シリンクス音楽フォーラム 35
Review Performance
油井 康修

たまにはよく知られた曲のオンパレードもいいか


[I]

オーケストラ・アンサンブル金沢 長野公演『グリーンコンサート』
2001年5月6日
長野市民会館
指揮:大賀典雄
vn.:リディア・バイチ
シューベルト:交響曲第7番ロ短調「未完成」D.759
ブルッフ:ヴァイオリン協奏曲第1番ト短調 Op.26
べートーヴェン:交響曲第7番イ長調 Op.92

 今年の冬は私の勤める職場にかなり悪性の風邪がはやり、生徒もさることながら、職員に重症患者が多かった。私のいる進路室に「かつて風邪で休んだことなどない」と豪語される先生がいらっしゃって、健康を絵に描いた様、と言うほどでもなく小柄な方だが、その方さえもついに顔が隠れるほどの大きなマスクをして通勤と相成った(さすがに休みをとるまでには至らなかった)。他の先生方も次々に倒れ一人私のみが病魔の手を逃れることが出来たのだった。関西並びに全国の風邪前線の模様はいかがだったのだろう。

 こうして3月を終え4月に入った。4月は地元の音楽会が結構あったので楽しみにしていたところが、何と漸く風邪の恐怖も去ったはずのこの時期に、とうとう私も魔手に捉えられてしまった。久々の転勤ということで自覚症状は余り無かったが、やはり緊張や疲れが体調を狂わしていたのかもしれない。一時は声も出ない状態で、一体どう成ることかと息も絶え絶えであった。やっと連休に入って落ち着きを取り戻した丁度その最後の5月6日、長野で室内オーケストラの演奏会ありというので、回復具合を確かめながら出掛けて行った次第だ。

 日本で本格的な室内オーケストラというのはどれほどあるのだろう。この日のオーケストラ・アンサンブル金沢は、岩城宏之氏が中心になって結成されたというのは、かつて聞いたことがあった。だいぶ前の話だったはずで、今当日のパンフによれば1988年発足となっている。多分日本でのこの領域の草分け的存在ではないか。当時金沢のようなところで(失礼)恒常的なプロのアンサンブルの活動が可能なのかななどと、ぼんやり思ったことを思い出す。

 他によく耳にするのは水戸室内管弦楽団(という名称だったか)、こちらはまだ聴いたことがないが、この2つはとりわけ有名どころか。外国では少し古くネヴィル・マリナー率いるアカデミー管弦楽団、もう少しあとにイギリス室内管弦楽団など、さらに東ヨーロッパや旧ソ連などにもいろいろあるはずだ。最近よく見かける古楽アンサンブルも一種の室内オーケストラというべきか。バッハなどの演奏は、聴いていてすんなり耳に入ってくる。一方、一般的な室内アンサンブルはどの辺がその特質といえるのか。

 指揮をする側から見れば小回りも利くし、いろいろ実験的なことも出来そう。しかし聴く側からするとどうか。確かこのレヴューの最初にイギリス室内管弦楽団を取り上げたと思うが、その時も音のバランスということで疑問を投げかけておいた。各楽器セクションからバランスを取りながら楽器数を減らしているはずなんだろうけれども、実際聴いているとどうもティンパニや金管楽器の方が強く響き、弦が十分聴こえて来ない時があるように感じられる。この辺は専門家はどう考えているのだろう。ちょっと話が先走ってしまったか。早速当日の演奏にいってみよう。

 これまでも長野市での演奏会は何回か取り上げている。その際の会場は長野市民会館ではなく、多分大体が県民文化会館だったと思う。後者が出来てからは、特にクラシックの演奏会は長野市では多くがこちらを使うようになったので、最近は市民会館の方はいささか足が遠のいていた。ところが今回は珍しく長野市民会館である。ここは随分昔からあって、長らく長野近辺の音楽文化の担い手の役割を果たして来ていた。多分古いタイプの会場の作りだと思うが、舞台手前から一番奥まで徐々に席が高くなっていって、1階しかない。内装は剥き出しのコンクリート、なんとなく暗い雰囲気、そして外部もいささか老朽化が伺える。

 しかし私にとって、ここはなかなかの思い出の場所であるのだ。中学生のとき初めて聴いた本格的音楽会は、ここで行われたNHK交響楽団のそれだった。グリーグのピアノ・コンチェルトと、なんとショスタコーヴィッチの交響曲第5番を聴いた。安川加寿子のピアノ・ソロリサイタルを聴いたのもここだった。結局後にも先にも安川加寿子を聴いたのはこのとき1回だけだ。珍しいところではキース・ジャレットのソロ・コンサートなんというのもあったっけ。さて久々に聴くのはオーケストラ・アンサンブル金沢。

