シリンクス音楽フォーラム 35
Review Performance
油井 康修

ファジル・サイ、天才!?


ファジル・サイ ピアノ・リサイタル

2002年6月19日
長野県民文化会館
スカルラッティ:ソナタ ヘ長調 K.378、ニ短調 K.1、ハ長調 K.159
J.S.バッハ:イタリア風協奏曲 ヘ長調 BWV971、前奏曲とフーガ イ短調 BWV543(リスト編)
モーツァルト:ピアノ・ソナタ 第11番 イ長調 K.331
リスト:ピアノ・ソナタ ロ短調

 6月はここ長野でものっけから五嶋みどりのヴァイオリンを聴き、そして今度はファジル・サイと、なかなか聴き応えのある演奏会が続く。で、取り上げるのはファジル・サイの方、1970年トルコ出身のピアニスト、アジアでも中国や韓国などといった所からは次々と新しい演奏家が誕生しているけれど、トルコというのはそれほど聞かない。

 彼のことは吉田秀和氏がどこかで書いていて、随分あきれたり驚いたりしていたのを読んでいるうちに、とにかく聴いてみたくなり買って来たのがモーツァルトばかりを弾いているCDだ。最初に聴いたのが一番目に入っているピアノ・ソナタ変ロ長調K.333、今まさしく私の練習中の曲で、これは興味津々。ウーン、なるほどあきれるやら驚くやらする訳だ。多分様式的には幾分問題がある弾き方だろうと思う。かなり変だなあと思われる所もある。しかし、だ。いやはや面白いの一語。

 第一楽章について見てみよう。まずこの曲のテンポが問題だ。速度記号はAllegro。もっともこれは速度記号というより表現記号という解釈もあるだろう。快活に、と解釈すると矢張りかなりの遠さで弾くことになろうか。古典的なギーゼキングでも新しいところで評価の高い内田光子でも速いというのはこのぐらいかというテンポだ。ただし内田光子のこの楽章に関しては、ちょっとそっけなさ過ぎる演奏という気がする。彼女の他のモーツァルトに見られるような面白さ、というか彼女らしい自己主張が感じられない。

 グレン・グールドのものは彼の独特の解釈に基づく演奏だが、あまりに速すぎる。アリシア・デ・ラローチャはもう少し柔軟なテンポで、味わいのある演奏になっていると思う。そもそも第一楽章は曲のテンポが問題だと言ったのは、この曲の第三楽章がカデンツァ、コーダ付きのすこぶる立派な曲で、それを特に念頭に置いて第一楽章のテンポ設定(そして表現)があるだろうと思うからだ。

 一番ゆっくりしたテンポで弾いているのはフリードリヒ・グルダ、もうアレグレットかモデラートかというくらい。それにグルダは他のモーツァルトでもそうだがいかにもつまらなそうに弾いているにもかかわらず、この演奏が一番面白い。何が面白いと言って、実によくピアノが鳴っている。前にも書いたように思うが、これまで聴いたピアニストでグルダほどよくピアノを鳴らせる人はいない。何と苦もなく弾けるのか、ピアノ自身が自分で鳴り出すという表現は余りうまい言い方でもないが、まあそんな感じか。その意味ではグルダはことさら曲を解釈して「わたしはこうだ」とかまえて弾いているようには聞こえない。それともこういおうか、グルダだってさまざまに解釈はしている、その解釈とピアノを弾くことの間に何の躊躇もない、

 と。さてだいぶ脱線した様だが、ファジル・サイはどうか。彼のテンポは速い。しかし、である。喜々として速いのだ。表現記号としてのAllegroにぴったりだ。まさにこの速さで表現したいというものを感じさせるのである。例えば音階のなめらかにしてはっきりした方向性のある美しさ。音の強弱でも、時にモーツァルトの指示と違ったり、彼が感じたままに強調される音が入ったりする。でもそれが恣意的に聞こえず、ひょっとしたら今モーツァルトがこの現代のグランドピアノを前にしたらあんなふうに楽しそうに、またちょっとひねって弾くのでは、と思わせるものがサイにはあるのだ。

