シリンクス音楽フォーラム 21
Review Performance
油井 康修

昼下がりのモーツァルト


ズッカーマン指揮イギリス室内管弦楽団
1996年2月4日
サントリーホール


 日曜日の東京は、オフィス街に人気がなく、丸善も休みで(昔から日曜日は休みだったかしらん)、その前の高島屋だけ開店しているのも何となくチグハグな風景だった。サントリーホールに着くと、これもホール前の売店や喫茶店は休みで、演奏会目当ての人達だけが三々五々集まって来ていた。午後2時開演というのは、その日のうちに家に帰れるので私としては大変有り難い。ウイークデイの客は勤め帰りなので夕7時開演となるが、日曜日は昼間の午後でいいということだ。

 編集部から演奏会評かCD評を書かないかと声をかけられ、さっそく筆をとったものの、さてどんな角度から書いていいものやら。そもそも演奏会については、私のように地方在住では(長野県上田市)、身近で聴きにいってみようというものは年にいくつか、あとは冒頭に書き出し始めたように、年に何度か大枚をはたいて東京に繰り出していくくらいだ。余り多く聴いているとは言えないし、またこのシリンクスの多くの方が関西在住なので、共通に聴く演奏会もない。CDにしても「レコ芸」ではあるまいし、毎月新譜を買いあさって聴くなどとても無理な話、それに多くの方々がそうであろうが、わざわざ買ってまで聴くCDはかなり好みによる偏りがあるものだ。

 という訳で、いずれにしても、バランスのとれた評、客観性のある評、広範にして有用性のある情報提供etc.などとても出来るものではないし、実のところ誰もそのようなものは期待していないでしょう。CDのいい点は、ある曲について様々な演奏家のものを聴き比べてみるとか、ある演奏家のものを集中的に聴いてみるといったことが、少々金とヒマをかければ割に容易にできることだ。演奏会では、自分の聴きたい曲や演奏家にいつも出会える訳でもなく、CDのような楽しみ方はむつかしい。

 しかし、生の演奏では、何といっても演奏者を眼前にしている緊張感もあって、うまくいけば普段とは比較にならない集中力を持って曲を聴くことができるし、そういう状態の中では、今まで聴き落としていた点に気づいたり新しく発見したりするものが随分あるものだ。演奏会にせよ、CDにせよ、どのみち取り上げるのは私の好きな曲であり、気になる演奏家であり、それらを一つのきっかけとして取り上げ、自分自身の音楽への理解、疑問そして感激を表現してみるべく努めてみよう。

 さて、この日の演奏会は、ズッカーマン指揮イギリス室内管弦楽団(以下ECO)による

  モーツァルト:
    交響曲第39番 変ホ長調 K.543
    ピアノ協奏曲第20番 ニ短調 K.466
    交響曲第41番 ハ長調 K.551

の3曲。第39番は私の大好きな曲、しかも41番共々実際の演奏で聴くのは初めてで、大変楽しみにしていたものだ。ECOもレコードではよく聴いていたが、これも生は初めて。ズッカーマンはヴァイオリニストとしてはすでに著名だが、経歴によれば1970年以来指揮もとっているという(知らなかったなあ)。ECO全体の印象は、高音弦は実にすっきりした響きで驚いたが、ただし個々の音は意外に不明瞭だ。ティンパニもオケにあわせて音量を押さえていると思うが、それでもいささか響きすぎか。

 そもそもモーツァルトの交響曲の魅力はどこにあるのか。もう長く音楽を聴いているひとにとっては何をいまさら、という問いかもしれない。しかしようやく演奏会で交響曲を聴き始めた私には、いささか考えてみたいテーマなのだ。モーツァルトの場合、曲がよく流れる、という事が大切な要素になっていると思う。とりわけアレグロはモーツァルトらしさを出すのに好適だ。歌うような旋律にのって流れるように進んでいくと、いつのまにかまわりの風景は明から暗に、そしてまた暗から明に、この変転を巧みに織り込んで曲は展開していく(この変転のかなりの部分は、和声の働きによるのだろう)。これこそ私がモーツァルトの音楽美として強く感じるところだ。一、二例を挙げてみよう。 譜1は第1楽章の展開部の部分だが、おだやかな変イ長調で第二主題を奏で、そこからどんどん変化させていきクライマックスへと高まっていくところで、実にスリルに満ちた美しさだ。

譜1(省略)

 譜2は第4楽章提示部の途中で(本来第二主題がくるところだが)、第一主題のデリケートな変化を積み重ねていき、ついに提示部の終結に至るところ、安定したトニカの響きが印象的だ。

譜2(省略)

 先にも言った如く、よく曲が流れていく中でこの変転が起伏していくところが肝要で、これでもかこれでもかと粘ったり、深刻に音に過度の重みをかけるのはモーツァルトの美学に反する。そしてこのような美はオーケストラにおいて最も良く発揮されているように感ずる。つまりこの美を実現するにはオーケストラの持っている重量が必要なのだ。ある程度の重量感をバックに適度な曲の流動感を生み出し、その上で重量を軽くしたり重くしたり、また楽器を加減することで音色に変化を加え、大きな表現力を得ているのである。

 次の言葉はモーツァルトの音楽観を表すものとしてよく知られている。「激しいものであれそうでなかれ、情熱はけっして不快感をあたえるまで表現されてはなりません。このうえなく恐ろしい状況のもとでも音楽はけっして耳に辛い思いをさせてはならず、耳を喜ばせなければなりません。それゆえ、常に音楽であり続けなければなりません。」

 これは、ピアノ曲にも室内楽にもあてはまる事だろうが、上述のようにモーツァルトの交響曲を考えてくると、そこにおいてこそこの考えが実によく生かされているように感じられる。思うにモーツァルトは、「耳を喜ばせる」という厳しい限界の中で、また後のオーケストラからみればかなり貧弱な表現手段を用いて、最高度の内容を持った音楽を書いたと言える。彼以後のオーケストラ曲作曲家は、次第にこの限界の外に新しい音楽を求めていくことを余儀なくされていくように思う。

 ECOの演奏を聴きながら、その魅力をかなり楽しむことができた。この団体の他の演奏でも感ずるのだが、とくにテンポのとりかたがいい。よく流れるのだ。ただし第1楽章で一か所、やけにこぶしを入れて表現をしているところがあったが、これだけはちょっといただけなかった。日は違うが、朝日新聞に間宮芳生氏の演奏評が出ていた。いわく、「健全この上ないモーツァルト」。こぶしを除けば際立った特色はなかったので、このように表現したものか。

 もうスペースを越えているが、最後に一つ。仲道郁代さんのソロによるピアノ協奏曲第20番、演奏そのものは美しかったけれど、この曲については昔から疑問があった。なぜ第3楽章が長調で終わるのか。曲が進んでいくと突如響くトランペットの音(譜3)、モーツァルトがこんな音を書いたのか、と思わず耳を疑ってしまった。さらに疑問が深まった次第。同じ短調でもハ短調とか、がらっとかえて19番とか、とにかく別のがよかったなあ。(1996/4/2)

譜3(省略)