シリンクス音楽フォーラム 23
Staying abroad

私の海外滞在と音楽(8:最終回)


フランス、モンペリエ = 1985年8月〜1986年8月

北岸 恵子


[南フランス小観光旅行]

 4月に手に入れた中古のルノー、日本では車検に通りそうもないボロ車であったが、よく走り、初夏から夏の南フランスを駆け回った。車を持っていると、バスと鉄道より手軽に広い地域が回れる。一人で、あるいは友人と一緒に、走った数々の町、村、地方...

 ポン・デュ・ガール(Pont du Gard)はローマ時代の水道橋。プロバンスの案内書に、そのスケッチがよく使われる観光名所である。川を上流に登っていくと忽然と橋は現れる。橋は古い歴史を感じさせないくらい、あっけらかんとそこにある。南フランスに残る数多くの他のローマ時代の遺跡も、約2000年という歴史の重さを感じさせるものは少ない。日本で言えば、明治維新の頃の建造物と同等の感覚でそこにいる。年月の長さが感じられないのは私がエトランジェであるためか、本質的にそうなのか、いつかフランス人に尋ねてみたいものだ。3層構造の堂々とした橋の上は、風が強く、真夏なのに暑くない。一番上まで登ったが、手すりや柵がなくて風が強いため、恐くてはうようにして進んで座り、友人と写真を撮り合った。

 サント・マリー・ド・ラ・メール(Stes-Maries-de-la-Mer)はジプシーの祭りで有名なプロバンスの海に面した町。5月、年1回のマリアを讃える祭日に日本人数人と訪れた。母への絵はがきには、“カマルグ地方にあるサント・マリー・ド・ラ・メールに行き、ジプシーのお祭りを見てきました。ジプシーと観光客で海辺の小さい町がごったがえしていました。すでにこちらは夏のような日が続いています”とある。町や祭自体にはそれほど興を引くものはなかったが、往復のドライブはなぜかよく覚えている。夏のドライブに必須のサングラスをかけて運転した道路は、ほこりっぽく、ところどころのポプラ並木は5月なのに、もう夏の光に輝いていた。

 アンドゥーズ(Anduze)、モンペリエからセベンヌの山々に向かって車を走らせると、竹林の村アンドゥーズに着く。竹林と言えば、京都嵯峨野が思い浮かぶ。南フランスと竹林、イメージとしてはしっくりこない。しかし、立派な竹の林であった。日本と違う種類とは思えない、典型的な竹が並んでいるが、ここにはかぐや姫もパンダもいそうもない。あくまでヨーロッパなのだ。

 さらに北へ車を進めるとセベンヌ(Cevennes)の山々となる。セベンヌは1000〜2000メートルの山々がいくつか続き、ラングドックとさらに北の地方との境界を作っている。8月の休暇を楽しむのに、どこか近くでいいところがないか、と研究室で言っていたら、親切な研究員、クロード・ボンフィスがセベンヌ山中の小さな村、プランティエ(Plantiers)を教えてくれた。居心地のよい小さいホテル、Hotel Valgrand の電話番号も一緒に。

 京都大学の音楽研究会の後輩で、当時パリに留学していた平松希伊子さんと2人、2泊の予定でプランティエに出発した。途中、昼食をとった小さな町は、レストランやカフェが並ぶ広場に木陰が広がる。明るく強い陽の作る影は好対象にひんやりしていて、レストラン屋外での食事を心地よいものにする。ワインの酔いは、乾燥した空気に吸い込まれて、酔うのも醒めるのも速い。毛穴からアルコールがどんどん蒸発していくような感覚がする。

 ここを過ぎて、高原のドライブとなる。重なる山の景色が快適な尾根の道路である。この道から離れて、すれ違う車もない狭い山道をしばらく走ってプランティエに到着、ホテルが2軒、ほかに大きな建物はない、商店などもない。山々に囲まれた本当の山村である。ホテルはツイン朝食付き100F(2人で)、安い。長期滞在の年配者が多く、朝食で自分達の好みのメニューや持参したと思われる食品を並べてもらっている泊まり客もいる。涼しくてのんびりしているので、避暑にはぴったりである。ただし、日本人気質を拭いさることのできない私達には、2泊くらいがちょうどよい。夕食もそれなりにおいしく、平地より早い山の夕暮れがちょうど食事中に訪れ、ロマンチックな雰囲気に包まれる。プランティエ近辺の小さな村々も素朴な美しさに満ちていた。

