シリンクス音楽フォーラム 21
Staying abroad

私の海外滞在と音楽(6)


フランス、モンペリエ = 1985年8月〜1986年8月

北岸 恵子


[週末]

 2月から5月へ、モンペリエ近くの海は冬から夏へと変化する。この間、毎週あるいは隔週の週末、友人と海を見に行き、地中海の夏を待つこの地方の人々を身近に感じた。2月の海岸には枯れた草木が風に吹かれていた。友人の一人、学生のフィリップが竹を切って笛を作ってくれた。この笛は、ちゃんと音階が吹けて、やや調子はずれながら、1オクターブの音域を持つ。登山ナイフで作られた素朴な木の笛、今も私の書棚に大切に保存してある。

 もう一人の友人、マルティンの親友パトリシアのボーイフレンド、ピエールは、屋台のピザ屋をしていた。毎週日曜の午前、モンペリエの蚤の市が国鉄駅の南で開かれ、彼はそこにトラックで店を出す。何も予定がない日曜日には、遅く目を覚ました後、蚤の市の会場に向かうのが習慣になった。そこへ行くと仲間を見つけることができて、蚤の市の後、日曜の午後から夜への楽しい時間つぶしができる。

 ピエールとパトリシアは馬を持っていて、近くの海岸、マグローヌへ行く途中のランチにその馬を預けていた。ポプラの木の間を馬達が駆ける姿は美しい。乗馬もできるが、日本のような取り澄ました上流階級風の乗馬の雰囲気はなくて、価格も非常に安い。誘われてランチを訪れた私は、こわごわおとなしいと皆がすすめる馬に乗った。運動が苦手で、こわがりの私にとって、馬の背は高く、少しでも早足で馬が歩くと恐ろしくてたまらない。このランチでの数回の乗馬経験で一度落馬したものの、それなりに楽しい思い出である。

[ペイルー広場にて]

 モンペリエの旧市街にペイルー広場がある。ここにはローマ時代の水道橋が残り、種々の催しが行われる。絵はがきにもよく使われる場所で、真っ赤なカンナが咲く風景が南フランス風である。

 さて、4月のある土曜日、まだベッドでうとうとしている私の枕元の電話が鳴った。前夜、この頃の私らしく、遅くまでフランス風宴会で騒いでいて起きられない。受話器を取ると、日本でのフランス語の先生、コスタ氏の彼女、多佳子さんである。寝ぼけている私に多佳子さんは言う。ペイルー広場でその日開かれる留学生の集いに、モンペリエ大学やフランス語学校に通う日本人が参加して日本の歌を歌うつもりである、ついては、会場にあるキーボードで伴奏してほしい、とのこと。

 多佳子さんの頼み上手に、簡単に引き受けたものの、電話を切ってから不安になった。有名な日本の歌ばかりということだが、曲目を聞くのを忘れた。楽譜など論外であるわけもなし、しかも不慣れなキーボードである。しかし、人前で演奏するのが根本的に好きな私は昼頃にはペイルー広場へ行った。広場の中心には、高さ1mほどの屋外ステージが設けられ、ロックバンドが演奏している。あのキーボードで弾くのだろうか。何とかなるだろうと日本人留学生のリーダー格、多佳子さんと打ち合わせをする。

 曲目は、浜辺の歌、もみじ、たき火、花(滝廉太郎)、と四季にちなんだ4曲、そしてフランスでテレビ放映中であった鉄腕アトムの主題歌、待つ間に歌いやすそうな、かつ弾きやすそうな調を考える。さて、本番、それらしい前奏をつけて弾き始める。10人ほどの日本人達が2本のマイクに向かって歌う。歌いやすいように、メロディーを弾いていてほしいと言われたので、右手でメロディーを弾き、左手で和音を適当にとる。

 不思議とアガリもせず、弾いているうちに調子が出てきて、鉄腕アトムのときには、タラタッタッターという合いの手のリズムも入れながら、楽しんで伴奏した。このようすは簡単ではあるが、その日の地方テレビのニュースでも放映されたそうである。日本人の知人が増えて、その後自宅に招いてくれた人もいて、音楽による交際範囲の広がりがうれしい1日となった。

[憧れのモンセラート]

 音楽好きの皆様、モンセラートMont Serratという地名をご存知だろうか。スペイン、カタロニア地方の山岳地域にある、教会である。ビゼーのオペラ、カルメンで、カルメンやドンホセが悪い仲間達と山の中をうろつき、育ちのよいドンホセが浮いてしまう場面があるが、彼らが根城にしたのはこの辺ではないかと思わせる厳しい山々がそびえる。

