シリンクス音楽フォーラム 24

Pensee des morts

田中希代子
 − 日本初の世界的ピアニスト −


高橋 隆幸


 田中希代子さんが亡くなられて(1996年2月26日)もう1年以上経過してしまった。昨年新聞等で死去の報に接したとき、特別な感慨を抱いた訳ではない。恥ずかしながら1970年以後、膠原病のため演奏活動を断念せざるを得なかったという事情もこの時に初めて知った。

 私が田中希代子さんに強い関心を持つようになったのは、昨年、彼女の演奏がNHKのFM放送(20世紀の名演奏、毎日曜日10:00AM)で紹介されてからである。この番組を担当、企画している黒田恭一氏はおおらかな性格のようで、紹介される演奏のなかにはこの番組のタイトルにふさわしくないものが少なからず見受けられる。しかし、この時に紹介された田中希代子さんの演奏は1960年代、N響との協演のライブ録音であったが、私はすっかり驚いてしまった。曲目はベートーベンとサン・サーンスの、ともに5番の協奏曲であったがベートーベンにおける力強さ、スケールの大きさ、サン・サーンスにおける正確無比のテクニックと洗練された輝かしい音色が印象的であった。

 その後、田中希代子さんの追悼としていくつかのCDが自主企画として発売されているのを知り、まず1枚(ラモー、ハイドンなど)を買い、これが素晴しいので次の1枚を買い、やはり次も、と言う風に結局全6枚を買い込むに至った次第である。

 余談になるが、先のNHKのFM放送では田中希代子さんを紹介する数ヵ月前に、かつて日本の女流ピアニストの代表格であった安川加寿子女史の演奏が紹介されている。それは手堅い演奏ではあっても、それ以上の印象はなく、1950年代の日本のトップレベルはどんなものかを知るという点で有用ではあった。しかし、田中希代子さんのCDの解説で、彼女が安川女史に師事していたことを知るに及んで、私は黒田恭一氏に対する考え方を改めるに至った。すなわち、この紹介の順序は氏が日本の楽壇という特殊な業界の仁義をよく心得た人であることを示していたのである。

 さて、田中希代子さんの演奏であるが、まず、テクニックが大変すぐれている。ここでいうテクニックとは、1つの曲を充分なダイナミックレンジと大きなスケールを持って、正確にしかも美しい音で弾ける能力である。このレベルのテクニックを得てはじめて自分の表現したいことを自在に曲に織り込めるようになる。国際的に第一級のピアニストに要求されるのはこういった類のテクニックであるが、田中希代子さんはこのレベルに達していたと想像される。

 このテクニックに加え、高い知性の持ち主であったようで、洗練され、気品のある音楽に仕上げる一方、表現意欲も旺盛で、鋭く訴えかける瞬間も少なくない。要するに高い知性と高度のテクニックが兼ね備わった数少ない幸運な例であったと考えられる。ある評論家は田中希代子さんが残したCDの一枚について、“名前を伏せて聞いてもらったら、かなりの人が高名なピアニストの名をあげるのではないか”と述べているが私も同感である。

 テクニックといえば日本ではとかく“テクニックばかりで中味がない”と言う方向に話が向いてしまい、要するに次元の低いものと考えられ勝ちである。この原因として2つの要素が考えられる。1つはいわゆるテクニシャンと言うものに対する誤った認識である。例えば、速く正確に弾けるけれども、音楽のスケールがいかにもこじんまりとしているピアニスト、指はすごく速くまわるが、音の粒立ちやフレーズが不明確なピアニスト、かつて日本では前者のタイプが多かったし、後者では例えばリスト弾きとして有名であったジョルジュ・シフラがあげられよう。

 こうしたピアニストに対して世間ではよく“テクニシャンだが音楽性がない”などと言う。そしてここからなんとなくテクニックというものを軽んじる(少なくとも聴衆の側では)風潮が定着しているのではなかろうか。事の本質はそうではなくて、要するにこれらのピアニストをテクニシャンと呼ぶことが間違っているのである。前者のタイプのピアニストに、もっと大きな構成の音楽作りを要求してもそれは“技術的に”不可能であるし、シフラが音の秩序の明確さを意識するようになったら、あんなに速く弾くことは困難であろう。