 モンペリエは、大学に外国人のためのフランス語コースがあるほか、フランス語の学校もあるので普段から日本人が結構いる。さらに夏には、語学の夏期コースに日本人が集まり、町の中心では日本人によく出会う。しかし、この旅行中、日本人には、いや東洋系の人には一人として出会わず、いかにこの旅程が外国人に無名のものであるかを知った。平松さんは、“地球の歩き方”の“フランスの田舎”に、プランティエを含むセベンヌ地方を載せてもらうよう、投書しようと提案したが、2人で相談の結果、やめることにした。交通手段の問題や一般受けしそうもないというのが理由であったが、この秘境を他人に教えたくない、というエゴもあったことを否定できない。

 フランスの次の留学先、アメリカへの出発が迫った8月中旬。多くの親しいフランス人は休暇であちこちへ行ってしまった。マルティンはアフリカへ、マダガスカル出身の博士課程の学生でお人形のようにかわいいイザベル・ジョン・マリーはコートダジュール。平松さん、多佳子さんは日本に一時帰国。モンペリエにずっといるフィリップは修士試験の勉強中。去り行く南フランスの日々を惜しんで、一人でドライブに出た。

 ゴルジュ・デュ・タルン(Gorges du Tarn)は、セベンヌの西の渓谷、赤い土の色が特徴である。モンペリエからかなりの距離のドライブで、3時間くらい運転を続けてようやく入り口までたどり着いた。運転好きとは言えない私には、1人での長時間ドライブは退屈で危険でもある。夜遅くなって事故でも起こしたら大変、あまり長居は許されない。車を止めて、渓谷の一部を歩いて楽しむ。ゴルジュ・デュ・タルン自体は、私の見た部分に限っていえば、日本の各地に見られる深い谷の美しさに比べて、抜きんでているわけではない。しかし、そこに感じるのは、故郷にもあった安らぎ、自然の持つ共通の暖かさであった。

 ガイドブックに載っていて、変わった風景が見られそうだな、と訪ねた死者の町、ボー・ド・プロバンス Les Baux-de-Provence。岩山の上の乾いた町の跡は、夏の強い光の中に白くそこにあった。ボーへ行く途中に寄ったドーデの風車小屋と同じく、観光バスが来る観光名所でありながら、風車小屋と違ってボーは観光客には興味も抱かず長い眠りを続けていた。帰途にローマ時代の門の残るサン・レミ・ド・プロバンスSt-Remy-de-Provenceを通過、夕刻の門で小休止。ローマ時代の人達は現代人よりかなり小柄だったのか、門の足が年月の間に土に埋もれたのか、門は日本人の私にさえ小さく感じられた。

 モンペリエから一番近い海岸がパラバス(Palavas-les-Flots)で、パラバスから海岸沿いに少し西へ行くとマグローヌ(Maguelone)に着く。この2ヶ所は、5月から8月までに、海水浴あるいは日光浴に何度も訪れた。いつだって路上駐車、海岸近くの道路には車間距離なく、車がぎっしり並んでいる。磨きをかけた新車でここに来る人なんているのか、今も疑問である。

 ベジエ(Beziers)には、何回行っただろう。電車でも、車でも行った。ベジエ郊外のモロサン(Maraussan)にフィリップの両親の家があったし、日本でのフランス語の先生であるコスタさんのお母さんの家が、同じくベジエ郊外のレスピニョン(Lespignan)にあった。コスタさんは田舎の家が好きでなかったようだが、どちらも落ち着いた存在感のある家だった。

 フィリップの家には何度か泊めてもらった。暖炉、屋外の食事用テーブル、蜂の巣箱、大きな木の枝に手作りのブランコ、と、小さい頃から小説で憧れたヨーロッパ風の家の全てが備えられていた。その居心地よさのせいか、フィリップと彼の弟妹の友人達のたまり場でもあり、人なつっこい彼らと仲良くなるのに時間はかからなかった。彼ら南フランスの青少年は恋愛については早熟だが、その他の部分は子供っぽくて、可愛らしく、日本の同世代のような変に悟ったような醒めたようなところはない。それ故に、私は彼らを秘かに“ベジエ青年団”と名付けた。パリからモンペリエに遊びにきて、モロサンを訪れた平松希伊子さん、彼らにベジエを案内してもらっての言葉は、“ベジエ青年団というよりベジエ少年探偵団の方がいいんじゃない。”