 私がこの地名を知ったのは、名チェリスト、パブロ・カザルスについての書による。モンセラートには、1000年以上の歴史をもつベネディクト派の修道院があり、この修道院はカザルスのミサ曲を演奏すると共に、それらの曲の出版を唯一許されているとのことであった。多くのクラシック愛好家と同様、パブロ・カザルスを敬愛していた私は、いつかこの地を訪れたいと熱望していた。

 バルセロナでは毎年、マリア・カナルスコンクールが開かれていて、大西津也子さんの父君で、私にとってはピアノ伴奏の師である林達次先生が、当時、そのコンクールの声楽部門の審査員をされていた。そのころバルセロナ在住であった向井悦子さんを始め、ヨーロッパにおられた林先生門下の人々が、この年のコンクールにもバルセロナに集まった。私も週末を利用してバルセロナへ向かった。コンクールの審査でお忙しい林先生にはお会いできなかったが、ドイツ留学中であった大阪音大の榎本利彦先生、石山高校にご勤務の奥様、八重子先生と向井さん、私で、モンセラートへ行こうということになった。

 バルセロナから車で訪れた春の週末、修道院ではミサが厳か、かつ華やかに行われていて、カタロニア生まれの気骨のチェリストをしのびつつ、少年合唱が教会に柔らかく響くのを聴いた。多くの観光客がこの地を訪れていたが、他のキリスト教関係の観光地と同じく、騒がしい感じはあまりなく、宗教的なものの方を強く感じた。もちろん、カザルスにちなんだみやげ物などは期待すべくもない。しかし、キリスト教の信者が宗教的な感慨を抱いたのだろうと同等の音楽的感慨を持って、私はその地を離れた。

[ロックとの出会い]

 ロックという言い方は時代遅れであろう。しかし、それ以外の広範囲なR&B、ロックンロール、エレキを駆使した音楽を指す言葉を知らないのであえてロックと言わせてもらう。私はフランスで住む以前、ほとんどロックを知らなかった。もちろん、小学生の時に世界中を興奮に巻き込んだビートルズはかなり聴いた世代ではある。フランスでの若い友人達は、仲良くなるにつれて、私のピアノ演奏を楽しむのと引き替えに、古典的なロック音楽を教えてくれた。フィリップは自分自身、エレキギターをたしなむので、レコードをかなり持っていた。彼らからすると、私という日本人は、東洋人でありながら、これだけヨーロッパ発のクラシックピアノができるのだから、自分達の好きなロックも理解できるはずだ、というロジックである。

 ジミー・ヘンドリクス、レインボウ、エリック・クラプトンなどなど。私のロック修行は、翌年、アメリカへ移ってさらに、レッド・ツェッペリン、スコーピオンなど広がっていった。田舎都市、モンペリエでも有名、無名のロックライブがあり、ときどき友人達と聴きに行ったりもした。私は30にして、遅ればせながらロックの手ほどきを受けたのである。井上建夫氏のお好きなジョプリンやゴッチョークを私もレパートリーに持ちたいと思ったのは、このことがきっかけになっている。

 酔った時に、私の主題歌として定番になったのが、エリック・クラプトンの”コカイン”である。Cocain=コケイン、変形してケイコ、という下らないだじゃれであるが、ふだんは(フランス人と比べて)おとなしいのに、感情の起伏の激しい私を揶揄した歌として、友人達の間で面白がられた。リズムがいかにもアメリカのヒッピーぽくって、私自身、日本にいるときと違う、優等生から逸脱したその雰囲気がうれしかった。

 レインボウだったと記憶するが、あるバンドの東京公演がライブレコードとして販売されていて、そのアンコールの曲がかの有名な”荒城の月”であった。ロックと”荒城の月”は、ミスマッチの感がなくもない。レコードに収められた荒城の月は、ロック風アレンジもなく、オリエンタル風情緒を前面に出したもので、日本語で歌われている歌詞が聞き取れない、日本語と思えない以外には、変な演奏ではなかった。これを聴いたフランス人の友人達は、皆、日本の音楽は素晴らしいと誉めたたえてくれた。我が親友、フィリップ君は、歌詞の意味を教えてくれ、と頼んできた。

 あまりに真剣なので、思わず、偉大な土井晩翠先生の詩をフランス語で説明を始めたのだが、1番だけでどのくらいの時間がかかっただろうか。日本語でさえ、難解な”春高楼の花の宴....”を、私の幼稚なフランス語で説明するのである。冷や汗を流しつつ、これこそ真の文化交流である、と一生懸命に少ないフランス語の語彙を駆使した。何とか説明を終えて、素敵な詩だね、とフィリップが言ってくれたとき、説明の出来映えはさておき、爽やかな疲れを感じた。

[フランスでの食べものについて:その2---若者風宴会]

 1986年のフランス生活は宴会のオンパレードであった。フランス語でフェトFeteという。パーティーというのが良いのかもしれないが、洒落たパーティーというより、友人同士のお楽しみ会といった趣である。