 演奏に先立って指揮者の大賀さんが一人でトコトコと舞台に登場してくる。大賀さんは東京芸大を出てソニーの社長・会長を歴任した変わった経歴の人だ。「こういうことは余り無いのですが」などと言いつつ、結構長々と曲の解説やら何やらひとしきりおしゃべりをしてから演奏に移るという次第だった。知らない話も多くなかなか面白かったが、その中からひとつ。

 シューベルトが「未完成」を作曲して出来上がった楽章から順次献呈先に送ったが、2楽章しか届いていなかったので、献呈先ではまだ3楽章、4楽章が来るものと思ってそのまま保存していたところ、そのうちシューベルトも亡くなり、数十年先(だったかな)になって初めて演奏された曲であったということだ。つまり作曲者シューベルト自身がこの名曲の演奏を耳にしていないということで、うーん、話し手はこれを言いたかったのかな。そういえば作曲家にはこの手の話は結構あるものだが、特にそれが有名な曲ともなるとエピソードの資格を得るという訳か。

 それにしても有名中の有名な「未完成」だが、今まで実演で聴いたことがあっただろうか。そもそも私自身この曲のレコードを買った覚えがない。しかし丁度この演奏会の少し前に「斎藤秀雄講義録」(白水社)なるものを読んでいて、これが俄然面白い。指揮者、というより音楽家としてこんなに色々考えまた感じているのかと、大いに勉強になった本だ。勢い余ってついつい彼の書いた指揮者のためのテキストまで注文して仕舞った。この講義録の中に「未完成」の簡単な分析などが出て来ており、これがまたなかなか興味津々で、この日の演奏も斎藤氏の解釈とどう一致するか、また違っているのかと実は楽しみであったのである。

 「未完成」の第1楽章には allegro moderato と標記されているが、とくに前半の allegro は誤用ではないかというのが面白い見解だ。シューベルトは(ないしドイツ人は)これを速度記号として用いているようだが、本来 allegro は速度記号ではないというのだ。そういえば音楽用語として物の本に「快活に」などとあったような気がする。斎藤氏によれば「楽しい」という意味になるという。確かに辞書にもそのような意味が記載されていた。どうみても「未完成」を「楽しく」演奏する人はいないだろう。

 大賀さんがもう一つ触れていたのは、なぜこの曲が「未完成」に終わったのか、という点。この疑問はこの曲の解説にはたいがい触れてるところで、大賀さんの答えも一般の解答に異ならず、要するに余りにも美しい曲が2楽章で完結して、これ以上付け加えるものはないというものだ。ウーン、これ以外の答って聞いたことがないなあ。

 私もここで特に異論を言い立てようという訳ではないが、そして確かにこの2つの楽章の美しさは否定できないにしても、オーケストラ・アンサンブル金沢の演奏を聴いた限りでは「未完成」の音楽の基調は「美しさ」よりは何か大変暗い、陰鬱なものの上に置かれているように聴こえたということだ。この暗い響きが展開した後にどのような雰囲気の次の楽章を生みだし得ただろうか。さらに相変わらず暗い曲想を持って来るのか、それはちょっと耐えがたいものがあるし、一転して明るい曲想を持って来るのか、でもどのような?ちょっと思いつかないなあ、という感じだ。

 曲の展開も斎藤氏の分析の様に進んだ訳でもない。この点もちょっと予定外。それに先に書いたように、どうも楽器間のアンバランスが気になってしまったこともあり、必ずしも満足のいくものとは言えなかった。この時代の音楽そしてシューベルトの音楽ともなれば、もう少し旋律線を強く出して欲しいという感じだ。どうも少々欲求不満がたまってしまい、このあとアーノンクール/アムステルダム・コンセウトヘボウ交響楽団によるシューベルト交響曲全集をもとめて聴いてみた。ム、充実の一時、「未完成」は矢張り大オーケストラが勝るか。

 ブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番も、その道ではよく知られた名曲だ。ヴァイオリンの曲にはやや疎い私でも、第3楽章のあの旋律を耳にすると「ああ、この曲か」と心が浮き立ってくる。長い間音楽にかかわり、レコード時代からあれこれと集めていると、シューベルトの「未完成」がないということもある一方いつの間にかその曲を聴こうと買ったのではないのに、あれ、これもあるぞ、ということも起こる。ブルッフのこの曲もなぜか我がストックに収まっているのである。

