シリンクス音楽フォーラム 23
Review/Performance
油井 康修

悪夢のモーツァルト

セレス・アンサンブルによるモーツァルト弦楽五重奏曲
1996年9月29日
セレスホール(丸子町)


 (譜例は表示できません。)

 朗々たるチェロの響きが低音ドからトニカの和音を上昇していく。第一ヴァイオリンが高みから柔らかく受け止める。この掛け合いが全楽器の合奏にとけあったところでハ長調のフレーズはひとしきり止む。やおら第一ヴァイオリン奏者が会場の方を向き「いま演奏したのはモーツァルトの....」ウーン、一瞬何か別次元のものが飛び込んできてフッと目が覚めたような、それでいてそこはまだ悪夢の中にいるような変な気分の中で、弦楽五重奏曲ハ長調 K.515の解説が始まった。 今回取り上げる演奏会は、前回のレヴューで紹介した丸子町のもう一つのホール「セレスホール」でのもの。

  9月29日 セレス・アンサンブルによる
    モーツァルト:
      弦楽五重奏曲ハ長調 K.515
      弦楽五重奏曲ト短調 K.516

 セレスホールの「セレス」というのはギリシャ語で「絹」の意、ここ丸子町にしろ隣の上田市にしろ、この辺り一帯は戦前生糸の一大産地だったことから、それにちなんでの命名である。このホールのすぐ隣に今も「シナノケンシ」という会社がある。時代の流れか、名とは異なり繊維以外のものをつくっているようだ。ちなみに、いま私が勤めている高校も、かつては小県蚕業学校といっていたもので、いわばこの地はセレスの霊に満ちていたところだった訳だ。

 この日の演奏会は、セレスの地で結成されたセレス・アンサンブルの旗揚げ演奏会であった。もっとも第一ヴァイオリンの浦川宜也氏は東京芸大教授、他の4人は「オーケストラ・アンサンブル金沢」のメンバーであり、ともにこの地とは深いつながりがあった訳ではないようだ。ただセレスホール自体はなかなか音響がいいホールとされており(収容数 800人に満たず、中規模程度)、これまで録音会場として使われたこともある。

 この辺りからつながりができたようで、さらに暫く前から、よいホールを造るだけでなくそのホールを根拠地にした演奏団体を育むべし、という新しい考えが打ち出されてきており(欧米では・・珍しいことではないだろうが)、この場合もそれに沿うものなのだろう。セレス・アンサンブルの演奏会は、この後、金沢、次いで京都でも行われたはずで、シリンクス参加者の中には聴いた方もいるかもしれない。

 さて演奏会に戻るとしよう。とにかくソナタ形式の解説からはじまって演奏曲2曲の全楽章に及ぶ説明と、時に部分的な演奏が入ったものだから、これだけで小一時間はかかっただろうか、いやはや疲れた。どうもホール(主催者)側が聴衆に配慮して演奏者に依頼したものらしい。浦川氏もこういうのは一寸慣れていない感じで、マイクを持ったり忘れたり、まったくご苦労なことでした。そもそもこの曲目を見て来るくらいの人ならば解説など要らないだろう。

 会場の方はというと、名曲中の名曲とはいえ、弦の五重奏とあってか、曲の入りも見事なもので、私も難なく真正面の特等席を確保しえた次第だ。冒頭、演奏が中断した悪夢は解説中なんとなく薄れてきたが、その分演奏に対する新鮮な気持ちは大分消えてしまった。しかしとにかく気を取り直して....

 今回この2曲を聴いて感じたことは、これだけ名曲とされている曲の中にも、案外面白味の少ないところもあるな、ということだった。二大名曲を前にいきなり面白くないところがあるなどとは、何をバカなことを言い出すのかと叱られそうだが、実際聴いていてしばしばそう感じだのだから仕方がない。これはセレス・アンサンブルの演奏の善し悪しとは関わりがない。というより、セレス・アンサンブルの演奏を聴いていて聴き取ることができたと言うべきか。

 どちらの曲も、とりわけ第一楽章は大変立派なもので非のうちどころがない。ハ長調の冒頭のチェロとヴァイオリンの掛け合いが次第に間を詰めていき、ついに全楽器の合奏に至る展開の仕方には、まぎれもなくモーツァルトの天才が横溢しているように感じるし、随分長いフレーズは一層堂々とした雰囲気を作り出していると感じられる(譜例1)。

 ト短調の冒頭に至っては、もう霊感がほとばしっていると言っていいだろう。巧みに織り込まれた休符、チェロの低音を欠く不安定感、リズムセクションの簡潔さ、どれをとっても素晴らしい(譜例2)。それなのにまったく逆に、いかにも才気に乏しい旋律の見られる箇所もあるのだ。ベートーヴェンだったら、一見何気ない大して面白味のない一節から、実に活気に満ちた音楽を組み立ててしまうのだが、モーツァルトの場合は旋律そのものがすでに魅力的であり、その素晴らしさが次々に新しいものを生み出していく、といった時にまさにモーツァルトらしいのだ。