 彼らと歩いていて、初体験したのが、ビールの歩き飲みである。かなり行儀が悪く、次に滞在したフィラデルフィアではれっきとした犯罪である。乾いた空気の中、栓を抜いたビールの小瓶を飲みながら歩くのは、妙な解放感、それ以上の快感さえあった。


[フランスの食べ物について]

 フランスでの食べ物の思い出、これはワイン、チーズ、コーヒーに尽きる。まず、ワイン、フランスではワインといえば赤ワインである。10フラン以上出せばそれなりの味のワインが楽しめる。それ以下だと明かに下等品。もちろん酸化防止剤なしである。酸化防止剤なしと言うと、我々日本人は、自然品指向の素晴らしさを思うが、はっきり言って、大酒飲みでない1人暮らしでは困ったものの1つであった。おいしいワインでも、1人で1本飲むとかなり酔っぱらってしまう。

 しかし、美味なるワインを半分飲んで、栓をして、一晩置いて、さあ翌晩続きを楽しもうとする、全く別物の味である。二晩置いたらもうワインビネガー、飲めた代物ではない。ハーフボトルなんて、ほとんど見かけないから、友人が来ない夜にワインを開ける時は、熟慮と覚悟が必要となる。それでも、赤ワインはその安さとあたりはずれのない味で、常備して最も頻繁に嗜む飲料となった。

 この赤ワインによく合うのがチーズ、日本ではカマンベールが有名で、フランスでも名の通った銘柄である。柔らかでマイルドな味が特徴で、似たものに、時折大手スーパーで見かけるブリーがある。臭いけれどおいしいのは、ポンレベック、牛のマークのソフトなチーズである。固いチーズは食通には美味らしいが、私は柔らかいものが好みだ。ブルーチーズも塩辛くて苦手である。

 チーズの友達はフランスパンである。ただし、これもワインと同じく日持ちしない。あっという間に固くなってしまう。2日おけばカチカチで食べられない。おろし金でパン粉にするしかない。1人だとパンとチーズの食事でさえ、美味しく食べたければ急いで食べきる、という一種の脅迫観念に満ちたものとなる。一昔前の日本の米屋や酒屋のように、フランスではどんな小さな集落にもパン屋があり、朝早くから店を開いている。7月、8月の休暇時でも、小集落の2軒のパン屋が交互に長期休暇をとっていて、常時どちらかは営業していたのを見た。御飯を主食としている私達は、パンを主食とする彼らのこのスリリングな人生をどう思うのか、少なくとも3年前のあの凶作時の米騒動は、穏やかな日本人の主食の生活に一石を投じたものであった。

 フランスのコーヒーは濃い。ブラックだと苦い。私はコーヒーが大好きで、それも濃いのが好みだが、研究室のコーヒーを1日に数杯飲むと末端の血管が収縮を起こして手足が冷えてしまうことがあった。コーヒーカップはエスプレッソ用の小さいものなのに。そのくらい強烈な濃さで、日本では何杯コーヒーを飲もうとそんなことはありえない。おいしいけれど身体に悪いことは確かである。


[私の周囲の人たちと音楽観]

 在籍した研究室を中心に、私の音楽好きは多くの友人との関わりを生んだ。その中で見るフランス人の音楽観について触れてみたい。もちろん、日本よりクラシックのコンサートへ行く人達の数は多い。周囲のフランス人達の音楽の好みは、というと、オーソドックスなところではモーツァルトとシューベルトである。ドイツというよりオーストリアの明るいわかりやすいものに人気が集まる。評判のよくないのはシューマン、彼のピアノ曲は難解でどこが良いのかわからない、と頻繁にコンサートに足を運ぶ人でさえ言っていた。