 「モーツァルトを弾いていると、この作品はまるで自分のためだけに書かれたと思ってしまうほど気持ちが入る。作曲家と一心同体になれるんだ。…全ての曲が演奏されるのを待っているような、そんな感じがするんだ。」というサイの言葉どおりの演奏になっていると思う。

 さてそのファジル・サイの演奏会だ。それにしても今話題になっている演奏家が早速長野くんだりに来てくれるとは実にありがたいことである。ただ中ホールというところが長野レベルか。CDの解説パンフレットの表紙の写真には、にっこり笑みを含んだいたずら小僧っぽい若者が写っている。実際に舞台に出て来たサイは、だいぶ違ったイメージを与えた。もっと大きな人かと思っていたのが、まず中肉中背か。背広のスーツを着てその袖が少し長く腕をプラプラ振りながら出て来る様子は、これがこれからピアノを弾くあのモーツァルトの様なサイかしら、と思ってしまう。これから演奏するんだけど何か一寸気恥ずかしいような困っているような、というそんなふうだった。

 前半はスカルラッティ、バッハ、モーツァルトと3人を並べて来た。これが順に聴いて行くと、不思議なことに自然に音色が変化して行くから面白い。スカルラッティは別に奇をてらった演奏ではなかった。むしろオーソドックスな、といっていい。スカルラッティのあの清純な響きは充分に味わえたし、トリルも美しく入っていたし、リフレイン風に繰り返し迫って来るあのスカルラッティ節とでもいうものもしっかり聞こえて来た。

 続いてバッハになると、スカルラッティと異なって急に音色が豊かになった。3倍くらいにはなったか。音符の数はバッハの方が少し多いが、イタリア協奏曲はそれほど分厚い音の曲という訳ではない。サイがその辺を意図した訳ではないとは思う。しかし響きを聴かせて作曲家の違いを知らしめたというのが面白い。と同時に、次のモーツァルトを聴くと、それに対比されてスカルラッティ、バッハには共通性が感じられる。それは何といっていいのか、芯のある音で構築された音楽というようなものか。

 モーツァルトについて言うと、ひょっとしてそれは拡大解釈になるかもしれないが、音楽を通して表現される人間の幅というか性質が全く別のものになってしまって、そのため音色という点でも次元を異にする所まで行ってしまったという感じだ。表現もはるかに多様であきらかに今までにないものを要求しているのが分かる。今までこんなふうに聞こえて来た演奏ってなかったなあ。

 モーツァルトは有名な「トルコ行進曲付き」なるソナタだった。第1楽章の弾き出しがもう「あっ」という感じで、ふわりと軽く随分感情的成分が豊富にある曲に転換していた。この楽章ではイ短調の変奏の弾き方にいささか度肝を抜かれた。とにかく速い。オクターブのところはこのテンポではちょっとバタバタした雰囲気になる。上述のCDにもこの曲が入っていて、実はこの時までにはまだ聴いたことが無かったが、家に帰って確認のため聴いて見ると、当然だが同じ弾き方だった。第1楽章全体の中でどう聴けばいいのか、ここのところはちょっと戸惑ってしまう。

 今まで他の演奏家の実演で聴いたこの曲では、毎度毎度この第1楽章の最後のコーダの部分で皆何かギクシャクしてしまって(プロのピアニストにとってはテクニック的こはそれほど難しいところではないと思うのだが)その後の展開まで、はなはだおかしくなっていったのだが、サイに関してはそんな懸念はいささかも必要なかった。ぐいぐい彼のぺースで曲に乗せられていった。第2楽章、これもかなり変わった雰囲気の曲になっていた。普通はいかにも3拍子でございという感じの(ただしあまりメヌエットの感じは強くないが)展開になるのが、彼の場合は一寸うまく表現出来ないけれども、随分流動的なそして襞の多い曲になっていたように思う。

