シリンクス音楽フォーラム 21
Staying abroad

私の海外滞在と音楽(7)


フランス、モンペリエ = 1985年8月〜1986年8月

北岸 恵子


[5月はもう初夏]

 パリでは5月1日は春たけなわであろうが、南フランスの5月1日は初夏の最初の日である。4月にオンボロのルノーを購入した私は、5月1日の祭日、フィリップとドライブにでかけた。ソミエール(Sommieres)が主な目的地であったが、その途中いくつもの小さな街を抜ける。途中で車を降りて、お互い写真を撮り合ったが、今見ると、私は初夏らしくタンクトップ姿。ポプラの並木がすでに暑そうであったのを思い出す。

 5月の週末の数回は海岸で過ごした。水はまだ冷たいが、土地っ子達はトップレスやヌードでせっせと肌を焼いている。日差しはきつく、私もあっという間に真っ黒になってしまった。

 6月ともなると、ラベンダーが咲き誇る。紫色の絨毯を敷いたような気品、近寄ると自然の芳香が漂う。ラベンダーは、ロマンティックな色と香りの思い出であり、ラベンダーの香水を愛用するようになったのは、その思い出を忘れたくないからである。

 フランスは他の主要な欧米諸国同様、サマータイムを採用している。ある日、突然、時計は1時間早められる。研究室の秘書、リンに尋ねた、“サマータイムへの切り替えの夜、夜行列車のタイムテーブルはどうなるの? テレビやラジオは何時で1時間進めるの?”リンの答は“私は切り替えの時間には寝ているので知らないわ。”(!!) 6月から7月ともなると、日本より緯度が高いフランスのサマータイムでは10時近くまで明るい。6時頃仕事を終えて、海岸までドライブしても、泳いで日光浴する時間はたっぷりある。昼間より太陽の光の優しい浜辺は人も少なく、仕事の疲れはあっという間に癒される。

 そして、7月、8月、海は南仏以外の人でいっぱいになる。南仏っ子は、名のある海岸を観光客に譲り渡し、観光客の来ないシャワーもホテルもない田舎の海岸でこっそり日光浴を続ける。しかし、乾燥した南仏の気候はシャワーなんて必要としない。車の蔭で着替え、服を着て帰宅してゆっくりシャワーを浴びる、それで十分なのである。

[アンドーラへの旅]

 フランスとスペインの国境にアンドーラという国がある。小さいけれど、モナコと同じく独立国である。5月の連休を利用して、アンドーラへ行った。フィリップの親友、ジャンの誕生パーティーを私のアパートで行ったとき、フィリップの友人達がアンドーラへの一泊旅行に、我が友、マルティンを誘った。私も誘ってよ、と言うと彼らは快諾。さて、その週末、出かけるとなったとき、驚いた。マルティンは行かないということだ。他に女性はいない。関税のかからない、しかも美しいという噂のアンドーラへは行きたい。待てよ、ここはフランスである。男の子の中に一人いても非難されることはなかろう、行ってみよう。

 という訳で、フィリップ、クロード、アンリ、ジャン、ジャックというベジェ出身の5人の20代前半の男の子達とアンドーラへのドライブ旅行である。ベジェのフィリップ宅に泊まって、翌朝、出発。車は2台、初夏の風景の中をスペインへと走る。ピレネーの山中のホテルへ着いて夕食、鹿肉を中心にした素朴で野趣あふれる焼き肉料理、皆で騒ぎながらおいしく食べる。ホテルの周辺には雪が残り、散歩する心を浮き立たせる。

 翌日、アンドーラの商店街へ向かう。アーケードのある店の並びは予想以上に大きく、ウインドウショッピングを楽しむ。私は、何本かのカセットテープ(クラシックと彼らお薦めのロック)と安物だけれどしゃれたデザインのアクセサリーを買う。連れの若い男性たちは歩くのが速く、つい遅れ気味になり、私は小走りになってしまう。剽軽なジャンは心優しい男の子で、何度も仲間に“恵子に合わせてもう少しゆっくり歩いてあげて”と声をかけてくれた。