 ヴァイオリンのリディア・バイチは弱冠19歳のすらりとしたお嬢さん、両親共に音楽家という点でその出自は将来の音楽家を約束されたようなものだ。大賀さんはヨーロッパで彼女に出会って気に入ってしまったようで日本に招いたのだという、彼女自身は来日は初めてだ。解説にはオーストリア国立銀行からカルロ・ベルゴンツィを貸与されているとあるが、大賀さんの話ではガルネリと言っていた。ベルゴンツィの音かどうかはよく分からない。表現はよくないが、ちょっと歯の浮くような独特の甘い響きが持続し、これは去年聴いた服部譲二氏のガルネリ・デル・ジェスの音を思わせるように感じられた。

 19歳という若さからか、彼女の音色からか、ロマン派のねっとりした感じのはずのブルッフにしては割りとすっきりした演奏であった。しかし音色そのものは実に特色があり、特に低音から高音まで切れ目なく一色で通した明るく安定した響きはちょっと他に類がない。普通多くのヴァイオリニストの音は低音、中音そして高音と各領域に各自の独特の音を持っているものなのだし、それで勝負をしているものだが、彼女は今言ったように違うのだ。驚異的な音の出し方といっていい。テクニックもしっかりしている。これからどんな音楽を作っていくか楽しみではある。

 ベートーヴェンの交響曲第7番、この曲の実演を聴いたのはじつに学生時代にさかのぼる。初めてウィーン・フィルを聴いたとき、この曲が演奏曲目に入っていた。確か予定のプログラムはブラームスだったような気がするが。しかしショルティ指揮のべートーヴェンは悪くはなかった。それにしても学生時代、S席やA席ではなかったにしても、何とかチケットは買えた訳だし、そのころに比べ有名オーケストラのチケットは今は随分高くなったように思われる。オペラに至ってはもう…。

 べートーヴェンの交響曲では名前というか愛称の付いた曲がとりわけ有名ではある。「英雄」とか「運命」とか「田園」とか。しかしこの7番は名前こそないが、すばらしい曲だしべートーヴェンの交響曲の中でもよく知られているのではないか。それにしてもなぜ7番には名前がつかないのか。大賀さんはこの点については何も言っていなかったが、今思い返すと何か言って欲しかったなあ。7番の特色はリズムにある。これはよく言われることで全くそのとおりだ。各楽章どれも特色あるリズムが曲をぐいぐい引っ張っていく。といってもリズムを強調し過ぎては、なにかストラヴィンスキーのようになってしまうから、どの程度にするかが大切だ。ウィーン・フィルだったせいかどうか、ショルティの演奏も思ったよりはリズムの強調は感じられなかった気がした。

 アンサンブル金沢では矢張り楽器間のバランスが気になった。リズムもしっかり刻んで欲しいが、同時に旋律も強く歌わせて欲しい。後者が室内アンサンブルでは弱い。ティンパニや金管が鳴り響くと旋律線はどこへやら、また専門的にみた場合べートーヴェンの7番あたりは室内オーケストラ用に作曲されているのだろうか。それとも我々が大オーケストラの響きになじみ過ぎているのだろうか。さらにべートーヴェン、シューベルト当たりでも最近はオリジナル楽器による演奏というのが行われ始めている。これなども多分そんなに大規模なオーケストラではないのではないか。演奏形態が多岐にわたってくると、それに応じて演奏解釈もなかなか難しいことだ。

 とにかく今回の演奏会は解説つきではあり、有名な曲ばかりではあり、いかにも地方公演向きにプログラムされたものという感じであった。病み上がりの身にはまずまず楽しめた演奏会であった。

[II]

フリードリッヒ・グルダについて

 最近の新聞のCD評だったかそれとも「レコード芸術」のCD評だったか、フリードリッヒ・グルダの新盤が紹介されていたので、早速買って来て聴いてみた。そのタイトルは "Gulda spielt Schubert"。新盤といっても、彼は残念ながら昨年初め亡くなってしまったので、そうなれば「遺作」というこか。グルダほどのピアニストであれば、その時期に追悼アルバムとか、再編集のアルバムとか、復刻盤とか、未発表アルバムとか、何か集中的に出てもおかしくないはずなのだが、余り注意してみていなかったせいか、そういうものは目にしなかったように思う。