 終楽章、「トルコ行進曲」の部分。このテンポも速かった。速度記号は確かAllegrettoだったよなあ。所々伴奏の頭の部分にアクセントをいれてそのリズムがなんとなくトルコ風の雰囲気(「後宮からの逃走」におけるような)を醸し出しているから不思議だ。CDに比べ演奏会のモーツァルトはかなり即興風の弾き方になっていて、それがなかなか面白く感じられた。そしてこれがあとでさらに「あれれ!」という事になる。

 後半はリストの唯一のピアノ・ソナタだ。彼にとっては特別な思い入れのある曲と解説にはあった。しかしわたしにはこれはいささか苦手な曲に入る。リストの曲には時に「どうしてここまでの表現が必要なのだろう」と感じてしまうものあるのが、躓きの石なのだ。「エステ荘の噴水」の様な曲は、ごく単純に楽しめる。リストが大いに心を込めて何かを表現しようとすると、それも何か深い感情表現をめざすような場合になると、それがわたしの感覚とどうも合わない気がする。

 この日のプログラムから期せずして感じたのは、リストは確かに何かを表現したいという強い意欲が伝わってはくる。こういうことを表現したくて、こういうふうに作曲しました、と聞こえてくる。しかしモーツァルトはもっと自然に、というか音楽が流れると共に、その中からおのずと何かが伝わってくる、という感じなのだ。この違いは何か。ただしサイのリストの演奏は私には割に聴きやすかったとは言えよう。

 サイはすぐにはアンコールに入らなかったが、この夜の聴衆の拍手はなかなか気合が入っていた(という言い方はあるかな)。最初のアンコール曲、多分サイのオリジナルだろう。彼は演奏家だが作曲家でもある。それをここで披露してくれたか。ピアノの内部奏法を駆使し、やや潤いの乏しい響きはトルコの撥弦楽器の音か、はたまた太鼓などの打楽器の音か。ゆったりしたなかにリフレインを重ねながら情緒を盛り上げて行く曲で、大変興味深いものだった。拍手鳴り止まず、彼も拍手に応えて再登場するときは何となく余り乗り気ではないような風情なのに、ピアノの前に座り直すとたちまち興に乗って引き出す。

 2曲目はあの「トルコ行進曲」、それにしては「少々音が跳んでいない、なにかふざけているのかな」と思いきや、それはたちまちジャズ・ピアノ変奏曲に変身したのだった!これには沸いた、終わると同時に「ウォー」の声、割れる拍手。「そうだ、彼は作曲家でもあったが、ジャズもやるんだ。」即座に思い出したのはフリードリッヒ・グルダのことだ。曲の生み出し方が(生まれ方が、という方がいいか)似ているのはこのせいか。このテクニック!この楽しさ!この意外性!、ますます拍手は止まらない。3曲目はこれは穏やかな多分自作の曲、さらに4曲目、確かブラームスやリストの変奏曲に使われたパガニーニのカプリッチョの、サイによるジャズ風変奏曲。これまた実に面白い。拍手は鳴り止まず会場の明かりが付いてもまだ続いていた(私も一生懸命拍手していたが)。

 ウーン、サイは第2のグルダになるか、という言い方は一寸失礼かな。もっともサイ自身一度だけだがグルダを実際に聴いていて、いたく感銘を受けたと言っている。でも若いせいか、それともトルコ出身というせいか、サイの方がクラシックにおいてグルダ以上に大胆な解釈を示している。そこにジャズも伝統音楽もスムーズに溶け込んでいるように見える(本当のところはもっと聴き見て行かないと分からないだろうが)。グルダの方が伝統のクビキは大きかったと思う。彼がジャズをやったのはその伝統との格闘と関係が強いように思うがどうか。こんな観点も持ちながら、今後のファジル・サイの活躍が楽しみである。