シリンクス音楽フォーラム 24
Visiting Bayreuth


バイロイト体験記(2)

伊達 容子


 8月15日、トリスタンとイゾルデ。今回の演目の中で恐らくこれが最高の出来であろう。少なくとも私にはそうであった。トリスタンとイゾルデは日本での上演も多く、私も何回か見ている。どれもかなりの水準を保っており、特に93年のベルリンドイツオペラの引越し公演は、その水準がほとんど信じられなく位に高かった。しかし、今回のトリスタンとイゾルデはそれを遥かに凌駕している。全く異次元の世界にいるような気分であった。

 まず、バレンボイム。彼の、世界全体を包み込むような暖かい音に心を揺り動かされる。吉田秀和氏がどこかでこんなことを書いていた。ヴァーグナーの楽劇を聞いていると、その劇場が世界のすべてであり、その外には何も存在しないような錯覚に陥る、と。バレンボイムはまさにこの錯覚に導いてくれる。

 彼は、82年にトリスタンでバイロイトにデビューした。88年からは指輪を指揮しており、今回の他の2人の指揮者に比して一日の長ならぬ十年の長がある。劇場の音響効果を知悉しているのであろう。もちろんこの音響効果を駆使するのはスコアへの深い洞察力が前提である。

 そして、イゾルデのヴァルトラウト・マイヤー。彼女は不世出のイゾルデと言っても過言ではないだろう。歌唱力のみならず、視覚的にも優れている。威圧的なHerrinは歴代の優秀なソプラノの演じたところだが、気高くも美しい王女は誰も演じなかったのではないだろうか。

 対するトリスタンのジークフリート・イエルザレムは若干劣勢に回っている感じであった。第2幕まで聞き終えた時点で、果たして彼は、第3幕でイゾルデが到着するまで生きていられるだろうかと心配したほどである。結果として、これは杞憂であった、すなわち、第3幕の長丁場を見事切り抜け、イゾルデは彼の死に間に合ったのだが。そしてクルヴェナールのファルク・シュトルックマンが独特の個性を発揮した、愚直なまでに忠実なクルヴェナールは非常にリアリティーに富んでおり、象徴的な主人公と好対照(悪くすると若干の齟齬)をなしていた。

 演出はハイナー・ミュラー。区切られた立方体の中で第1幕は進行する。紗幕と光がさらに空間を区切る。非常に簡潔に登場人物の心理を暗示しているようにもとれるし、それとはあまり関係なく光が変化しているようにもとれる。この第1幕の間トリスタンとクルヴェナールはずっと舞台にいた。イゾルデが風を求めてブランゲーネに垂れ幕を開けさせる前から、トリスタンは登場しているのである。これはイゾルデの心の投影であろう。(通常の演出なら登場しなくてもよいのに大変だろうな、というのは下司の勘ぐりである。)

 第2幕のイゾルデの館の庭園も区切られた立方体の中にある。しかし、そこにあるのは庭園とは何の関係もない無数の甲冑である。これが、マルケ王の権力を象徴するのか無名戦士の墓なのかよく分からない。第一印象は何故こんなものが出てくるのか、というのであった。第2幕冒頭の昼の動機の引き裂かれたような和音の響きにも、それに続くホルンの狩りの動機にもおよそ似合わない。

 幕開けではもちろんトリスタンは登場しない。第1幕ではイゾルデは、トリスタンへの愛をブランゲーネにもトリスタンにも韜晦している。だからこそ心の投影が必要だが、ここではもはやその必要はない。トリスタンはヴァーグナーの指示どおり第2場で登場する。ただ、その現れ方が意表をついたものであった。彼はイゾルデの背後に後ろ向けに現れる。

 そして、抱き合うこともなく手を取り合うこともなく延々と歌うのである。一瞬奇異に感じたが納得もした。彼らが会った瞬間抱擁しあうというリブレットとは食い違っているのだが、ここは彼らが昼の世界を克服する過程であるから、そしてそれまでの2人の昼の世界は全く別のものであったから、2人の乖離は当然存在する。そしてその乖離をやきもきしながら見ているためか、〈O sink hernieder, Nacht der Liebe〉(夜の帳よ、降りてこい)のくだりがたとえようもなく美しく響く。

 それに続くブランゲーネの見張りの歌、トリスタンとイゾルデの〈So sturben wir, um ungetrennt〉(2人で死のう)、このあたりが第2幕の音楽上の頂点であろう。実際の時間の経過と、2人の陶酔する精神的な夜との交錯が光の変化で暗示され、この頂点に著しい緊張を与えるとともに来るべき凋落をも不可避のものとして予期させる。このあたりの演出は本当に素晴らしかったが、相変わらず甲冑の舞台への違和感は持ち続けたままだった。

 第3幕も奇妙な舞台だった。区切られた立方体はここではカレオールの城内の庭。荒れ果てた庭にはコンクリートの破片が散乱している。海の様子を報告する牧人が語り部として第3幕の間ずっと立方体の隅に座っている。しかもこの語り部は盲目である。彼は立方体の外の出来事を報告するだけなのか、それとも立方体の中の出来事を我々聴衆に語っているのか。後者なら盲目であるのも理解出来る。

