シリンクス音楽フォーラム 35
Review Performance
油井 康修

「ワーグナーを読む」の記


ワーグナー:楽劇“ニーベルングの指輪”第1日「ワルキューレ」

2002年4月6日
新国立劇場(初台)
指揮:準・メルクル
演出:キース・ウォーナー
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
ジークムント:アラン・ウッドロー、ジークリンデ:蔵野蘭子
ヴォータン:ドニー・レイ・アルバート、ブリュンヒルデ:スーザン・ブロック
フリッカ:小山由美、フンディング:長谷川顕

 今年の1月から2月にかけて、ベルリン国立歌劇場による「ニーベルングの指輪」全4部作の上演が東京で行われた。一度は聴きに行こうと決心したがあまりに高額で断念した事は、前回のレビューで書いた通りだ。その少し後に、「ワルキューレ」のチラシが目に入って来た。こちらは昨年から年1回のぺースで4年かけて上演される新国立劇場の“ニーベルングの指輪”シリーズで、「トーキョー・リング」というあだながあるそうな。

 「そうそう、これがあったな」とチラシを見て思い出した。昨年の“指輪”序夜「ラインの黄金」はなぜか(少し遅れて手配したせいか、またかなりの企画として注目されていたのか)チケットが入手出来なかったのだ。チラシが出回るということはまだチケットがあるなと電話をしたら予想通りで、ベルリン国立歌劇場はだめだったが、ワーグナーの“指輪”はこちらでボチボチいこうという心境だ。

 ワーグナーの楽劇は、かつて1970年の万博の時に、大阪のフェスティヴァルホールで「ローエングリン」を聴いた(観た)のが一度あるのみだ。その後「トリスタンとイゾルデ」には何となく興味がありディスクも入手したが、実際の演奏はまだ未経験。あとわが家のディスクコーナーにはクナッパーツブッシュとトスカニーニのワーグナー名演集の2枚があるだけ。そもそも楽劇のようなこんな長いものは家ではなかなかゆっくり聴く時間がとれない。この手のものは聴くなら実際の演奏会に限るというのが私の基本方針だ。

 “ニーベルングの指輪”は何と言ってもワーグナーの代表作ということで、一度は聴いておきたいとは思っていた。もっとも「一度は」というような気構えではとても理解は覚束無いかもしれない。大体ワーグナー好きは溺れるように聴き浸っているのだろう。当方ちょっとそこまでは行きそうにもないが、とにかくチャンスがあればというくらいか。

 「ワルキューレ」は、数年前東京都交響楽団が演奏会形式で1幕ずつ取り上げたとき(エリアフ・インバル指揮)、入門にいいかなと最初だけ聴いたことがある。その後は機会がなく聴き逃した。その時の印象では、第1幕は矢張りいわば導入部分でもあり、それに登場人物も少なく、まだまだ盛り上がりは小さいかなといった感じだった。今回は場面も含め、「ワルキューレ」全体に出会える訳でちょっとワクワク気味で会場に駆けつけた次第だ。会場の新国立劇場は電車の京王新線で新宿から乗って次の初台で降りるが、この同じ駅で出口が違うと東京オペラシティコンサートホールに出る。ちょっと面白い構造だ。今回はゆとりを持って1時間近く前に到着、館内の喫茶店でコーヒーを飲みながらストーリーを少々復習してさて聴かんかな・観んかなである。

 参考にしたのは音楽之友社の[大音楽家/人と作品]シリーズの中の『ヴァーグナー』で、古い本だから今は出版されているのかどうか、奥付を見ると昭和43年第二刷発行となっている。実際に買ったのはもう少し後のはずだが、それにしても多分20数年ぶりに少し役に立つことになった訳だ。著者は高木卓という人で、何と東大の独文を出ている方だ。そういえばかつて日本の音楽評論界を支えた今は亡き柴田南雄氏や、こちらはまだ現役の吉田秀和氏、遠山一行氏などの重鎮の方々ももともとの出身は音楽畑ではなかったな。

 日本の音楽界では啓蒙から研究分野にはこういう人達が貢献していた時代があったのかとふと思った(今もまだ続いてはいるところはあるか)。音楽という領域だからこういうことが可能だったとも言えるし、また音大出の専門家だけでは需要を満たすことが出来なかったのかもしれない。それにしてもワーグナーでさえもあの頃は専門家が揃わなかったのだろうか(勿論高木氏も専門家並ではあろうが)。今だったら誰が書くだろう。

 この劇場はオペラ劇場と中劇場及び小劇場からなっている。本格的オペラは勿論オペラ劇場で行われ、中劇場でも規模の小さなオペラが演じられるようだ。小劇場は主に演劇中心だ。オペラ劇場の舞台の前の空間が割に広く、それにしては後ろの座席もそんなに奥まっていなくてまずまずの見やすさか。私の席は舞台に向かって左2階の後ろの方で、一寸舞台右隅が見えにくかったところが難点だが、それを除けば端の方にしてはまずまずの見通しだろうか。見ていて前日N響を聴いたNHKホールも似たような構造だなあと思ったが、NHKホールの場合は舞台前方上部と客席上部との間がオペラ劇場に比べてだいぶ狭い。そのホールでかつてリヒャルト・シュトラウスの「サロメ」を見てからもう20年くらい経つだろうか。

