シリンクス音楽フォーラム24
Review/Performance
油井 康修

楽興の時・冬の二夜


和波孝禧ヴァイオリンコンサート
1997年1月25日
長野県民文化会館(長野市)

アナトール・ウゴルスキー ピアノリサイタル
1997年2月26日
紀尾井ホール(束京)



I.和波孝禧ヴァイオリンコンサート(ピアノ:土屋美寧子)

  シューベルト:  ロンド ロ短調 D895
  プロコフィエフ: ソナタ第1番 へ短稠 Op.80
  クライスラー:  愛の喜び,愛の悲しみ,ウィーン奇想曲
  ドヴォルザーク: 4つのロマンティックな小品
  チャイコフスキー: メロディー,ワルツ・スケルツォ

 同じ様に弦を鳴らす楽器でありながら、ヴァイオリンとピアノは随分違う。違うだけでなく、時にはこの両者が一緒に鳴っていると、感覚のどこか隅の方で、何かしら違和感が惹き起こされることがあって、ヴァイオリンの演奏会というのは、これまでそれ程積極的に聴きに行っていた訳ではない。

 チェンバロの伴奏だったら、また響きのなじみ具合が違うのだろうが、なかなかその様な演奏会のチャンスはない。これが弦楽四重奏などとなると、うってかわって食指が動く。もちろんヴァイオリン一丁の曲とは内容は大いに異なる訳だが、四丁の弦が生み出す響きは一つの小宇宙を形成し、心置きなくその中に入っていけるように感じられるのだ。そんな訳で、今回聴きにいったヴァイオリンコンサートは久々のものだった。

 さてこの夜の和波孝禧氏、実は二年ばかり前ふと本屋で見かけて買い求めた彼の著書(「音楽からの贈り物」新潮社)を通して演奏より先に知っており、何時か機会があれば聴いてみたいものと思っていた。

 この本で特に印象に残ったのは、最初の本格的な師である辻吉之助氏との出会いと離別の下り。辻氏によって最初の大きな飛躍があったのは確かだが、親の転勤で辻氏に教えを受け続けることの物理的な困難、それに和波少年の次の跳躍のためにも新しい師を必要とするところに立ち至った事情を、辻氏に配慮しつつも正面から取り上げている精神の図太さのようなものが一体どんな音楽を奏でるのかと、興味をそそったものだ。オイストラッフの人柄と音楽に触れ、それを生涯の高い目標に据えた点、傾向は予想できるが、とにかくこの耳で聴いてみたい一人となっていた。

 前半は彼言うところの「こってりしたステーキ」、後半は「甘いたっぷりのデザート」というメニュー。シューベルトはこれがもともとの形かどうか知らないが、ピアノ伴奏はオーケストラをピアノ用に書き直したようなところがしばしばでてくる(シューベルトのピアノ曲では時々見掛けることだが)。

 曲は序奏部を持つかなりスケールの大きいもので、ヴァイオリンも時にコンチェルト風に大きく強い表現を要求される。こういう所は頑張り過ぎてヴァイオリンの音がきつくなったり絶叫したりして音が荒れがちになるが、和波氏の音は巧みにその様なことを避けている。感情に乗って過剰な表現に陥らず、慎重に音を選んでいるかのようだ。曲そのものは、初めて聴いての印象だがそれ程悪くないとは言うものの、ちょっと不必要に長い感じがした。

 プロコフィエフは、2番のソナタの方が聴きやすいせいかよく耳にするし、フルートによる演奏もあったはずだ。この夜取り上げられた第一番のほうは初めて聴くものだし、曲としてどう評価されているのかまったく知らないのだが、演奏も素晴らしかったし、事前の解説(この友の会のコンサートでは、しばしば解説をいれるとのこと)もよい助けとなって、初めてにして傑作を聴いた、という気分になってしまった。

 第二次世界大戦を間に挟んで作曲され、その体験・戦争の苦悩が織り込まれて曲は完成された。第一楽章・墓場の場面、第三楽章・葬送の音楽といった捉え方はこうした作曲事情を踏まえたものといえよう。とりわけ第三楽章が素晴らしかった。弱音器を掛けた微妙な音が自在に舞っている感じで、しばし音の飛翔の中に感覚が浮遊状態になったような気分だった。

 技術的な面ではポリフォニックな部分も見事だった。ヴァイオリン一丁で完全なポリフォニーは難しい。実際はポリフォニックに(ポリフォニーらしく)作曲され、ポリフォニックに演奏されるものだが、和波氏の演奏はまさしくポリフォニーとして鳴っており全くの驚きだった。「らしく」ない演奏というべきか。テクニックを誇示するタイプの演奏ではないが、そのテクニックはすべて音楽表現のために奉仕しているというものだった。彼の弾くバッハがどんなものか、楽しみになってきた。

 後半はデザートとは言い条、ドヴォルザークは結構真面目な曲だったし、クライスラーなどもっとチャーミングさがあっても良かったと思う。和波氏の本領は前半で発揮されていたといって良いだろう。久々に音楽の霊妙さを感じることのできた音楽会であった。


II.アナトール・ウゴルスキー ピアノリサイタル

 これまた久々に出会ったピアノの見事な演奏会だった。ウゴルスキーは昨年も同じ頃日本に来ており、そのときも行く積もりだったけれどダメになった事情があり、今回こそはと、東京に出てきたものだった。場所は紀尾井ホール、さして大きくない細長い箱型のホールで、木の内張がしてあり、ピアノの響きが非常に良い(以前一度ベロフのピアノをここで聴いたことがある)。その点ここでのコンサートはちょっとした楽しみなのだ。さて曲目だが、チラシでは、