 飲物は主として赤ワイン、しかしウィスキーやビール、パスティスもある。食べ物は、フランスパンにチーズとパテ、野菜サラダが定番、宴会によっては特別なテーマの食事がでることもある。例えば、ムール貝のマリネ、チーズ・フォンデュなどというように。

 フランスに行って半年くらいは、パーティーの途中で居眠りをすることがあった。時には、酔いも相まって本当に横になって仮眠をとったことすらあった。Keikoはよく寝ると言われていたある日、気がついた、これはフランス語のせいだと。日本語の宴会だと眠くならない。興味のない、私にとってどうでもいい話題を無意識のうちに聞き流している。フランス語だとどうだろう。すべての話を真剣に聴いて考えて、その後に興味の有無を判断することとなる。

 さらに、自分の意見を言う時、フランス語の時の知的労働の度合いは日本語の比ではない。また、フランス人との付き合いにおいては、つまらないことでも自分の意見を言わないと会話が成り立たないので、この労力の差は大きく、フランス人との宴会では集中力、判断力、知力を大量消費して、宴会途中にして眠くなる。回を重ねる度に慣れてきて、この傾向はましにはなった。

 何人かに自宅に呼んでもらって宴会をしたが、私のアパートでもときどき集まった。ヨーロッパやアメリカに居を持たれた方、友人のおられる方はご存知と思うが、向こうの家やアパートは日本より、間取りが大きい。学生も日本より広い部屋に住んでいて、広いアパートを複数の学生で共同で借りることもよく行われている。したがって、学生でも宴会がしやすくなっている。3月3日にフィリップの誕生会兼ひな祭りパーティーを私のアパートでしたところ、好評であった。

 フィリップはモンペリエ近郊のモロサン出身で、同じモロサンから来て仕事や研修でモンペリエに住んでいた彼の友人達、ジャンとアンリが、自分の誕生会もやってくれないか、と言ってきて、その後も頼まれるままに誕生会や日本食の会を行った。日本食といっても材料に限定されるし、日本から食品を送ってもらうことをしていなかったので、作れるものは多くなかった。よく作ったもの、好評だったものは、肉じゃが、てんぷら、チラシ寿司であろうか。

 自宅でのパーティーの時はいつも、ピアノを弾いて、と頼まれた。酒宴の真っ最中でも、皆、静かに聴いてくれるので弾きやすかった。その意味のマナーの良さは、日本とは比較にならない。この頃よく弾いたのは、ショパンのワルツ、シューベルトの即興曲、モーツァルトのトルコ風行進曲などである。特に喜ばれるのが、ショパンの子犬のワルツとモーツァルトのトルコ風行進曲。ポピュラーな曲を数曲レパートリーとして持つことの重要性に気が付いた。

 誕生会のお礼として、ある日彼らはチーズ・フォンデュ、すなわちフォンデュ・フロマージュの会を私のアパートでしてくれることになった。まず、大きなスーパーマーケットのチーズ売り場でチーズを買う。ここで、売り子の女性に彼らはフォンデュ・フロマージュの作り方、すなわちチーズの配合などをきいている。我がアパートに帰り、チーズの塊をフォンデュに使えるようにさいの目にきざんで鍋に入れる作業が始まる。

 Keikoはお客さんなのでしなくてよい、作業が楽しくできるようによかったらピアノでも弾いていて、というので私はチーズ刻みの横でピアノを弾いていた。チーズにはかなり固い種類のものもあったようで、小さいナイフが1本曲がってしまって、料理の準備は完了。フィリップ、ジャン、アンリの3人のチーズ・フォンデュ・パーティーには、日本人も含めて10人近い人が集まった。味はなかなかのもので、パンをチーズの中に落としたら罰ゲームというのもパーティーを盛り上げた。

 夏には、フィリップ、ジャン達と海辺での国際バーベキュー F´ete internationaleというのを企画して行った。モンペリエの語学学校の日本人達にも声をかけたので20人を越す盛況、砂浜で廃材の木を使って火をおこす、という本格的なものであった。昼間は太陽が照りつけ、にぎわう海岸も、夜は人がまばらで涼しい。バーベキューとワインで空腹が満たされた後は、火の回りに座っておしゃべり。映画だと、恋人同士や気の合った2人が肩を組み合ったり、という光景なのだが、実際は車座で話し合うことの方が多い。

 映画のような光景はこのおしゃべりの後、気のあった2人が秘かに展開しているようであった。男女の交際においては、いつの間にか日本の方が、公衆をはばかるところがないように思うのは私だけだろうか。フランス滞在後、アメリカ生活を経た私が、日本で電車に乗って驚いたこと、それは若い男女が平気で抱き合ったりしている姿であった。