シリンクス音楽フォーラム 25
Concert on Air

コンサート・オン・エア(14)

ディートリッヒ・フィッシャー・ディースカウ

高橋 隆幸


 D.F.ディースカウはもちろん存命であるが、すでに歴史的存在であり、空前絶後のリード歌手として音楽史に名を残すことは間違いない。今でこそ彼はこのように絶対的な存在となっているが、かつては“語りを重視する結果、歌唱の素直さが無い”とか、“手練手管を弄し、深みに欠ける”などと言った批判も少なくなかった。

 そしてこういった不満を持つ人々は、重厚な歌唱を聴かせるハンス・ホッターや、男らしくストレートな歌い振りのヘルマン・プライを支持し、結局のところ、世間のD.F.ディースカウに対する評価は大きく割れていたように思われる。面白いことに、これは指揮者のカラヤンについても同じ様な、そしてより顕著な評価の不一致があり、批判がなされる際にはほぼ決まってカール・ベームや、さらに当時すでに故人であったフルトヴェングラーが引き合いに出されたものである。カラヤンに対する私の評価、またレコードのみで評価する事の危険性についてはこれまでのシリーズですでに述べた次第であるが、D.F.ディースカウについてもレコードは要注意と私は考える。

 私がD.F.ディースカウの実際のステージに接したのは1974年10月10日(大阪フェステイバルホール)であった。曲目はシューベルトの歌曲集であったが、私の印象は“あらゆる意味で完璧”であり、彼に対する批判として持ち出される“軽薄さ”、“技巧や声の美しさに溺れる”と言った要素を見い出すことは困難であった。特に低音は思っていたより深々として威厳に満ちたものであったのが印象に残っている。それ以後、FM放送でシューベルト、シューマン、フーゴー・ヴォルフ等いくつかのライブ録音に接し、その都度、大阪のリサイタルでの印象を確認している。

 私にとって非常に残念であったのは、彼の生の演奏に接したのはこの1回のみであったことである。あの当時、これ程歌えるのならばまだ10年や20年は大丈夫と油断をしていたのである。声楽家というものは器楽奏者と違い、その音楽生命が短いということにもっと早く気付くべきであったのである。もっともD.F.ディースカウの場合、デビューが1948年、そして歌手として明らかな衰えをみせたのを1982年(これについては後に述べる)とすれば、これは異例の長い歌手生命と考えることが出来る。この長さも歴史的なものではなかろうか。

 さてD.F.ディースカウの生の演奏あるいはライブ録音とレコードの違いについて考えてみたい。彼のレコード録音は殆どドイツ・グラモフォン社が担当している。この会社の録音の特徴は音の透明感、特に高音域が非常にクリヤーであることである。全体として品の良い繊細な仕上がりになっている反面、重厚さ、逞しさという点でやや物足りない。D.F.ディースカウの演奏をレコードで聴くとバリトンというよりむしろハイバリトンという感じになり、高音域はファルセットのように聞こえる瞬間が少なくない。

 逆に低音の深々とした響は十分に捕えられていない。従って聴きようによっては“手練手管を弄する”とか“軽薄”という印象を与えてしまう。録音というものはどうしても音の芯を強調し、付随的な音はカットされるのでどのレコード会社が録音しても同じ様な結果であったかもしれないが、例えばEMIが担当すればどうであったろうか、興味のあるところである。

 もう1つ、“語りを重視しすぎる”と言うのはやはりレコードで目立つ特徴であるが、これはことによるとドイツ語を理解できない日本人(および非ドイツ語圏の人々)が特に抱く不満なのかもしれない。この点に関しドイツ語圏での評価はどうなのであろうか。寡聞にして私は良くわからないが、一度しかるべき文献を読んでみたいと思っている。

 私の手元に1枚のCDがある。1957年のザルツブルグ音楽祭におけるリサイタルのライブ(シューベルト歌曲集)で、今までリリースされていなかったとの事である。声の状態は申し分なく、これを聴くと以前、ハンス・ホッター等がライバルとして引き合いに出されていたことが到底信じられない。全く恐るべき歌手であったと言える。

 この録音がもっと早く(少なくとも1960年代)世に出ていたら彼の評価はもっと違っていたのではなかろうか。特に彼の生の演奏に接する機会の少なかった日本では。すなわち、彼の初来日は1963年、デビュー後10年以上であるのでかなり遅い。この録音で少し注意しなければならないのは、高音域がやはりファルセット気味に聞こえることである。これは先に述べた録音というものの宿命なのであろう。しかしライブ録音という条件の悪さにもかかわらず、レコードよりもはるかに彼の真の姿を捕えている。

 話はもう一度レコードに戻るが、レコード録音というものはライブ録音に比べ音響技術的にははるかに良い条件で行われているはずである。しかし、演奏家の真の姿を捕えているとは必ずしも言えない。『カラヤン その(7)』でも述べたが、レコード制作に際し、善かれと思っていろいろ手を加えたことがかえって裏目に出ると言うのは結構多いのではなかろうか。演奏家の真の姿を知るのは1に実演、2にライブ録音であり、レコードのみの判断はかなりの注意を要する、というのが今の私の結論である。

 1982年、私はカナダのトロント大学に留学中で、実験しながらFM放送を聴いていたが、この年のザルツブルグ音楽祭におけるD.F.ディースカウのリサイタルを伝えていた。音程が定まらず、リズムも間延びしていた。コントロールできない声に苛立ち、フォルテでやたら声を張り上げるという信じられないD.F.ディースカウの姿であった。

 これ以後、どの場においても以前の彼の歌唱を聴くことはなかった。そしてレコードではお決まりの“声の衰えは隠せないが、表現は以前にも増して深みを増し……”という解説がなされるのが常であった。しかし私は不世出の歌手D.F.ディースカウの歌手生命は1982年に終わったと信じている。しかしそれ以後、彼の高い知性が、教育、評論および音楽研究に十分生かされているのは不幸中の幸いである。