 どちらの曲にも共通して言える不満は、第一楽章に比べて終楽章がいささか平板だ、ということだ。ハ長調の終楽章はハイドン風とでもいうか、軽快な感じのテーマだが(譜例3)、まさしく軽い。もちろんスリリングで急速なパッセージあり、フーガ風展開あり等いろいろ工夫はこらされているが、テーマに戻ったときの感激の度合いがなんとも乏しい。

 例えば、テーマ − 変化 − テーマ − 展開 − テーマといった具合に曲は紆余曲折し、そこを私たちは味わいつつ、一方テーマが戻るたびにそこに安心感とともに、何か新しいふくらみのようなものが広がってくるのを期待するのだが、この楽章にはどうもそれが乏しい。ト短調の第四楽章もやはりテーマがもう一つに感じる。

 何かを求めて上方へ手を伸ばしてせり上がって行くようなテーマだが、どうも弱々しく、何もつかむことなくずり落ちていってしまう、そんな風に聞こえる(譜例4)。前にニ短調のピアノ協奏曲終楽章への失望を書いたが、どうも短調の曲の中には、冒頭にこもる霊感の異常な高さが、かえって終楽章のしめくくり方を非常にむつかしくしているものがあるようだ。

 ハ長調メヌエットの主題ももう一つモーツァルトらしさが感じられない。第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンによる三度音程のテーマはいかにもありきたりだし、いささか重い。この楽章自体重い印象が強く、メヌエットらしさに乏しいようだ。それともメヌエットとは名のみか。ただし譜例5のように見事な部分もある。厚い和音の揺らぎから一転して軽やかな飛翔へと、以前述べた交響曲における変転の美しさをも思わせるような部分だ。

 ところでト短調弦楽五重奏曲の演奏というと、私にまず思い出されるのはアマデウス弦楽四重奏団のものだ。随分パッショネートな演奏で、モーツァルトにもこんなとんでもない曲があるのかと仰天したものだった。その後ブダペスト弦楽四重奏団のものを聴いてさらなるショックを受けた。普通アマデウス四重奏団ほどの印象の強い演奏を最初に聴いてしまうと、なかなかそれによる曲のイメージから逃れることが出来ないものだが、このときばかりは違った。

 当時の言葉を使うと、ノイエ・ザッハリッヒカイトの演奏解釈というのだろう。感情的なものは極力抑えて、曲の構造を感じさせるような、客観的な演奏(といって、これで演奏のイメージが湧いてくるかどうか)。ブダペスト四重奏団の音色もこれに見合って、およそ感情の乗らない、時にカスレ気味の音。しかしその一見淡々とした響きの奥に、なんともいえない深いものの存在を感じさせる。アマデウスの、高まった感情に乗って一瀉千里と流れる演奏と対極をなす。

 ト短調の演奏に関しては、この2つが私の基準として常にあったが、セレス・アンサンブルのものはこれに照らしてみると、中庸でややアマデウスよりか。ただ第一楽章冒頭のところが思いのほか音も強めで元気だったのが、いささかイメージはずれに感じた、といったところだ。それにしても実際の演奏と、それから作られるイメージというのは、どうも長い月日がたつにつれて時に随分乖離してしまうもののようだ。この演奏会の後で、久々にブダペストのレコードをひっぱりだして聴いてみた。

 思い描いていたほどの緊迫感は感じなかった。だからといってブダペストの演奏がそれほどのものではなかったのだ、という訳でもない。確かに現実の演奏がまずあって、私たちはそれに触発され曲に近づくが、一方その刺激が強いほど、感激が大きいほど、今度はそこから自らの曲のイメージをどんどんふくらませていく。そして逆に、その育てたイメージから、それに適った演奏を求める、という風になっていく。この時いったん作り上げた曲のイメージにとらわれ過ぎると、新しい演奏に出会っても、その新しさや良さに盲目となることなしとしない。常に新しいものに目覚め、さらに豊か・・なイメージを育てられるかが大切なのだろう。

 以前アルフレット・ブレンデルやアンドレ・ワッツの演奏の様子をテレビで見ていたときに感じたことがある。彼らの演奏中の表情、仕草はそれは大変なもので、そこに彼らの曲に対する大変豊かなイメージの存在を感じざるをえなかった。ワッツにいたってはもう最後の方は(リストのピアノ・ソナタだったが)涙がほとばしっていて感極まった姿だった。そして演奏もイメージをなぞるような(楽譜を追いながら弾くような)ものではなく、それはもう自らの中から溢れ出てくるイメージであり、溢れ出るイメージがそのまま演奏と化していくようなものだった。

 しかし一方、彼らの表情ほどには、テレビのせいもあるかも知れないが、実際に出てくる音が凄いというものでもない。私たちが知っている曲が鳴っているだけだ。ブレンデルにしてもワッツにしても、彼らの描くイメージといま自分で鳴らしている音とが本当のところどこまで一致しているのだろう。是非知りたいものである。

 セレス・アンサンブルは、時には内外のプレーヤーを招き、また様々な編成の室内楽を試みるなど、なかなか意欲的な計画を持っているようであり、地元の者としても今後を期待したい。なお最後に一言、このコンサートでもあったが、この頃の演奏会でよくアンケートの記入を求められる。もちろんその意図はよく分かるし協力するにやぶさかではないが、それにしても何かゆっくり聴く気持ちを殺がれるのも事実なのだが、どんなものだろう。

(1996/12/1)