シリンクス音楽フォーラム 23
Concert on Air

コンサート・オン・エア(13):カラヤン(その7)

高橋 隆幸


 レコード芸術、本年3月号に指揮者に関する特集があり、カラヤンを担当した佐々木節夫氏のタイトルが「人工を尽くして美へ至る音楽の在り方」であった。レコード芸術は相も変わらずこのレベルかと思いながらとりあえず読んでみて気づいたことがある。佐々木氏はカラヤンの芸術を述べたつもりであろうが、要するにこれは“レコードにおけるカラヤン”であり、カラヤンの一面に過ぎない。佐々木氏はこの点に関し全く言及していないので読者には誤解を与えやすい。

 実際、この特集に限らず、カラヤンに関するこの種の誤解は数多く蓄積され、確立されている。ただし、“レコードにおける”という但し書きをつければ佐々木氏の解説は決して的外れのものではない。私がカラヤンの演奏に関しては特にライブを重視する、あるいは好むようになったのはカラヤンのレコード制作に対し必ずしも賛同出来ないところがあるからである。そこで、今回は主にカラヤンのレコードにおける音楽作りについて述べ、併せてライブにおける音楽との関係を論じてみたい。

 レコード制作において、カラヤンが終始“人工を尽くした”というのは正しくない。カラヤンのレコード制作についてはおおざっぱに言って、約10年毎に変貌が見られる。1940年代はSPレコードの時代であり、録音技術そのものが未熟であったため、録音技術で演奏を修飾することはほぼ不可能であった。従って、レコード製作の最大の目的は演奏を忠実に再現することであった。カラヤンも例外ではなく、人工臭といったものは感じられない。余談になるが、柴田南雄氏は半ば冗談で「SPレコードこそがハイ・ファイであった」と述べておられるが、この時代のレコード制作の目的を指摘されているのだと思う。

 50年代は録音したテープの切り貼りが可能になった時期である。カラヤンはこの時期、フィルハーモニア管弦楽団と多くのレコードを制作したが、この新しい録音技術に大きな関心を寄せ、指揮台に立っているより録音調整室でプレーバックを聴いている時間の方が長かったと伝えられている。この頃の一連のレコードはテープの編集技術を駆使した“良いとこ取り”の演奏と考えられる。

 しかし、この時期の録音技術の主なものはテープ編集のみであるので、演奏が大きく修飾されることはなく、これらのレコードを聴いても特に人工的に作り上げたという印象はない。世間では一般的にテープの編集を“つぎはぎだらけの演奏”として罪悪視する傾向があるが、私見では、レコードというものはある程度客観的なものであり、この程度のことは軽い罪である。実際、編集によって演奏の一貫性が損なわれているようには思われない。

 60年代からはベルリン・フィルハーモニーとのレコード制作であり、この時期のカラヤンは余りテープ編集を行わず、自然な音楽の流れを重視していると同楽団の土屋雅雄氏(ヴィオラ奏者)が伝えている(レコード芸術臨時増刊号、1968年)。確かにこの時期のレコードには即興的とも思えるテンポの取り方が散見される。例えば、61〜62年制作のベートーヴェンの交響曲第3番の第3楽章、同第6番の第1楽章冒頭等。総じてこの時期のレコードには余り人工臭は感じられない。

 問題は60年代後半から70年代の録音である。この時期に録音技術は飛躍的に進歩し、主としてマルチチャンネルで録音し、あとで編集するという手法が一般的となった。各楽器の音を人工的に磨きをかけ、エコーをかけ、各声部のバランスも思いのままに調整することが可能となった。カラヤンはそれまでのレコードに対する姿勢をがらりと変え、新技術を駆使して実際の演奏とは異なる“レコード芸術の創出”に挑戦しているように感じられた。いわばカラヤンは一つの曲の録音に2回の指揮をすることになる。1回はオーケストラに対し、もう1回は録音されたテープのマニピュレーションである。

 このようにして出来上がったレコードは完璧なアンサンブル、正確で滑らかなリズム、夢のように美しい音、大きなダイナミックレンジ等多くの美点を備えている。問題はこれらの演奏が、人間が演奏したように聞こえず、シンセサイザーか何かで作り上げたように感じられてしまう点である。この時期、レコードジャーナリズムはこぞってカラヤンのレコードを“人工的”、“人間味がない”と非難したが、もっともなことである。演奏そのものは非常にレベルが高いだけに余計なことをしてくれたという感が強い。

 80年代に入るとカラヤンは再び自然体のレコード製作をするようになっている。しかし惜しいことにカラヤン自身に少しばかりの衰えがみられ、アンサンブルの乱れも決して珍しくない。

 要するに一般に流布しているカラヤン像は70年代のレコードによって作り上げられた要素が大きい。演奏をただ忠実に録音するばかりでは能がない、技術を駆使して新しいジャンルの芸術を作り上げようという考えは理解出来ないことはない。しかし、それで音楽がよりすばらしくなるかというと、どうひいき目に聴いても“ノー”と言わざるを得ない。仮によりすばらしく響いたとしても、現実にはあり得ないという空しさが必ずやつきまとうことになろう。残念ながらカラヤンのレコード芸術という試みは巨大な失敗であり、後世、彼自身の実像をゆがめることにもなりかねない。

 70年代、私はカラヤンの実演に何度か接し、FM放送で数多くのライブ演奏を聴いた。コンサートでは人工的な修飾を施すことはあり得ない。この時期、カラヤンとベルリン・フィルハーモニーは歴史的とも言える高いレベルにあり、数々の名演奏を聴かせてくれた。こういったライブの記録は今後どう扱われるかわからないが、カラヤン像の正しい理解のため何らかの形でぜひ世に出て欲しいと思っている。