 この旅行の途中、小さな教会でとった写真が残っている。5人の男の子の間でニコニコ笑っている私、異性関係の話題の寂しい私の人生にとって2度とない快挙の証拠だ。

[Fete de musique]

 モンペリエの fete de musique、音楽のお祭が6月下旬行われた。フィリップと隣の研究室の悪友アランが、音楽好きの恵子がこのお祭を逃す手はない、とそそのかす。ちょうどバルセロナから週末を過ごしに来ていた向井悦子さんを加えて4人、街に繰り出す。オペラ座の前の通りには、特設の野外舞台が作られ、ラングドック・ルーション・オーケストラがコンサートを始める。心踊る曲の数々。ロック以外の詩の付いた音楽を認めない、特にオペラなんて噴飯ものだと言っていたフィリップとアランがビゼー、カルメンの闘牛士の歌に合わせて歌い始める。

 "Toreador, en garde! Toreador! Tor ador! Et songebien, oui, songe en combattant qu'un oeil noir te regarde......L'amour, l'amour t'attend!"

 モンペリエオーケストラ野外コンサートの後、街のカフェのあちこちでさまざまな音楽が聴こえる。私たちはその中、夜が更けるまで、おしゃべりとお酒を楽しんだ。

[モンペリエ夏の音楽祭]

 ラジオフランス主催のモンペリエ国際音楽祭の名を聞くことが少なくなったが、10年前の1986年には第2回が7月12日から8月4日の約1カ月にわたって華やかに行われた。ほとんど毎日、複数の、時には5種以上のコンサートが、モンペリエ市内、あるいは周辺の町で行われる。有名な人から新人まで、曲もポピュラーなものからめったに演奏されることのないものまで、実に多岐にわたったプログラムであった。

 どのコンサートに行こうか、迷った。特に7月は研究室との契約の最後の月、順調とは言い難かった仕事のまとめもしなくてはいけない。パリのソルボンヌに留学中の音楽研究会の後輩、平松希伊子さんが、パリの大学都市が夏休みで閉鎖になるため、7月中旬から1カ月ほどモンペリエに行ってよいか、と聞いてきた。もちろんOKである。彼女もこの音楽祭のいくつかは聴きたいとのこと、気のあった友人と日本語で暮らす1カ月も楽しいだろう。

 彼女が到着するまでにまず、音楽祭開幕のメゾソプラノ、クリスタ・ルートヴィヒのリサイタルへ行った。クリスタ・ルートヴィヒは一度は聴いてみたかった歌手である。“四季”というテーマのこのコンサートは、クリスタ・ルートヴィヒとピアニスト、朗読者の3人が舞台に現れる。春夏秋冬の4部構成で、それぞれの季節にちなんだ歌曲とランボー、ヴェルレーヌ、ヴィクトル・ユーゴーらのフランスの詩の朗読がほぼ交互に行われた。雨の少ない夏のモンペリエで、珍しく泣き出しそうな天気の下、回廊に囲まれたこじんまりした野外ステージの最上の席でこの表情豊かな歌手の声を満喫できた私は幸せである。

 希伊子さん到着の夜はフランス国立管弦楽団のコンサートで、彼女は駅からコンサートに直行した。Cours Jacques-Coeurというスペイン風の古い広場で行われた、ペンデレツキ、マーラー、チャイコフスキーのプログラム。マーラーの“亡き子を偲ぶ歌”のソリストは、クリスタ・ルートヴィヒの予定が変更になり、代役の出来はあまり大したことはなかったが、オーケストラがよく弾いていた。

 コンサートの後で思わぬハプニングが起こる。私が研究室にアパートの鍵を忘れてしまった。私のいた研究所は戸締まりが厳格で、夜遅く入室するのは不可能。アパートに帰れない。日本人2人が急にころがりこんでも大丈夫な友達の家はどこだろう。あいにく、このようなトラブルの時に頼りになる肝っ玉のすわった多佳子さんは日本へ一時帰国中、狭い1室のアパートの友人の家には2人で押し掛けられない。

