シリンクス音楽フォーラム 23
Visiting Bayreuth


バイロイト体験記(1)

伊達 容子


 この夏、バイロイトに行ってきた。ヴァーグナー好きの私にとってはバイロイトは憧れの地であった。今回ほとんど発作的にバイロイト行きを決めたわけだが、チケットを入手できる確信があり、その点での障壁はなかったものの、逡巡はあった。ヘルデンテノールの不在である。同じ行くのなら圧倒的なヘルデンテノールのいる時にと思ったが、そんなものいつまで待ったら良いか分からないのでとにかく行くことにした。

 今年のバイロイトは指輪とそれ以後の3作品というプログラムであった。結論を先に言うと、とにかく素晴らしい、あの雰囲気は行ってみないと分からないということである。すべてに満足したわけではない。ヘルデンテノールの不在はその一つであり、しかもかなり深刻な問題である。しかし、それらを補ってなお余りある感動を与えてくれたのである。

 バイロイトには8月10日に到着した。実はこれに先立ってベルリンに3週間、ヴァイマールに1週間滞在した。ベルリンは至るところ工事現場という有り様で有名なポツダマープラッツなど工事を見学するための建物を建設するという念の入れようである。とにかく街の再生に向かってひた走っているのである。しかも夏季はベルリンフィルもオペラも休みで一観光客に何が面白いのかという気もしたが、それでも一度ベルリンを見てみたかったし、実際行ってみて良かったと思う。ヴァイマールは地図の上ではベルリンとバイロイトの中間に当たる。移動するのに便利だしと思って安易に決めたのであるが、実際には乗り換えに次ぐ乗り換えで大変だった。乗り換える駅と電車番号は分かっているが、今どこを走っているのか分からないという経験をした。

 ヴァイマールは音楽に興味を持つものなら一度は訪問したい地である。しかし、実際行ってみるとゲーテに席捲されている。当然と言えば当然だが。ゲーテの足跡には容易に遭遇できるし、かつすべてたどるのは不可能である。それにひきかえバッハの足跡に遭遇するのは困難で、かつすべてたどるのが可能である。バッハの住居跡にはそれを示すプレートを見るのみで、膨大な資料を展示している数多のゲーテゆかりの地とは雲泥の差がある。

 ヴァイマールから近隣のライプツィヒ、アイゼナハにも足を延ばした。ライプツィヒは真剣にバッハの足跡を遺そうとしている。言わずと知れたトマス教会である。アイゼナハにもその意気込みが感じられる。バッハの生家には多くの人が訪れる。しかし、アイゼナハで最も多くの観光客を集めるのはヴァルトブルクである。ヴァルトブルク − あのタンホイザーの歌合戦の場である。しかし、ドイツ人にとってここはまずマルチン・ルターの地である。

 ドイツ人は音楽を真剣に愛している。しかし、文学と宗教にかける情熱はそれ以上である。私もゲーテは好きだしそこそこ読んでいるつもりだが、ヴァイマールで出会った人たちのように徹底して心血を注ぐことは出来ない。ましてマルチン・ルターとなると歴史上の一人物で、信仰上の人物としてとらえることが出来ない。

 そんな印象とともにバイロイトにやってきた。バイロイトはヴァーグナーの独壇場と決めつけてはいけない。ここは、かのジャン・パウルの出身地で、ヴァーグナーの住居ヴァーンフリートの隣にまるで張り合うかの如くに博物館が設立されている。しかし勝敗は明らかで、ここでは文学が音楽の後塵を拝するのである。

 バイロイトではP夫妻のもとに滞在した。彼らは独立した子供たちの部屋をバイロイト訪問客に提供している。祝祭期間中はこのような一般家庭が多々あり、一時的な宿泊施設不足を補っているわけであるが、提供される側にとっては、特に私のような単独訪問客にとってそれ以上の恩恵にあずかることができるのは言うまでもない。私のほかに、シカゴから来たM氏もP夫妻のもとに滞在していた。彼は、世界中のオペラハウスを遍歴しており、指輪だけでも20回も見たというのであるから羨ましいかぎりである。

 8月11日、私にとって初めてのバイロイト音楽祭はマイスタージンガーだった。これはこの7年間上演がなかったとのこと。ヴォルフガングの演出、バレンボイムの指揮。ポリフォニーとは対立するものではなく調和するものであるという単純な真理に気づかせてくれたのはこの日のバレンボイムであった。中世を表現するために、ヴァーグナーはポリフォニーを多用した。