 フランス人作曲家では、サン・サーンス、ラベルの評判がよい。ロックやアメリカのポップスに興味を示す若者まで、サン・サーンスのシンフォニーを聴いて、なかなかの力作で素晴らしいと感動している。ドビュッシーなど、鼻から馬鹿にされているし、日本でファンの多いサティーなど話題に上ることすらない。フランス人達の好みは、案外保守的といえよう。

 隣りの研究室にエルレン・ケーErlen Kehという名の北欧系フランス人がいた。彼は大柄で怖そうな外見に似ず、インテリジェントな紳士で、音楽の造詣が大変深く、話していて楽しい人だった。彼のピアニストについての口癖が、“Ashkenazi, il est de la merde. Murray Perahia, il est tres bon, super, il est mag-ni-fique! アシュケナージなんてくだらないて話にならない。マレイ・ペライアはすごくいい、素晴らしい。”彼の言葉を理解したいと、その後何枚かマレイ・ペライアのCDを買った。アシュケナージについての感想はともかく、マレイ・ペライアが彼の絶賛に値するかどうか、今もわかったような、わからないような気分の私である。

 フランス音楽では、さて、と考えてしまうが、フィリップの仲間達のお薦めはユニコーンというグループである。ユニコーンは、フランスの中世からバロックにかけての古い歌を現代風にアレンジして演奏する。それは、一部は中世のフランスの民衆の歌であるとともに、R&B調の舞曲である。古くて新しく、悲しくて明るい、土着の味を都会風に、不思議な音色がする。フィリップ達の貸してくれたユニコーンのカセットは、うっかり返し忘れて今も私の手元にある。


[フランスを離れる]

 フランス出発を控えて、8月中旬からは知人達との別れを惜しんだ。研究室の面々は言うに及ばず、マルチンやフィリップの友人、フィリップの家族、コスタさんの友人や家族、モンペリエのあちこち、そしてベジエ。

 出発の数日前、ベジエのフィリップ宅へ行った。フィリップは修士終了試験の勉強中で、彼に勧められ、フィリップの弟と友人達と一緒に、小型トラックでドライブに出た。モロサン Maraussan のはずれにあるフィリップの家を出ると、ゆるい起伏のある畑が続く。畑の向こうには低い潅木がまばらに立つ草原が広がる。草原を気の向くまま、自由に小型トラックは駆け回る。荷台に乗った10人足らずの若者は歓声を上げ、その若いエネルギーが澄んだ空に吸い込まれる。その若者達に混じりながら、私は決して自由を謳歌したこの日を忘れないだろうと思った。

 モンペリエを発つ日はいつものように快晴、夏になってから雨の降ったのはいつだったのか思い出せない8月末。モンペリエからパリ、オルリー空港まで乗って、パリでシャルル・ド・ゴールへ移動し、そこからニューヨークへ向かう。最終目的地はフィラデルフィアであるが、ニューヨークからフィラデルフィアへの移動手段はよくわからないままの出発である。モンペリエの市街から空港へはフィリップが車で送ってくれた。まだ夜は明けきっていない。車を走らせる間に、周囲は徐々に明るさを増してきた。モンペリエに別れる悲しさに泣きながらも、その日の朝の色彩の見事さ、空が刻々と色を変えていくパノラマに、不思議な感動を覚えた。

 フィリップ、コスタさん、多佳子さんに送られて、1年前に降りた赤く乾いた土から私は飛び立った。空港へ向かう車中で、“モンペリエからのフライトはちょうど朝日が美しい時間になるね”と慰めてくれたフィリップの言葉どおりの朝焼けの中を。そして、10年が過ぎ、私は再びその地で呼吸する好運をつかめないでいる。

 あの時優しかった人たち、心が触れ合った人たちの多くとは、私の人生でもう一度巡り会うことはないだろう。みんな、ほんとうにありがとう。


[終わりに]

 過去を振り返るのが嫌いな私が、この連載を始めた大きなきっかけは、娘の出産以後、ピアノを弾く時間が思うように作れないもどかしさを解消したい、という思いだった。8回でようやく稿を閉じるが、今さらのように、フランスでの1年は、生々しく、重く、収穫が多かったと感じる。書き終わった今、かの地を再度訪れてみたいとより強く思うようになった。

 最後に、取り留めのないこの連載を、励まして続けさせて下さった方々に心から感謝いたします。

(1996.11.24)