 それにしてもここ10年以上前からよく東京に来るようになっても、これまで一度もNHKホールで聴くことが無かったのはどういう訳だろう。サントリーホールやオーチャードホールなどその後出来たホールの方が演奏家に好まれるということか。そのほかこの劇場の特色と思われるのは、舞台を傾斜させて使うやり方だ。前部が低く後部が高い斜面のような舞台造りをする。以前見た「修善寺物語」でそんな使い方をしていたし、「ワルキューレ」では第2幕にこれを使っていた。他のホールではあまりこういうのは無いのではないか。

 ワーグナー劇の上演史上この「トーキョー・リング」がどのような意義を持つのかといったことは私にはとんと分からないが、とにかくこの日の「ワルキューレ」を見た限りでは、「これが今風のワーグナーか」と感じ入った次第。一度だけ見た1970年の「ローエングリン」の頃は、ヴィーラント・ワーグナー演出の時代で、極めて抽象的だが美しくはあった。この日の、というか現在の演出は、以前の「美しい」という感覚ではちょっと測れないものだ。特に第3幕などはスタンリー・キューブリックの確か「時計じかけのオレンジ」という題名の映画だったか、その雰囲気がこの演出に非常に近いものを感じさせる。

 第1幕では高さが登場人物の背丈の2倍もある巨大な椅子と机が舞台の左から半ばを占め、天井から机の方に向かってこれまた巨大な矢印が突き刺さろうとしている。要するにこれが剣ノートゥングを示すものだ。後でそこから取り出された剣は、いわば記号化された剣ともいうべき棒となった。第2幕は上述のように野外が斜面で、舞台の右下に縮小された家と段ボールが散らかっていて、上部にヴォータンの妻フリッカが出入りする入口(出口)がある。

 第3幕に至っては一応病院の内部という設定だろう。しかもその空間は前に広がり後方にすぼまる、遠近法の透視図風だ。壁は真っ白で変に清潔めいていて殺風景だ。要するにどの幕でも空間の造り方を伸縮自在に扱っている訳だ。多分それはコンピューターの世界か。そういえば第2幕の段ボールはコンピューターの箱だったような気がするが、一寸はっきり思い出せない。となると記号化された剣はアイコンか。

 登場人物の服装はもう全く現代風で、我々の日常とあまり変わらない。フリッカだけがちょっと昔の王妃風だったが。こういうのも面白くない訳ではないが、初心者としてはまずその時代らしい服装の劇をまず見た後でこういうのを見たかった気がする。数年前に見たピーター・ブルック演出の「ドン・ジョバンニ」も全く今日の普段の服装で、今や衣装は演劇的側面においてそれほど意味を持たないということか。第2幕は逃げてきたジークムントとフンディングが決闘をするという場面で一つのクライマックスが来ると期待していたのが、前段が非常に長く肝心な所はほとんど瞬間劇であっと言う間だったのには驚いた。ここでも戦いの時はあちこちから例の矢印がそれも地面の中から出現していた。

 何と言っても面白かったのは第3幕だ。「ワルキューレの騎行」というあの有名な音楽に始まり、病院の内部をあちこちの扉から移動式ベッドに戦死した英雄たちを乗せてワルキューレの乙女たちが出たり入ったり、8人が交互に歌い交わすのはなかなかに迫力があり聞き応えたっぷりだ。劇と音楽が活気に満ちて一番盛り上がったのはこの辺だろう。この後ブリュンヒルデが逃げて来てワルキューレの乙女たちは彼女をかばおうとするが、追いかけて来たヴォータンはついに彼女を見いだし、いよいよ二人だけの場面でヴォータンはブリュンヒルデに罰を下すくだりになる。内容的にはここが最も訴えるところではなかったか。

 今回の上演には字幕がついており、最近とみに視力が落ちて来ていて、適当に双眼鏡で覗きながら演技の方を見ていたのだが、ここに至って双眼鏡を放せなくなってしまった。二人の言葉のやり取りの中に表れる二人の(親子の)愛情や苦悩、誇りや屈辱、それを通して多分ワーグナーの人生観すらも伺えるような展開といえよう。どうせこの辺りの演技は大して動きが無いので、今度は適当に舞台を見ながら一生懸命双眼鏡だ。この意味深い場面はこんな風にして始まった、

ブリュンヒルデ:私のした罪は、こんな恥ずかしい罰をうけるほど恥ずべきものだったのでしょうか。

神たる身だったブリュンヒルデが人間の男に従わねばならないという屈辱、彼女は自分がヴォータンが本心で望んでいた事を汲んでジークムントを援助しようとしたのだと訴える。それに対してヴォータンも、