 当日の前奏曲がなぜあれほど心地よく響いたのか、二幕の合唱がなぜ乱闘にならないで済んだのか、すべて調和したポリフォニーのおかげである。そして、時代と場所の明確なオペラ/楽劇の演出・舞台美術はその設定から逸脱すべきではないという私の持論に確信を与えてくれたのはヴォルフガングである。彼の姑息な逸脱はほとんど理解不可能である。

 ソリストは概ね良かったと思う。ハンス・ザックスのローベルト・ホルは現地でも賛否両論だが、私は適役だと思った。マルケ王の昇華した姿と解釈すれば地味なホルの演じる諦観も説得力があるし好感が持てる。気の毒だったのはベックメッサーのアンドレアス・シュミット。彼は非常に優れたバリトンだが、残念ながら戯画化されたベックメッサーにはふさわしくない。

 12日はパルジファル。演出はヴォルフガング。指揮シノーポリ。特筆すべきは合唱。残念ながらソリストにはいささか不満を抱いた。昨年のパルジファルがプラシド・ドミンゴであったなどと聞くと不満はいや増す。アンフォルタスのベルント・ヴァイクルが異彩を放っていた。

 ヴォルフガングの演出には再度悩まされた。ヴァーグナーは救済を生涯の主題としてきた。パルジファルでは救済が明確に示される。アンフォルタスは傷に悩み、清らかなる愚か者を待ち望む。その清らかな愚か者は、同情によって智を得、救済を彼に与える。これは今回のバイロイトでも明らかであった。私が悩んだのはクンドリの扱いである。

 クンドリは、クリングゾルのもとでパルジファルを誘惑するが同時に救済をも求める。タンホイザーのヴェーヌスでもありエリーザベトでもある。今回のクンドリはそのどちらでもない。すなわち誘惑するのでもなければ救済を求めるのでもないという焦点の定まらないものであった。さらに3幕でパルジファルが彼女に洗礼を施す場面でも待ち望んだ救済という印象を与えない。極めつけは幕切れで訪れた。クンドリは立ったまま、すなわち死なないのである。前述のM氏など豊富なヴァーグナー歴にもかかわらず死なないクンドリは初めて見たと言っていた。ヴォルフガングにはクンドリを救済する気がないのだろうか。

 さらに、1幕と3幕の場面転換で幕が降りたのには忿懣やる方ない思いであった。私はバイロイト以前ではパルジファルは一度見ただけだが、それもNHKホールというオペラには甚だ不都合なホールでだが、そのときの場面転換の素晴らしさが忘れられない。『時間が空間になる』場面で空間を消してしまって良いのだろうか。一番困るのはこれを休憩と解釈する人がいることである。場面転換の間客席は騒がしい。特にバイロイトの狭く堅い椅子は体の大きい西洋人諸氏には耐え難いようである。幕が降りると一斉に姿勢を変えるのでその音たるや相当なものである。パルジファルに限らず場面転換の音楽は非常に美しい。是非、雑音なしで聴きたいものである。

 しかし、あの合唱の素晴らしさは何と表現すれば良いのだろう。死なないクンドリなどヴァーグナーの指示をことごとく否定してきたヴォルフガングが、ここでは忠実に守っている。3つの合唱群を3つの高さに配するのだが、客席から見えない高所に配された2つの合唱は天から降り注いできたかた思うほど清らかで、私のように宗教心を持ち合わせていない者でも魂を浄化されるような敬虔な気分になる。

 バイロイトの合唱は定評がある。そして、祝祭劇場の音響の良さも定評がある。なぜあれほど音響効果が優れているのか。もちろん、他に例を見ない奈落およびその覆いが奏功しているのは明らかだが、それだけではなさそうだ。意外と質素な作りが偶然一役かっているのかもしれない。とにかくバイロイト合唱団が祝祭の場で祝祭劇場で歌う時のみ、あのような合唱が可能なのだ。

 8月13日、この日からニーベルングの指輪の第3チクルスが始まった。演出キルヒナー、指揮レバイン。演出の評価は完全に二つに分かれた。往年のヴィーラントを知ってる人やヴァーグナーの革命思想を盲信する人には支持されない。しかし、私にとって指輪は神話であり心理劇である。その上で社会批判 − 現代社会を含めて − を読み取るのは見る人の自由である。演出に社会批判を強要されたくない。さらに、煩瑣な演出に音楽の鑑賞を妨害されたくない。その点で今回の演出は概ね良かったと思う。レバインは盛んな拍手を浴びていたが、私はブーを飛ばしたい心境であった。テンポが遅いのである。クライマックスがいくつもあっては効果は激減するが、彼のテンポでは永遠にクライマックスに到達しない。