 そうだ、フィリップの所はかなり広いアパートで、2人の泊まれる部屋が準備できるだろう。フィリップと彼の悪友達は、私が語る、知的で、フランス語がうまく、フランス人と並んでも見劣りのしない背格好の私の友人、Kiikoに会えるのを楽しみにしていた。ここは日本ではない、フランスの男の子はこのようなことに動じやしないはずだ。予想はあたった。私達2人はフィリップのアパートの1室を占領して、少なくとも私は心地よい眠りについたのである。

 モンペリエに着いたばかりの希伊子さんにとんでもないハプニングは続いた。翌日、私達3人は海岸にでかけた。訪れたパラバスの町には夏のバカンスを目当ての臨時遊園地の設備が設けられ、メリーゴーランドや昔のパチンコやスマートボールのような遊具があった。童心に戻って夜遅くまで遊んで、あげくの果てに真っ暗な深夜の海を泳いだ。そして希伊子さんを気にいったフィリップ宅にまた泊まる。

 その翌日も、フィリップを交えた3人で、私のアパートで夕食を楽しんでいた私達、酔った勢いで深夜、アパートのプールに行こうと突然決議した。言い出したのは若いエネルギーに満ちたフィリップ、賛同したのは下らないことにすぐのる私、希伊子さんは後日聞いたところによると呆れていたようだが、付き合いの良い人だからノンとは言わない。私のアパートにある小さなプールは、夜は保安のため施錠されている。いつもプールに入るときに使う入居者用のカードでは夜には扉が開かない。2メートル半ほどある囲いの網に登りつき越える。若いフィリップがまず中へ、そして私達も何とか越えて入り込んだ。風もなく人もいないプールはアパートの各所に点いている照明を映して静かに私達を迎えてくれた。

 このプール不法侵入の翌日は日曜日、昼頃のみの市にでかけ、その後、モンペリエから一番近い海岸へ向かう。そして夕方から、またまた希伊子さん、フィリップの3人でチェロのリサイタルへ。この日は若い新人のチェリストのコンサートなので、入場料が安く、昼の遊び疲れをチェロの音色で癒そうという魂胆である。行って驚いたことに、受付にいたのは研究室でしばらく産休代替の秘書をしていたリン、結局、彼女が私達3人を無料で中へ入れてくれた。その時、前年の第1回のモンペリエ国際音楽祭も手伝ったリンが語ってくれたが、第1回モンペリエ国際音楽祭には音楽祭を皆で作ろうという気概が町にみなぎっていた、しかし2回目はどこかが違う、音楽祭がビジネスライクになってきている、ということだ。ほとんど全ての催しは商業主義の魔手を逃れるのが難しい、民衆の手作りの盛り上がりと商業主義が同居できるのは稀であろう。

 この音楽祭で、最後に行ったのはサリエリのオペラのコンサート形式での上演であった。サリエリは、アメリカ映画“アマデウス”での悪役であるが、現在、頻繁に演奏される作品はほとんどない。当日演奏されたのは“ダナイード”というオペラで、黎明期のオペラによくある神話に基づいた悲劇である。同時代のグリュックの“オルフェオ”との類似点もプログラムの解説には述べられている。当代きってのスペインの名ソプラノ、モンセラート・カバリエが主役を歌って、他の歌手達もそれなりに頑張っていた。舞台はエジプト、どんな簡単な演出でもよい、衣装と背景だけでよいから、完全なコンサート形式でなくオペラの香りのあるものを見たかったと思わせた興味深い音楽会だった。

 今、音楽祭全体のプログラムを見ると、聴いておけば良かったと思うのがいくつかある。特に、一つも行かなかったピアノのコンサート、チッコリーニのデオダ・ド・セヴラックのピアノ曲のリサイタル、ショパン・コンクールで賞を受けたばかりのジャン-マルク・ルイサダのリサイタル、アンドラーシュ・シフのバッハ平均率の等々。他にも、普段あまり聴くことのないプログラムがいくつもある。200フランより高いチケットなど一つもない。仕事をさぼってでも音楽会ざんまいすべきだった、とつくづく後悔している。