ヴォータン:お前はわしを理解したと思った。そして知ったかぶりの反抗を咎めたが、お前はわしが臆病で、愚かだと考えた。お前がわしの怒りを受けるに価しなければ、お前の反逆を罰する要はなかっただろう。

と、逆にブリュンヒルデを非難して切り返しつつも、彼女への微妙な気持ちを伺わせる。ヴォータンはヴェルズングやブリュンヒルデヘの切々たる愛情を持ちつつ、一方でフリッカに体現される普遍の道徳律をも守らねばならないという立場にある。一方そんなことに意も払わず、ひたすら愛に基づいてのみ反応し愛に基づいてのみ行動に出た純粋なブリュンヒルデをいとおしみつつも厳しく罰するのも彼の役目なのである。

ヴォータン:お前の軽はずみな心をお前自身が導くがよかろう。

しばしばブリュンヒルデを非難するヴォータンの言葉も、しかしどこか徹底を欠いているし、彼が全てを負ってもいないように思える。というより、万能の神でさえも全てを担うことは出来ない、いや神の中の神ヴォータンも万能ではないのである。そもそもこのドラマはヴォータンの世界支配への欲望から発しているのだ。神という名の登場人物と考えた方がいいのだろう。指輪を手にする者の、愛情の放棄と世界支配の権力入手、しかしヴォータンはその最も身近なところの愛情に躓く。ブリュンヒルデも食い下がる、

ブリュンヒルデ:かつて彼女のすべてが、あなたのものであったことを忘れないで下さい。あなたの一部であったものを全くの恥辱に捨て去ることによって、あなた自身を辱めないで下さい。

ヴォータンも正面からそれを受け止めはせず、かわして次のように、

ヴォータン:お前は喜んで愛の力に従った。お前が愛せねばならぬ者に従えばよい。

と突き放す。しかしそれはまた将来再び愛の世界に生きるブリュンヒルデを示唆している。さらにブリュンヒルデはジークリンデの懐妊を告げヴォータンの愛情に訴えるが、彼はそれに応えることは出来ない。いよいよその時は近づいた、ブリュンヒルデが自分にふさわしくないような男の手に委ねられることのないように訴えるが、ヴォータンはそれを我が儘と咎めつつも、最後には眠りにつく彼女の回りを火炎で包みつつ、彼女に最後の愛情を注ぐのである。

 それにしても彼女からその神性を奪うのが彼女を眠りにつける口づけであるとは。いやはや西欧では何と愛情の世界は濃厚な事か。また神の中の神でさえも欲望に左右され(これは政治の世界とも解せるし、社会性とも解せるが)、それが愛情の世界(個人の世界〉と衝突し何とダイナミックなドラマを生み出すことか。そしてこの二人の譲らぬ言葉のやり取りの面白さ。演出面からの話題もいろいろあってそれはそれで関心を引きはするが、この楽劇の核心はこれからも変わらず人々の心を捉えていくように思う。

 双眼鏡で見落とした所があるかと思い、帰って来てから早速「ワルキューレ」のCDを入手し(カラヤン盤)、聴くよりまずこの第3幕の二人のやり取り読みながらこの楽劇を考え直したので、今回のレヴューの表題を「ワーグナーを読む」とした次第だ。ただし渡辺護氏の訳と字幕の訳とは若干ニュアンスの異なった所もあったように思うが。いまは渡辺訳しか引用出来ない。

 ワーグナーを「読む」方から始めてしまい、音楽が後になってしまった。準・メルクル指揮の東京フィルハーモニー交響楽団は実に流麗にしてバランスの取れた滑らかな音楽を奏でていた。音量バランスもよかった。“指輪”にしては少し軽目の響きかもしれないが、聴く方は十分楽しめた。少し聴いたカラヤンの方が幾分ごつく豪快な感じだ。朝日新聞に載った「ワルキューレ」評(白石美雪氏、日が違いキャストも入れ替わり)ではライト・モティーフのミスが目立ったとあるが、当方とてもそんなところまでは分からなかった。またヴォータンをゲーム・プレーヤーと解しているところは、矢張りコンピューター世界との類推がある訳だ。

 登場人物では何と言ってもやや太めのブリュンヒルデがその身振りや動作が快活にして楽しい存在だった。それだけに時に劇に少々深刻味が薄らぐといった感じは否めなかっただろう。第2幕冒頭に木馬に乗って登場して来たのはまったくご愛嬌だった。他の歌手陣もいずれも立派だったが、フンディングを演じた長谷川顯はなかなか雰囲気のある(つまり山賊らしい陰のある)声だった。ヴォータンは隻眼だったのか、片目にサングラスのいったメガネを掛けていたのだが、朝日新聞評の写真は左目がサングラスで、私が見たのは確か右目がサングラスだったように思うが、さてどちらだったのだろう。

(2002.4.21)