 クラシック界ではあのような変わり者だったし、とりわけ晩年頃にはレコード会社とも折り合いは余りよくなかったようだ。日本ではなかなか分かりにくい事情ではあるが。従ってというべきか、このCDはオーストリアの自宅での録音というものだ。製作は "Paradise Production"。そのせいかどうか、(ピアノはシュタインウェイだが)やけに低音が分離気味にブォンブォン響く感じだ。特にグルダのものをすべて集めようとしていた訳ではないが、関心を持ち続けていたので、そこそこのアルバムが集まった。

 クラシック界とジャズ界と二股かけて活躍していたので、クラシック・アルバムあり、ジャズ・アルバムあり、ミックスアルバムありと、なかなか多彩である。ジャズの曲はオリジナルの曲があるのは当然として、実はグルダがクラシックの曲も作曲していたことは知らない人もいるのではないか。そんなアルバムも少々聴いたことはある。さて、と、ウーン、ピアノ曲はいざ知らず、オーケストラ曲は何とも…。分かりやすく美しくはあるが、ちょっと笑ってしまうような曲たちであった。グルダのご愛嬌か。

 今回のアルバムはタイトル通りシューベルトを中心に据えて、さらに「ゴロウィンの森の物語」というヨハン・シュトラウスヘのオマージュ曲が添えられている。シューベルトは「即興曲集」作品90と「楽興の時」、解説によるとグルダ生前のシューベルトの録音は少なくて即興曲作品90では第3、4曲しかあげられていないといっているが、これは何かの間違いだろう。この「即興曲集」作品90と「楽興の時」という組み合わせは1963年録音のものがあるのだ(6、7年前のCDカタログにもこれは載っていた)。

 つまり彼は同じ曲目を36年後にもう一度取り上げた訳だ。グレン・グールドがデビューアルバムの「ゴールドベルク変奏曲」を27年後、死の直前に再度取り上げたのと同じではないだろうが、また共通する何かも感じさせる。グールドにしろグルダにしろ死んだのは偶然かもしれないが、長いキャリアを積んだ末に再び戻っていったその曲が方やバッハで、一方がシューベルトというのは考察に値するところかもしれない。

 1963年録音のシューベルトはちょっと変わった経歴のレコードで、最初は市販されていなかったものだ。当時(というのは私が学生時代で、1960年代後半位)、コンサートホール・ソサエティという会員制のレコード頒布会があり(ただし会員だった訳ではないので余り正確なことは知らない)、その中の1枚だったのである。この会のレコードには他にブーレーズ指揮のストラヴィンスキー「春の祭典」とか、同じグルダのモーツァルト「ピアノ協奏曲第21番、第27番」とかが話題を呼んでいた。後者のグルダのものは、冒頭のトゥッティからピアノが入って来たり、適当に音符を変形したり(つまり即興を入れたり)して聴いていて楽しい演奏だが、グルダ本人はそれほど楽しそうに弾いているのかなと思わせる所が何ともいえないのである。

 私がシューベルトのピアノ曲に目覚めたのは、二つのきっかけがあり、一つは学生時代のクラブの発表会(私が1回生の時、秋の定期演奏会)で高橋さんがひいたピアノソナタ ト長調Op.78(第1楽章)、そしてグルダのこのレコードを聴いたことによる。どちらも印象は強烈だった。ト長調の方は、冒頭の長大なテーマといい悠揚追らざる曲の展開の仕方といい、当時まだまだ音楽経験の乏しかった私ではあったが、そこに今までにない独特のあたらしいタイプの音楽を見いだしたという感じをもったのである。

 グルダの方はその激しい切り込み方にシューベルトでこんな演奏をするのか、こんな激烈なシューベルトでいいのか、しかも一時たりともこちらの気持ちを捉えて離さないのはなんだという迫り方だ。残念だったのは当時ドビュッシーやバッハにかかりきりだったのと、シューベルトなど自分には弾けそうもないと思い込んでしまい、シューベルトを手掛けたのは随分後になってしまったことだ。

 1963年のレコードの事があったから、当然今度の新盤はどう変わったかなと興味があった。第一印象、あれグルダも少し衰えたのかな、というもの。録音時68歳、まだ衰えるには少し早い年だと思うが。テクニックというような問題ではなく、いささか張りが失せているなあという感じだ。しかしこれは録音の仕方に原因があるのかもしれない。自宅での録音では技術的な問題はどの程度解決出来ているのだろう。それと幾分ペダルを控え目にしているように聴こえる(実際そうなのかまではよく分からないが、これも録音のせいか)事もあるかもしれない。この後間もなく亡くなったとなると、余計そんな印象が強く浮き上がって来る。