 13日のラインの黄金 − これは視覚的に大変面白かった。ライン、ヴァルハラ、ニーベルハイムの3つの世界の区別が一目瞭然で説得力がある。ラインの娘たちが泳ぐと恐らくこんな光景だろうと想起される、具象画にも近い第1場が始まる。第2場では建設中のヴァルハラ城の骨格とヴォータンを示す大きなプラカードが配置されている。ここはあくまで抽象画の世界である。ヴォータンは世界を支配するが、いまやその権威は傾いている。第3場のニーベルハイムは資本主義社会の縮図である。アルベリヒは富を蓄えた支配者であり、他のニーベルングは蜂の巣の中で働く労働者である。これら3場面には一貫性は見出せない。本来一貫性がないから当然である。

 明確な区切りをつけたキルヒナーの意図には疑問の余地がない。ただ、幕切れでの虹の表現には疑問を持った。天井から無数の柱が降りて来て7色に光るのであるが、何しろ本数が多すぎる。虹に視野を圧倒する程の重要性を持たせる必要があるのだろうか。3つの世界の明確な区別は肯ずるが、虹には彼のバランス感覚の欠如を感じた。場面転換で幕が降りるのにはパルジファル同様閉口した。煙幕を張ってでもいいから何とか舞台を切らないで欲しい。

 ヴォータンのジョン・トムリンソン、フリッカのハンナ・シュバルツ、アルベリヒのエッケハルト・ウラシハ、ミーメのマンフレート・ユングなどバイロイトではおなじみの顔である。私はトムリンソンのヴォータンが好きである。シカゴのM氏は米国でジェイムズ・モリスのヴォータンを頻繁に見ているようで、彼の滑らかな歌いぶりを評価していたが、私はトムリンソンのやや生硬な、しかし実直な歌いぶりが好きである。ヴォータンは神々の長でありながら人間の苦悩を持つ。トムリンソンはこの悩めるヴォータンに深い共感を覚えさせてくれる。ファゾルトのルネ・パーペも見逃してはならない。巨人にも恋心がある。フライアを手放すときの彼は本当に抒情性に富んでいた。

 翌14日はヴァルキューレ。これは本当に感動した。まずオーケストラが素晴らしい。ブリュンヒルデのデボラ・ポラスキーも素晴らしい。演出も質素である。粗末という意味ではない。舞台装置も登場人物の動きも聴衆の視覚や聴覚を遮ることはない。ただ3幕の冒頭を除いて、ヴァルキューレたちが本当に空を飛ぶのである。巨大な茶筒を縦に半分に割ったような乗り物に乗って文字どおり縦横無尽に空を駆け巡るのである。

 その間、巨大茶筒はピアノ線で吊ってあるのだろうか、それならなぜ8本のピアノ線が絡まないのか、などとくだらないことばかり考えていた。真実は私に知る由もない。分かったのはヴァルキューレたちが落下防止のため手摺りにつかまり、安全ベルトで身の保全を確保していることだった。こういう考察は聴覚には無意味なだけでなく有害である。

 歌手陣では前述のポラスキーが圧倒的。歌唱力、演技力ともに文句のつけようがない。トムリンソンも前日に引き続き苦悩するヴォータンを演じた。ヴェルズングを見放さねばならない。この苦悩はラインの黄金での苦悩よりはるかに深刻である。そして、いつもヴォータンに苦悩をもたらすフリッカのハンナ・シュバルツは強く、威圧感に富んでいる。女性上位のバイロイト歌手陣を象徴しているようにもとれた。

 神々に比べてヴェルズングはやや力量不足の感があった。ヴェルズングの愛に心を打たれ、ブリュンヒルデはヴォータンの命令に背いてジークムントを救おうと決意するのだが、ポール・エルミング/ティーナ・キーベルクのデンマーク人ペアの演じるヴェルズングでは、その決意を引き出すような強い愛を感じることが出来なかった。例のシカゴのM氏はドミンゴ/ノーマンのヴェルズングが最高と言っていた、彼らならブリュンヒルデのみならずヴォータンの決意をも鈍らせるであろう。

 この日最も優れていたのは3幕のヴォータンとブリュンヒルデの別れの場面。これこそ真の、宏大な神話である。見るものを有無を言わさず宏大無辺の世界に引きずり込むのである。オーケストラは結構ミスを犯していたが、この宏大さの前には何の瑕疵にもならない。この祝祭オーケストラのメンバーは、普段はドイツ各地のオーケストラに所属しており、祝祭には夏休み返上で駆けつける。要するに聴衆以上のヴァーグナー気違いたちである。(続く)