 このあたりで、ハイナー・ミュラーにはついて行けない気がした。第2幕も第3幕もまず、舞台が視覚的に美しくないのである。かつヴァーグナーの音楽との接点を見出すことが出来ない。両者の間隙は私には絶望的に思える。しかし、この間隙こそミュラーの意図するところである。劇作家の彼は自作の中で暗喩、象徴などを好んで用いている。それらと現実とのずれに真実を見る。

 ただ、私はそのような手法には煩わしさを覚えるのみである。前衛的な演劇の世界ならいざ知らずヴァーグナーの楽劇でそこまでする必要はない。とは言うものの、このトリスタンとイゾルデにはとにかく感動した。あんなに物凄いトリスタンはもう二度と聞くことが出来ないだろう。最後のイゾルデの愛の死など鳥肌の立つ思いであった。まさにその詩の中にある共感覚を認識した。知らず知らずミュラーの魔術にかかってしまったのだろうか。

 8月16日、ジークフリート。オーケストラは全くミスを犯さなかったにもかかわらず、緊迫感を欠いていた。やはりレヴァインのテンポの取り方に問題があると思う。歌手陣ではブリュンヒルデのポラスキーが圧倒的。ジークフリートのヴォルフガング・シュミットも健闘したがポラスキーと比べると明らかに力量不足である。特に上背のあるポラスキーと並ぶと伯母に諭される甥という血縁上の構図そのままのように見える。

 ヴァルキューレは神話の世界で抽象的な舞台が主だったが、ここはメルヘンの世界で具象画的に舞台が広がる。第2幕の舞台など森もファフナーの洞窟もばかばかしいほどに具体的である。風が吹くところで実際に木の葉が揺れるなど、およそヴィーラントが見たら嘆かわしく思うことだろう。音楽が説明していることを視覚的に説明することはない。第3幕は再び抽象画の世界に戻る。ヴォータンは第1幕、第2幕では地上をさまよっていたが、ここでエルダのもとへ、すなわち神話の世界へ戻って来る。しかしそこはヴァルキューレまでに見られた宏大な世界ではない。ヴォータンはもはや神々の長ではなく、さすらい人である。エルダの知性も眠っている。ここでの舞台は稚拙なまでに簡素である。

 第3幕を通してジークフリートの成長に主眼が置かれていた。シュミットの歌唱は不安定なところがあるが、この点ではかなり優れている。それぞれの場面での描写が的確である。前年暮れ、恒例のバイロイトのFM放送で彼のジークフリートを聞いたとき、その不安定さの故あまり感心しなかったが、実際に舞台で見ていると演技や表情から伝わって来るものも多く、声の技術上の不安定さを通り越してジークフリートの成長過程を如実に知ることが出来、FM放送とは随分別の印象を受けた。視覚上の問題だけでなく声楽上も1年間で少しは成長したということもあると思う。前年のジークフリートの歌唱はもっと不安定であった。

 ジークフリートは子供から大人へ成長するのである。ミーメが自分の父親ではないと気づく。母親がどのような人であったかを思いをめぐらす。見たことのない母親への思い。それらはすべて成長への契機となる。そして決定的な契機が訪れる。大蛇退治である。この通過儀礼を経て初めて真の大人になる第一歩を踏む。キルヒナーの演出では退治された大蛇が本来の巨人ファフナーの姿で現れる。一種のなぞ解きであろうか。しかしこれは邪道である。大人になるために巨人を倒したのではない。あくまでこれは大蛇でなければならない。

 次の通過儀礼は眠れるブリュンヒルデを目覚めさせることである。行く手に立ちはだかるヴォータンの槍を砕きブリュンヒルデの岩山に向かう。ここで幕が降りてまたもや欲求不満に陥る。忌むべき幕が上がるとそこにはヴァルキューレの幕切れの荘厳な世界とは異なる、色彩感覚のちぐはぐな世界があった。

 しかし偉大なブリュンヒルデは目覚め、甥を諭す。諭されつつジークフリートは真の大人に、真の英雄になるはずであるが、実際にはポラスキーの圧倒的な歌唱力と体格のため最後まで甥っ子という印象を払拭することは出来なかった。いかにブリュンヒルデが素晴らしいとはいえ、最後に英雄になりきれないジークフリートを見るのはやるせない思いである。やはり有無を言わさぬヘルデンテノールが必要である。

 指輪4部作の中で、私はこのジークフリートが一番好きである。もちろん他の3作品も大好きだが、ジークフリートは何か本能的に感知するところがある。例えば、初めて聞いたとき、第3幕の冒頭で第2幕までと異常なまでに異なるものを感じた。それまでと同じライトモチーフを用いているのに、全く違うのである。何が違うのかと問われても説明出来ない。とにかく違うのである。第2幕を書き終えてから、ヴァーグナーは12年間この作品を放置したという事実を私が知ったのは後のことである。12年のブランクが影響しているのかどうか知らないがとにかく違うのである。一般にはヴァルキューレの人気が一番で上演の機会も多い。しかし、私はこのジークフリートにこの上ない親近感を持っている。

 余談だが、第1幕のノートゥングを作る場面の音楽とバッハのパルティータ2番のカプリッチョが同じ旋律を有しているのは何故だろうか。前者はニ短調、後者はハ短調という差はあるが旋律自体は全く同じである。ヴァーグナーはバッハを意識していたのだろうか、それとも単なる偶然の一致だろうか。(続く)