 そこで久々に1963年物を取り出す次第となる。これが不思議で、比較しながら聴いていると最初の印象は却って薄れていってしまうのだ。むしろこの30数年間、彼のシューベルトは微動だにしていないという印象の方が強くなって来る。演奏時間もCDの方がほんの数秒長いかほとんど同じだ。そもそもグルダの演奏を「激烈」と表現したが、その原因の一つは非常に幅のあるダイナミックレンジと強いタッチだ。強いタッチといえば、ギーゼキングのドビュッシーもこれがドビュッシーかというほど強いタッチを使っていて、曲こそ違えいい勝負かなと思う。グルダはタッチのみならずテンポでもここぞという時は猛烈にアップしてくる(即興曲の第4番など)。

 しかし今回2枚のディスクを聴き比べてこの様な激しい表現を貫いて聴こえて来るのは、曲の表現の自然さということであった。もちろん楽譜を見ながら聴いていると、グルダも微妙なテンポの揺れ、アゴーギグ、ダイナミックレンジのコントロールなどを巧みに使っている。しかしそれらが「こう表現してやるぞ」と特に思わせず、自然に流れて行くのである。グルダ自身自分がシューベルトに非常に近い物を感じているせいか(グルダ自身の解説「お互いの内的世界があまりにも近い」)、彼にしては随分感情移入の度合いの強い演奏にはなっているが。

 この表現の自然さはシューベルトに限らずモーツァルトの演奏にも伺われる。なぜかモーツァルトもグルダのソロの演奏ディスクは余り多くない。思い返してみると特定の作曲家で全曲録音しているのはべートーヴェンのピアノソナタ位しかないではないか。意外に、グルダは取り上げる曲の時代やジャンルの幅は広いけれど曲目そのものには結構なこだわりがあるのかもしれない。

 そのモーツァルトだが、これがまた興味津々である。世にモーツァルト弾きといわれる人は幾たりもいるが、最近では内田光子の演奏が随分話題になってきたし、私も何枚かは買って聴いてみた。最近は彼女もドビュッシーとかシューベルトとか他の作曲家に力点を移していっているが、勿論すばらしいモーツァルト弾きであることには変わりはない。その彼女とグルダを比較するとこれが実に面白い。内田光子は自分のモーツァルトはこれなんだ、という弾き方をする。スタッカート一つに、終止形一つに、彼女の刻印を刻まねば済まない。そしてそれが実に生き生きしていて彼女の面目躍如としているのである。

 これに比べるとグルダのモーツァルトは随分そっけなく聴こえる。というよりとりわけ内田光子と比べると何かつまらなそうに弾いている様にさえ聴こえて来る。しかし、である。曲はグルダのほうがずっと流れているように聴こえるのだから不思議だ。内田光子にとってはモーツァルトを表現することと彼女自身を表現することとは一つだと感じさせる。グルダはピアノでモーツァルトを弾けばこうなる、といっているかのようだ。

 1993年グルダが来日した時は随分話題になったのではないか。この時彼はクラシックの演奏会とジャズの演奏会の2種類を用意していた。私はジャズの方のチケットしか入手出来なかったが、クラシックの演奏会は後にテレビで放映した。ジャズという限定はあるが、彼のピアノを聴いていると、その入り方からして実に自然になんのこだわりもなくスッと響いてくるのである。この印象は極めて強かった。およそ技術的なもので滞るなど考えられない演奏だった。ジャズの時はいささかグルダは名人芸的演奏をすることがあるが(それも狙ってというより気分が高揚していてそうなるという感じだが)、とにかく当時最もよくピアノ自体を弾けるのは彼だと、この演奏会で確信したのである。

 幾多の名ピアニストたちが解釈をこらし、技巧を駆使し、音楽という宝庫に立ち向かっていき、その神髄をつかみ聞き手に伝えようとしている。それらの演奏を聴き比べ、私たちは楽しみまた啓発されるのである。勿論グルダだって解釈し工夫をこらし、音楽を「表現」しようとしているはずだ。しかし少なくともモーツァルトやシューベルトにおいては、その自然にして力強い音楽が苦もなく流れ出てくるかのような印象が強いのである。解釈や表現のためにピアノの響きが犠牲にされることは、グルダの望むところではない。解釈・表現とピアノの自然な音の流れを一致させるようなところを彼は求めたのであろうか。その点が他のピアニストたちといささか異なっているように感じられる。モーツァルトの曲をさらに録音する話もあったように聞く。惜しいかな。しかしそれ以上に、グルダはもう1度、2度、3度実際の演奏会を聴きたかった。そういうピアニストであった。