  J.S.バッハ: シャコンヌ(左手のための、ブラームス編)
  モーツァルト: 幻想曲 ニ短調 K.397, ロンド ニ長調 K.485
  スクリャービン: ソナタ 第二番 嬰ト短調 0p.19, ソナタ 第四番 嬰へ長調 0p.30
  ブラームス: ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ 0p.24

となっていた。何か雑然とした感じがしていたのだが、実際の演奏会場では、

  J.S.バッハ: シャコンヌ
  ブラームス: へンデルの主題による変奏曲とフーガ
   休 憩
  モ一ツァルト: 幻想曲 ニ短調, ロンド ニ長調
  スクリャービン:
      左手のためのプレリュード 0p.9-1
      ノクテュルヌ(左手のための)0p.9-2
      エチュード 0p.8-2, 11, 12
      ソナタ第二番, ソナタ第四番

となっていて、一瞬にしてなるほどと思ったものだ。しかもうれしい事にスクリャービンに追加があるではないか。前回のコンサートでもウゴルスキーは随分沢山の曲を弾いており、なかなかタフな演奏家ではある。

 さてバッハのシャコンヌ、これは一言、バッハの包容力そのものを表現し切った、と言いたい。編曲であり、左手による演奏という特殊な形態のものだが、そんな事は全く関係なかった。ただひたすらバッハが表現されていた。見事の一語に尽きる。

 同じドイツ系ということで、次はブラームスに連なった。まずはテーマ、ロココ風の細やかな装飾音に縁取りされた静かな曲。第一変奏はまだ同じ雰囲気を保っている。第二変奏、もうべートーヴェンあたりにとんだ感じ。次いでどんどんブラームス風になっていく。ところでブラームスには「ハイドンの主題による変奏曲」という有名な曲がある。これとヘンデル変奏曲とどれほど隔たっているのかよく知らないが、聴いているとヘンデル変奏曲のなかにハイドン変奏曲が聴こえてくるのである。これを人はどう感ずるだろう。

 時々ブラームスを聴いていて思うことがある。確かにブラームスには素晴らしい曲がたくさんある。交響曲第一番、クラリネット五重奏曲、晩年のピアノ小品などなど。一方これは間違いなくブラームスの響きだと分かるけれども、それ以上には深まりを感じない曲も時にはある。ヘンデル変奏曲は初めて聴くので当たっていないかもしれないが、どうも印象としては後者に近い感じ、終わり近くにフーガが置かれている形なども、何となくべートーヴェンの引き写しのようだが、どうだろうか。

 この演奏会で大いに物議をかもすものと言えば、後半冒頭のモーツァルトだろう。3月5日付け朝日新聞にこの夜の演奏会批評を担当した吉田秀和氏も、このモーツァルトにはかなり違和感を感じたようだ。少し引用してみよう。

 「まずモーツァルトから書けば、惚れ惚れするようなきれいにすき通った柔らかさで歌う時など、ついうっとりする。といっても、その美しい演奏が同時に「これはモーツァルトと違う」という意識を目覚ましもするのである。しかし、また「こんなにきれいなら、いいではないか」という考え方もあるわけで、そのどちらをとるかで、ウゴルスキーの評価が決定する」

 吉田氏は違和感を感じつつも、モーツァルトを(そしてブラームスも)積極的に評価する立場を取る。確かに風変わりなモーツァルトだった。前半と打って変わって、まず打鍵が曖昧なのだ。ファンダジーはまだしも、ロココ風のロンドにもそんな雰囲気が残っているのだ。特にファンタジーでは、音が抜けているのではないかというほど(事実幾つかの音はきこえなかった)弱いタッチを使っていたし、終結も終わったようには明確に弾かれていない、何か一つの漠然としたある雰囲気の中に浸っているかのような演奏だった。

 私にはモーツァルト・・・スクリャービンと配置したところに、ウゴルスキーによる一つの意図が感じられた。つまりこのモーツァルトの雰囲気はスクリャービンに連なる雰囲気であり、響きであるということだ。本当のところモーツァルトとスクリャービンとの間にどのようなつながりがあるのが分からないが、とにかくこの奇妙な回路を経て聴衆はスクリャービンに導かれたのである。ウゴルスキーのスクリャービン、それは極めて情感の豊かなものだった、そう、まさにあふれんばかりの。

 つい比較されるのが我が家でしばしば取り出すゴードン・ファーガス=トンプソンのディスク、かなりテクニックのある人らしいが、スクリャービンではそういう面は強調せず、表現もやや抑制気味、それがまた余裕のある演奏になっていてなかなかいいし、感性にも充分うったえるものを持っている。今の所これが私の基準になっているが、ウゴルスキーを聴いていると、トンプソンはいかにもイギリスの演奏家だなあと聴こえて来るから不思議だ。逆にウゴルスキーこそロシアのピアニストでありロシア・ロマンティシズムが息づいている人なのだ。エチュード0p.8-12からソナタの二番辺りが最高だった。本当に幸せな一時、スクリャービンの美の世界に酔いしれたと言っていい。

 最後のソナタ四番、これがこのプログラムで一番聴きたかった曲、美しかったが第一楽章の旋律は少し音が強かったな。p〜mp位で響かせてほしかった。しかし第二楽章の見事さ、いよいよ曲が終局に向かうに従い、この幸せな美の世界も幕となるのかと、時をいとおしむ気持ちが募ってきたものだった。

(1997.4.2)