シリンクス音楽フォーラム 22
Concert on Air

コンサート・オン・エア(12):カラヤン(その6)
(FMライブの世界:改題)

高橋 隆幸


[演奏におけるロマン主義について]

 私は前回、独断と偏見に満ちた前提とその論理的帰結によって、カラヤンの演奏様式をロマン主義であると断定した。これは重要な問題であるので、今回はあと始末も兼ねて、この問題に関する私見をもう少し述べたい。

 まず、前回に述べた私のロマン主義の定義に関しては余り問題は無いと考えられる。一般的にはどの様に定義されているか、例えば、アメリカの作曲家アーロン・コープランドの言葉を借りれば、“音楽が単に音そのものではなく、ある意味を持ち、聴き手に心理的な反応を呼び起こすことを目的とする考え方”ということになる(「現代音楽入門」、アーロン・コープランド著、音楽新書 p.20)。言い方の違いはあるが私の定義と本質的に同じと考えられる。もう一つ、コープランドの定義は作曲家としてのロマン主義を述べたものであるが、これはそっくり演奏の分野にも当てはめることが出来る。

 さて、一般的と考えられるロマン主義の定義は2つの部分から成り立っていると考えられる。すなわち(1)音楽はある意味を持ち、(2)聴き手に心理的な反応をもたらす、というふうに単純化が可能である。問題は(1)の部分である。ベートーベン以降の19世紀ロマン派の音楽家は、音楽が何かを語ることが出来ると信じて行動し、それまでの音楽の歴史とは大きく異なる、独自の世界を築いたことは疑いもない事実である。音楽史における19世紀は“音楽が何かを語ることが出来るか”という命題に関する壮大な実験期間であったと考えられる。

 そして20世紀、特に今世紀後半の人間はこの実験の結果を客観的に眺めることができる。その答えは誰もが考える通り、“音楽は具体的な物事、思想を語ることは出来ない、しかし、言葉や視覚等で示される事象の多様な雰囲気作りが可能である”ということになろう。結局のところ、この雰囲気作りの能力を拡大解釈すれば、音楽は何かを語ることが出来る、という考え方も成り立つのかも知れないが、具体的な事柄を確実に、と言うことであれば、この考え方はもちろん否定せざるを得ない。

 カラヤンはこの問題に関し、“例えば、聴き手が歯痛に苦しんで居れば、同じ音楽でも全く違った受け止め方となる”という比喩を用い、音楽の伝達能力の不確実性について述べている。カラヤンに限らず、現代の演奏家のほとんどは(1)の“音楽がある意味を持つ”という点に関しては否定的であると考えられる。

 それでは(2)の“聴き手に心理的な反応をもたらす”という点に関してはどうであろうか。ある音型が確実に、再現性を持って、具体的な心理反応を引き起こすことは困難であろうが、何らかの心理反応を引き起こすという点に関しては誰しも異存のないところであろう。私見ではこれこそが音楽の本質であり、人間が音楽を創造するにしろ、享受するにしろ、音楽の最大の吸引力はこの点にある。

[音楽は音のドラマでありロマンである]

 さて、本来のロマン主義の定義のうち前半が半ば否定され、一方、音楽の本質はそもそも後半の定義に合致するものであるという結論が導かれた。そうなればすべての音楽(演奏も含めて)はロマン主義かという疑問が出てくる。古典対ロマン主義という概念はすでに確立したものではないか、という疑問はもっともなことである。

 ここでコープランドの先の著作にもう一歩踏み込んでみたい。彼は新古典主義の立場から、現代音楽への道は19世紀ロマン主義に別れを告げることから始まったと述べ、いわゆる古典とロマン主義というものの相違について真剣に論じている。その中の一節を要約して引用してみたい。

 “古典派の作曲家の場合、客観性を尊び、非個性的な雰囲気がただよっている。音楽が本来、感情を人に伝えるという性質を持っていることは古典派の人々にとっては余りに自明の理だったのだ。だから、素材を職人的な能力によって処理しさえすればほかにどんな誇張もする必要がなかったのである(同上、p.19)”。

 興味のあることは下線の部分で、これは“聴き手に心理的な反応をもたらす”というロマン派音楽の定義と同じ意味になる。コープランドは古典主義というものの定義を述べたつもりであるが、これは結局、古典派の音楽も本質的にはロマン主義である、あるいはロマン主義の一亜型である、と言っているのと同じことではないかと私は思う。それではコープランドの古典主義の定義が特殊なのでは、という疑問が生じてこよう。しかし私は、この定義はごく一般的なもので、これ以外は言いようのないものと思う

 私が長々と述べてきたのは要するに、音楽における古典主義とロマン主義という区別に対する疑問である。私はこの二つの概念を完全に否定するわけではない。時にはこの概念を持ち出すのは便利であるし、問題点を理解する方便として残しておいても良いと思う。しかし、音楽の世界の憲法のように考えるべきではない。私にとっての音楽は以下の様になる。音楽は本質的にロマン主義であり、音楽独自の言語による音のドラマである。念のために、音楽の言語とは通常の意味での言葉、思想および視覚による映像とは異なるものであり、音楽が他の芸術とは全く違う独自の世界である所以がここにある。

 演奏の分野でも同じ考えがあてはまる。トスカニーニは古典主義の、フルトヴェングラーはロマン主義の代表という言い方がよくなされる。それではトスカニーニは完全なアンサンブルおよびスコアどおりの音楽の創造を究極の目的としていたのであろうか。私にはそうは思えない。トスカニーニのレコードを聴いて感じるのは、音楽の訴えかけの強さ、単位時間にもたらされる情報量の多さである。

 ウィーン・フィルハーモニーの元ファゴット奏者ブルクハウザーは、トスカニーニがリハーサルの時にスタッフに訴えた言葉を伝えている。「あなたたちみんなに、火が、情熱が、決意が欠けているんだよ。奥深い所からすべての霊たちを喚び出すべきだ」(ウィーンフィルハーモニー。フーゴー・ブルクハウザー著、文化書房博文社。p.121)。トスカニーニの音楽は表面的にはイン・テンポで音響体としての形の美しさを追求したように思えるが、本質的に音楽のもたらす心理的効果を最も重視しているものと考えられる。

 トスカニーニに限らず、音響体としての美しさのみを追求している演奏家が果たして存在するのであろうか。イン・テンポやスコアに忠実であるか否か等というものは表面的なことであり、要は音楽のもたらす心理的効果をどれだけ重視しているかがロマン主義というものの尺度である。この意味でカラヤンはトスカニーニ、フルトヴェングラー以後の指揮者の中で傑出した存在であった。