シリンクス音楽フォーラム 21
Review Music
井上 建夫

高雅で感傷的なタンゴ

ナザレー ピアノアルバム
館野 泉 編
全音楽譜
1995年
2,000円

エルネスト・ナザレ ピアノ曲集
宮崎 幸夫 校訂・監修
カワイ出版
1995年
2,200円

Ernesto Nazareth : 25 Tangos Brasileiros para Piano
Edited and arranged by Maestro Gao
Schott
1988年
DM.24


 イギリスの有名な音楽評論家ウィルフリード・メラーズに「見出された国の音楽」という本があります。これは「アメリカ音楽史における主題と展開」という副題のとおりアメリカ合衆国の音楽史風の本なのですが、全体を時代順に書くのではなく、二つの部分に分けてそれぞれを時代順に書いています。第一部「開拓者と荒地」は通常のアメリカ音楽史に近いもので、いわゆるクラシック音楽が中心に扱われます。もっともアメリカ音楽前史という章の次には突然チャールズ・アイヴズが現れるのですが。第2部が「芸術の世界と商業の世界:アスファルト・ジャングルのフォークソング」で、フォスター、ゴッチョーク、スーザあたりから始まり、ジャズが中心に扱われ最後は「ウェストサイド物語」で締めくくりとなります。

 普通のクラシックのアメリカ音楽史だとジャズのことはほとんど出てこないか、軽く触れられるだけです。ジャズやポピュラー・ミュージックにはまた別の音楽史があり、ここではクラシック音楽のことは通例無視されています。この2つの音楽史の間でゴッチョークやスコット・ジョプリンのようなクラシックとジャズ風の世界とを併せ持つ作曲家は埋没してしまっています。メラーズの本の面白いところは、これら二つの流れをそれぞれ独自の視点から別々に書き、そして別々にすることによってアメリカ音楽の全体像をよりよく示していることにあります。

 中南米の音楽についても同様の見方をすれば、キューバのセルバンテス、メキシコのレクオーナ、アルゼンチンのピアソラあたりがメラーズの本なら第2部の「芸術の世界と商業の世界」で扱われる作曲家になるのでしょう。もちろんブラジルのエルネスト・ナザレ(1863〜1934)もそうであり、さしずめスコット・ジョプリンに相当する人です。ちょうどスコット・ジョプリンがクラシックのピアノ音楽と黒人のリズムを融合してラグタイムという折衷的な音楽を作り上げたように、ナザレもショパンなどのクラシック音楽とブラジルのエスニックなリズムと融合したタンゴ・ブラジレイロを作り上げました。

 これまで少なくとも日本でほとんど知られていなかったナザレの楽譜の日本版が昨年2種類出ています。全音版は23曲、カワイ版は33曲で、ともにタンゴ以外のワルツやポルカなどの舞曲も含んでおり、14曲は共通しています。どの曲もダ・カーポを持つ3部形式などの簡明な形式の小品であり、スコット・ジョプリンのラグタイム同様、エスニックなリズムの荒々しさを残しながら、古典的で洗練された作品であり、“高雅で感傷的な舞曲”となっています。そして、単純なだけに逆に演奏の際の即興性や個性が重要な意味を持つことになり、ピアニストにとっては意外に弾きがいのあるレパートリーなのです。

 もう1種類、ドイツのショットからのものは2種の日本版が出るまで、楽譜店の店頭で見かける唯一のナザレの楽譜でした。これはタンゴのみ25曲で、多くの曲は上記の日本版とも重複しています。

 本国ブラジルでのナザレ作品の出版事情は不明ですが、多分各種の資料を校合した校訂楽譜は今後のことなのでしょう。上記三つの楽譜のどれも、出典資料などは明示されておらず、ブラジルでの出版譜に基づいているものと思われます。カワイ版では編者によるものと思われるメトロノーム記号、ペダル記号が加えられています。また、ダカーポなどの繰り返しの記譜が各版で異なるなど、細部には異同があります。