シリンクス音楽フォーラム 35
Concert on Air

コンサート・オン・エアー(23):
サイモン・ラトル:古楽器奏法への傾斜は20世紀演奏様式の終焉?

高橋 隆幸


 ごく最近、サイモン・ラトルがアバドの後任としてベルリン・フィルの音楽監督に就任し、新しい演奏様式を切り拓く旗手として世界的な注目を集めている。その新しさの一つは古楽器的奏法の積極的採用であろう。モダン楽器の代表格であるベルリン・フィルやウィーン・フィルを相手にしての試みであるので、これはずいぶん思いきった事と言わざるを得ない。昨年10月21日、サントリーホールで行なわれたウィーン・フィルとのコンビによるベートーベンの交響曲第2番と第5番はテレビで生中継されたが、この演奏は私にとって大変なショックであった。新聞等での批評は大変好意的であり、古楽器的要素の導入に対しての疑問や否定的な意見は一つもなかったと記憶している。

 何がショックであったかといえば、ラトルの演奏は20世紀の演奏形式の流れ、すなわちトスカニーニ、フルトヴェングラー、カラヤン、アバドと受け継がれ、変遷し尽してきた様式をさらに継続、発展させるものはもう何もないと告げているという事である。別の言い方をすれば演奏スタイル、あるいは楽曲の解釈と言うものは既にやり尽くされ、これからはこれくらい思いきった事をやらないとクラシック音楽の未来はない、すなわちクラシック音楽の将来性について一種の危機感を感じた次第である。

 あの保守的なウィーン・フィルが古楽器的奏法を受け入れているのはこの危機感から来る一種の企業努力と解釈できない事もない。それにしても日本の音楽評論家の呑気で楽天的なこと、彼らはクラシック音楽の永遠性を信じて疑わないのであろうか。さて、ラトルのこの新しい試みはクラシック音楽の救世主となるのか、やり尽くされて行き詰まった演奏という再現芸術の最後の輝きであるのか、ラトルの幾つかの演奏を聴きながら考えてみたい。

 古楽器(あるいはオリジナル楽器)による演奏の目的は何であろう。当初はある曲を作曲された時代の楽器で、その当時の演奏様式で再現してみよう、という原典主義が出発点であったと思われる。しかしその後の意外(?)な隆盛は単なる原典主義ではなく、新しい演奏様式の発掘、開拓という様相を呈している事は言うまでもない。一口に古楽器による演奏形式と言っても様々で演奏団体によってかなり異なる。私はこの分野に全く不案内なので間違っているかもしれないが、古楽器による演奏の特徴を列挙してみると次のようになる。

(1)ノンレガートの速いキビキビしたテンポ
(2)ノンヴィブラート奏法
(3)純正調を目指した音程(弦楽器)
(4)ガット弦による柔らかい響き(オーケストラ等、集団の場合はかえって金属的に聞こえる)
(5)管楽器の素朴でひなびた音、音程はやや下がり気味となる
(6)オーケストラの場合、管楽器、打楽器の比重の増加
(7)弦楽器のしなやかさを強調したなよなよとしたリズム感。

 最近は(1)が主流になりつつあるように思える。おおざっぱに総体としての印象をまとめると、明るく快活、小型、軽量化、低カロリーと言ったところである。これは深刻さ、内面性、音の持つドラマ性、壮大さなど、近代オーケストラが目指してきたものとは正反対と言っても良いくらいの違いである。ラトルが採用している古楽器的奏法は(1)、(2)、(6)のように思われる。ウィーン・フィルやベルリン・フィルのバイオリンの響きがガット弦のように聞こえるのは何故なのであろう。

 アバドも数年前のバッハのロ短調ミサの演奏(ベルリン・フィル)でこのような響きを聞かせたのを記憶している。恐らく、ノン・ヴィブラートで、ボーイングの圧力を下げる事によって得られるのであろう。その分速いパッセージの演奏が容易となり、テンポの速い演奏に対応可能となり、また総体的に管楽器の音量の比重が増加するものと想像される。ラトルの演奏で一番印象にのこったのは妖精のような軽やかなテンポ、基本的にはイン・テンポであるが、自在に伸び縮みするリズム、上品で清潔でやや短めのフレージングといったところである。カラヤン時代のオーケストラをフルに鳴らすという志向はなく、変な例えであるが、極上の低カロリー食を食べさせられていると言う印象である。

 ラトルが古楽器的奏法をどの曲にも取り入れようとしているかと言えばそうではない。今まで私が聞いた限りでは、先に述べたウィーン・フィルとのベートーベンの交響曲第2、第5番、第8番(2002.5.7、ウィーン・ムジークフェライン大ホール)第6番(同)、バッハのヨハネ受難曲(2002.2.20、ベルリン・フィルハーモニーホール)である。このうち古楽器的奏法が最も徹底し、新しいスタイルを生み出したという点で成功しているのはベートーベンの2番と5番である。これは別の言い方をすれば高度の玄人向けの演奏であり、東京の聴衆が選ばれたのは名誉な事かもしれないし、逆にウィーンでは物議をかもすかもしれないので東京が無難とみなされたのかもしれない。要するに古楽的手法に関してはラトルは発展途上、あるいは試行錯誤の段階なのであろう。

 同じウィーン・フィルを相手にした場合でもシューベルトの交響曲第8番(あの大ハ長調、2002.1.29、ザルツブルグ音楽祭)やモーツァルトのピアノ協奏曲第25番 K503(独奏はブレンデル、2002.1.29、同)では全くのモダン楽器の奏法である。当然のことながらマーラーの交響曲第5番も同様である(ベルリン・フィル、2002.9.7、ベルリン・フィルハーモニーホール)。このうちシューベルトの交響曲は全くすばらしい演奏である。フルトヴェングラーやカール・ベーム以来の名演といっても過言ではない。しかもそれでいてドイツ・オーストラリア系の様式とはずいぶん異なった雰囲気を持っている。テンポはそう速くないが、妖精のような美しさ、品のよさを持ったメルヒェン的な音楽なのである。

 ここに来て私はラトルがイギリスの出身である事をどうしても感じてしまう。吉田秀和氏はかつて出身国による演奏様式の違いを論じる事の愚を書いておられたが、私は出身母体と言うものは無視する事は出来ないのではないかと思っている。と言うより、やり尽くされ、新しい様式を生み出せない場合には別の文化圏からの新しい血の注入が必要なのではないか。こう考えて見るとウィーンの国立歌劇場が音楽監督に小澤征爾を迎えたのもあるいはこういった意図があったのではないかと勘ぐってしまう。

 以上、サイモン・ラトルが新しい魅力的な演奏様式を打ちたて、クラシック音楽の存続、繁栄の立役者になるためには二つの道があると考えられる。一つは古楽器奏法およびその精神を利用する事、もう一つはおのずから備わっている、出身母体の文化的土壌である。現在のラトルはこの二つの間で揺れ動いているかに見えるが、私は後者とあの彼の並外れた能力で十分魅力ある様式を打ち立て、発展させられるのではないかと考えている。