが、しっかりとした造りになっていて、モンゴルでは、優秀で信頼のできる建物の一つになっているようです。毎週月曜日は、定休日で、火・水・木はバレエ、金・土・日は、オペラというように、毎晩、演目が変わり、モンゴル人のダンサー、音楽家の舞台を鑑賞することができます。低料金で、庶民でも気軽に入れそうで、街の人々や観光客のいこいの場となっています。

 私たちも、このステージでコンサートをさせていただいたのですが、楽屋のインテリアのセンスもよく、ステージにおいてあるピアノはYAMAHAで、きちんと調律されており(それ以外のピアノは、すべて、メンテナンスがなされておらず、音が狂っていましたが)、音響もよく、気持ちよく演奏することができました。私たちは、中田喜直の歌曲や、日本のオペラ「夕鶴」を演奏しましたが、モンゴルの人々には、とてもうけたようでした。観客は、音楽大学の教授、生徒、音楽家ばかりで、かなり緊張しましたが、私たちの演奏をとても気に入って下さいました。

 バレエのガラ・コンサートも見せていただきましたが、人間とは思えないほどの跳躍力と柔軟性に驚いてしまいました。モンゴルにはバレエ学校は、ないそうで、才能のある子どもたちは、7才くらいでロシアのバレエ学校へ留学して、高度な専門教育を受け、プロ・デビューするそうです。私たち日本人が、東京の学校へ進学するような感覚で、モンゴル人は、ロシアやブルガリア、ドイツなどに留学するということです。

 私たちの通訳をして下さった女性は30才で、2人の子どもを女手一つで育てているにもかかわらず、昨年は日本の大学に留学して勉強をし、現在、日本語、英語、韓国語、ロシア語の通訳、ガイドとして活躍されておられますし、私たちの世話役をして下さった女性は、私と同じ12才の息子さんと、国立芸術大学の学長をつとめるご主人がありながら、ロシア、ドイツに留学して、電子工学を学び、現在は、大学教授をしておられます。

 女性の高学歴は当り前で、管理職も、ほとんど女性が配属されています。家事、育児は、両親、夫、兄弟たちのうち、手の空いている者が、自然に協力し合う体制ができており、結婚や出産を理由に、退学、退職する女性は一人もいないそうで、私も、モンゴルへ行ったら、のびのびと生きていけそうだなあ、とこの2人の女性が少しうらやましく感じられました。政治家だけは、どういうわけか男性の方が多いようですが………。


 モンゴルで出会った女性

 ニンジンさん(左):とても2人の子持ちとは見えないスタイル抜群の女性。父はロシア語、母は韓国語の通訳をしていて、語学の才能に恵まれている。日本語は、日本人である私より、はるかにうまい。

 イミナさん(右):司馬遼太郎の「草原の記」で、ツェベクマさんの娘として登場する女性。やさしいお母さん、というふんい気だが、実は、電子工学の教授をしている。


 オペラ座を見て、ホテルに帰ると、エレベーターが動かない、電灯がつかない、おふろの水が出ない……と、次々に問題が。大理石の浴室に、シャンデリア、高級家具、と最高のぜいたくを極めたスィートルームなのに、水道、電気の工事が未完成で、コンセントもなく、電線がむき出しになっています。よく見ると、ドアにも取っ手がまだついておらず、開閉不能。それなのに、なぜかテレビだけは、うつるので不思議です。

 翌日、ホテルを別のところに移りましたが、今度は、電灯が爆発したり、スタンドにさわると、ビリビリと感電したりと、またもや災難がまち受けていました。でも、今度はお湯の出る地域(春先は、工事のため、お湯の出ない地域が多いそうです。)だったので、なんとかシャワーを浴びることができ、ほっとしました。

 草原のゲルにも一泊しましたが、ここが一番、快適でした。はだか電球が一つあるだけですが、スイッチを入れれば必ず点灯しますし、ストーブがあるので夜も暖かく、天窓からは星も見えます。ベッドや机は、赤を基調とし、美しい模様があざやかな色彩で描かれていて、見ているだけでも心がなごみます。やっと、モンゴルへ来たんだ、という実感が湧いてきました。ゲルの中では、ツェベクマさんのお手製の料理をいただきながら、モンゴルの今後について、日本との関係について語り合い、ゆっくり夜がふけていきました。

移動式住居 ゲル
 季節によってかける布を調節したり、天窓を開けるなどして、温度調節も簡単にでき、住み心地は快適。夏は涼しく、冬は暖かい。

 「人の心が、一番大切ですよ。」とつぶやいたツェベクマさんの言葉が、今も、私の胸に残っています。草原で満天に輝く星をながめていると、私たち日本人の失ってしまった大切なものを、取り戻すことができそうな気がしてきました。

 司馬遼太郎の「草原の記」を読んで、ツェベクマさんに会いたい!という気持ちにかられたのが、今回、私がモンゴルへ行こうと思った動機の一つですが、なんと私たちのお世話をして下さったイミナさんは、偶然にも、ツェベクマさんの娘だったのです。

 夕食をごちそうしますから、ぜひ、私の家へ、と招かれ、マンションの2Fのイミナさんの住居におじゃますると、ツェベクマさんが、「いらっしゃいませ」と、ていねいな日本語で迎え入れて下さいました。グリーンのすてきなアンサンブルに身を包み、知性と品の良さを感じさせる、ただものではない、というオーラを発しているおばあちゃんでした。あこがれの人に出会えて、私はうれしくてぼう然としてしまい、ほとんど言葉をかわすことができませんが、モンゴルの外務大臣が務まる、と言われるくらいの判断力、語学力を持っておられる方だなあ、と感じました。

 どんな逆境の中にあっても、常に前向きに希望を持って生きていれば、必ず道は開ける、ということを、彼女の姿を見ていて強く感じました。NHK出版の「星の草原に帰らん」という本に彼女の半生が描かれていますが、そういう苦しみを背負った人間だということは、みじんも感じさせない明るさとおおらかさに胸を打たれました。

 日本で今回の旅行のお世話をして下さった内田さん、本当にありがとうございました。私にとって、旅行の一番の楽しみは、人との出会いです。こんなに素晴らしい方とお会いすることができるなんて、夢のようです。

ツェベクマさん