シリンクス音楽フォーラム 21
Review Book
井上 建夫

スリリングなドライヴ

音楽のエラボレーション
エドワード・W・サイード
大橋洋一 訳
みすず書房
1995年
2266円


 音楽についての文章は私たちの身近なところで、新聞、雑誌、書籍などに音楽そのものと同様にあふれ返っています。私たちの日常に現れるこれらの文章の中に次のような3つのタイプを見つけることができます。

 第一は新聞の演奏会やCD評に代表されるグルメ評論タイプのものです。「……口の中に入れたとたん、とろけてしまいそうなまったりとした味わい……」はレストランを紹介するグルメ評論によく現れる表現ですが、音楽評論や音楽批評とされている文章の多くもこの種のグルメ評論と基本的に変わりはありません。料理の味と同様、音楽も文章で表すことは大変難しいものです。どうしても著者の主観を示す感覚的な単語の羅列ということになってしまいます。

 こう言ったからといって、この種のものは意味がないというつもりはありません。新しいレストランを開拓するときの参考になるように、新しい演奏家を、CDを、未知の作曲家を探そうとするときのガイドブック代わりになります。とはいうものの、多くの新聞、雑誌に現れる音楽評論や音楽批評がこればかりではいささかウンザリというのも実感です。

 2番目は音楽辞典の項目タイプのものです。音楽史の事実、作曲家の伝記、楽曲の来歴や形式など、音楽辞典を引く手間を省いてくれる便利なものです。これはこれで、実用的ですが、いささか退屈ではあります。

 3番目は読者無用タイプの文章です。専門的な雑誌の論文に見られるもので、もっぱら書くことに意味があって、一般の人たちが読むことはほとんど想定されていません。学問とはそういうものでしょうが、実用性には大いに欠けています。

 さて、サイードの「音楽のエラボレーション」は、これら3つのタイプのどれにもあてはまらない文章です。この本のキーワードは書名にもある「エラボレーション」です。本文中でも、「洗練化」「変成」「練磨」「変容」「練磨育成」「加工」「想像加工」「練り上げ」「練成」「成熟」など、様々な訳語が当てられているように、一つの日本語で言いあらわすことが困難なため書名ではカタカナになっています。

 この「エラボレーション」をめぐって、第1章の「厳粛な非日常性としてのパフォーマンス」では、過去や現在の社会にイデオロギー的に結びついている「クラシック音楽」が「練磨」され、社会とまた新たな関係を持っていく過程を、特にトスカニーニやグレン・グールドを例に、演奏やコンサートの中に探っています。

 第2章の「音楽における脱領域的要素について」では、特にワーグナーを例にとりながら音楽が社会の中で孤立した役割だけでなく他の領域に影響を与える「現  状の構造を維持する支配的様式」として見るべきことが語られ、この本の中心的な章となっています。

 最終第3章の「旋律、孤独、肯定」では音楽の内部で行われるエラボレーション、外部へのエラボレーションがブラームスの「ピアノのための変奏曲 ニ短調」などの具体的な作品に関わる著者の個人的体験をあげながら例証されていきます。そして次のような結びの言葉が語られるのです。

 「(シュトラウス)の『メタモルフォーゼン』のような作品によって可能になったパースペクティヴのなかでは、音楽は、作曲者の技量とか社会的権威について、ひたすら、それだけを語るような芸術であることをやめ、人間のさまざまな文化実践の多様なありようをとおして思考する様式、またそのような多様なありようとともに思考する様式となるだろう。そのような思考は、寛容で、強制をすることなく、そして、そう、もし、ユートピア的という語によって、世俗的なもの、実現可能なもの、到達可能なものを意味するとすれば、まさにユートピア的におこなわれるのである。」

 この引用からも想像されるように、サイードは、余りに楽天的に音楽が音楽の内部だけで語られてしまったり、あるいは音楽と音楽外のもの(たとえば社会)との関係が余りに無邪気に語られることのイデオロギー性を厳しく批判しているのですが、多分、こんな風に要約してみても、この本の魅力を伝えることにはならないでしょう。

 猛スピードで走る車に同乗させてもらいドライヴをしていると、知っているはずの土地から思いもかけない風景が次々と現れるといった風のスリリングな読書の楽しみを味わわせてくれます。ちょうどこの本の第1章で語られるグレン・グールドの演奏を聴いているときと似ていると言ってもよいかもしれません。

 「グールドの試み、それは演奏を − その圧縮された活気にあふれる過剰性によって − どちらかといえば催 事に近づけ、それをより極限的に、より異様に、そして人間の日常的現実をより超克したものにするだけでなく、他のコンサートとも異なるものにすることだった。」

 実際、サイードのこの本を読み終わると、何が書いてあったのか思い出すことは容易ではありません。しかし、あるスリリングな感覚、そして何か行為へと駆り立てるような衝迫力が残っていることに気づいてしまいます。こういう刺激的な書物がもっと音楽の分野にも多く現れることを望まずにはおれません。

 当然、グルメ評論のように気軽に読める本とは言えませんが、原著はカリフォルニア大学アーヴァイン校で行われた講演録であり、翻訳も読みやすいものとなっているので、それほど難渋するものではありません。

 エドワード・W・サイードは10年前に翻訳がでて日本でも話題となった「オリエンタリズム」の著者であり現代の代表的な知識人の一人として知られていますが、自身でピアノも弾き、この本のような音楽評論も書いているようです。