 第1の要素の話が長くなったが、第2の要素はおそらくドイツから日本に輸入されたものと考えられる、音楽における精神主義である。例えば、シュナーベル、E.フィッシャー、ケンプ等はテクニックは無いけれどもあんなに素晴しい音楽を創造するではないか、と言う議論である。私は彼等の音楽が非常に優れたものであった点に異を唱えるわけではないが、彼等のような存在はテクニックと知性のバランスが調和した他の名ピアニストの数と比較した場合、むしろ少数派に属するのではないか、言い替えれば彼等はテクニックの不足を特別に優れた知性でカバーできた例外的な存在であったと考えるのが妥当と思われる。そして、こういった例外的存在が日本ではとかく音楽の本質のように認識されたのではなかろうか。

 田中希代子さんが1970年以後、日本で忘れられた存在になってた理由の一つとして、先に述べた、テクニックというものに対する正しい理解、ひいてはピアニストとしての真の価値に対する認識が十分でなかったことがあげられる。もっと端的に言うならば、1950年、60年代の日本の音楽事情はまだまだ貧しい状態にあり、的確な価値判断の出来る聴衆が育っていなかったと言うことができる。私ももちろんそ
うであった。

 しかし、田中希代子さんの存在が忘れ去られたのはそればかりではない。私より古い世代の人ならばだれでも知っていることであるが、田中希代子さんはかって日本で最も有名なピアニストの1人であった。私事になるが、田中希代子さんに強く印象づけられたのは私にとって今回が2度目である。1960年代、NHKのテレビでドビュッシー等のフランスものを弾く田中希代子さんに接し、そのテクニックの冴えと、切り込みの鋭さに感銘を受けたのを記憶している。

 その後、コンサートでの実演に接したのが京都市交響楽団との協演で、曲目はショパンの第1ピアノ協奏曲であった。これは多分1969年のことと記憶しているが、実はこれが田中希代子さんがオーケストラと協演した最後のステージであったと、昨年、田中希代子さんの死後に知った次第である。

 このときの田中希代子さんはしっかりと、美しく弾いたが、残念ながら非常に強く印象に残るというものでもなかった。第1楽章のコーダに入るところで田中希代子さんがミスをして止まってしまい、あっと小さな声をあげて弾き直しをするというハプニングがあった。今から思えば病気のため引退寸前の時期に当たるので、当然ベストの状態ではなかったのであろう。しかし何も知らない私にとって、そのときの演奏に決定的な印象を受けなかったこともあり、その後、田中希代子さんがひっそりと引退してしまったのにも気がつかなかったのである。

 田中希代子さんにとって不運であったのは丁度引退を余儀なくされた頃と前後して才色兼備の中村紘子女史がはなやかに登場し、多くの聴衆を獲得したことである。さらに1970年代以後、日本の経済成長と共に外国の著名な演奏家の来日ラッシュが起こり、日本の聴衆の関心は外国の一流の音楽家に集中していった。CDの解説書の中で、田中さんのデビュー当時はその存在を強く認識していたが、その後、なぜか忘れていたという主旨のことを何人かが話しているのはこういった1970年代以後の日本の音楽事情を反映していると思われる。しかしながら私たちは、70年代以後、多くの一流の演奏に様々な手段で接することが出来、その結果、より的確な価値判断も可能となった。

 田中希代子さんが残したCDはライブや放送用録音がほとんどで、音の状態や演奏のコンデイションもすべてが万全とは言えない。しかし、現在の私達の耳でこれらを聴くと、1950〜60年代に世界的に活躍したピアニストと比べても何ら遜色ない。当時、日本でいう“国際的ピアニスト”とは“外国に出しても恥ずかしくはない”程度というのが実情であったが田中希代子さんの場合、このレベルをはるかに越えていた。

 日本が生み出した国際的に一流の演奏家として小沢征爾、東京カルテットがあげられるが、ここに田中希代子さんを加えることには何ら問題はないであろう。ともあれ、関係者の大変な努力で田中希代子さんがよみがえったことに感謝したい。今後さらに、田中希代子さんの演奏記録が発掘されることを待ち望んでいる。